「奥の細道」謎解き紀行 その7

 

 『奥の細道』を「オクの細道」と考えると、“オク”は数の単位の「億」で、十の八乗という数字になり、八はヤ十はソと読むことで、「ヤソ=耶蘇」となり、それは当時のイエス・キリストの呼び名で、「奥の細道」とは「イエス・キリストの細道」ということになる。もし「奥の細道」が、芭蕉の書いた原文を元に「ヨハネの黙示録」の内容を盛り込むための操作が加えられたのならば、「奥の細道」とは日本版の「ヨハネの黙示録」となる、とした。

 

 こう考えた場合、原作者は松尾芭蕉となるが、問題は誰が編集者であり、実質の『奥の細道』の作者なのかということである。

 

◆「奥の細道」の本当の作者は誰なのか

 

 日本版「ヨハネの黙示録」を完成させたのは松尾芭蕉なのか。芭蕉の他の作品から分析しても、芭蕉本人にそうした能力があったとは考えにくい。では、いったい誰が『奥の細道』を完成させたのだろうか。それは旅に随伴した曾良の旅日記と合わせて比較検討すると分かるのである。

 

 なぜなら「曾良旅日記」には『奥の細道』における全行程の記録が、日記調に曾良の主観で書かれており、これを突き合わせると、芭蕉を背後から操った人物が見えてくるのである。その人物とは、芭蕉に旅の資金を与え、その旅に同行。『奥の細道』の編纂にも資金を出し、口も出した人物。つまり、松尾芭蕉の雇い主である。

 

 

 では、芭蕉の雇い主とはいったい誰だったのか。それは河合曾良である。この曾良という人物こそが、芭蕉を隠れ蓑にして旅に出て、『奥の細道』を編纂した芭蕉の雇い主だったのである。では、曾良とは何者だったのか。その正体は“天下の副将軍”こと「水戸光圀」である。

 

 「え~い、静まれ、静まれ! この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ。え~い頭が高い。控えおろう!」のセリフで知られるTVドラマシリーズ(この長いセリフは大和田伸也が考えたものである)、月形龍之介が主演の昔の東映映画、講談などで知られる「水戸黄門」の主人公、水戸光圀(みとみつくに)だというのだ。

 

TVドラマ「水戸黄門」と映画「天下の副将軍」

 

 さすがに筆者も最初に川尻博士のこの解釈を読んだ時はぶっ飛んだ。だが、この説を読んでから30年の月日を経て、川尻説を裏付けるような事実を発見した。後述するが、それらを調べれば調べるほど、なぜ水戸光圀は天下の副将軍だったのか。光圀がやろうとしたことは本当は何だったのかなど、TVで流れてくる光圀公の姿とは異なる本当の姿が浮かび上がってきたのである。

 

 「水戸黄門」(みとこうもん)とは、権中納言である江戸時代の水戸藩主・徳川光圀の別称かつ、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった「世直し」(勧善懲悪)を描いた創作物語の名称である。かつては専ら『水戸黄門漫遊記』と呼ばれていたが、やはり光圀を国民的な存在にしたのは東野英治郎を主演に起用した「ナショナル劇場(のちのパナソニック ドラマシアター)シリーズ」としてTV放送された『水戸黄門』であろう。

 

三つ葉葵の印籠

 

 TVシリーズでは黄門ほか数役の俳優を幾たびか変更しつつ長寿番組化。レギュラー番組としては2011年12月まで続いた。このナショナル劇場版では脚本家の宮川一郎の案により、ドラマの毎回の佳境で三つ葉葵の紋所(徳川氏の家紋)が描かれた印籠を見せて「この紋所が目に入らぬか!」と黄門の正体を明かすという筋書きが勧善懲悪の決定版シーンとなっていたことは誰もが知るところである。
 

◆『奥の細道』の本当の主役は水戸光圀だった

 

 水戸黄門の人気や知名度は高く、水戸市で開かれる水戸黄門まつり、水戸黄門漫遊マラソンのような行事名などにも取り入れられている。爺さん婆さんは水戸黄門が大好きなのである。実在の水戸藩主である徳川光圀は、国史となる『大日本史』の編纂の為に史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と、藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという記録は一切確認されていない。映画やTVシリーズでは徒歩で移動しているが、実際の光圀は馬などで移動していたとされる。

 光圀は同時代の伝記資料においても名君と評され、庶民の間でも知名度は高かったという。亡くなった時には
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が流行ったくらい人気があったらしい。「水戸黄門漫遊記」の話の成立には、この様な名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると考えられているが、光圀の伝記資料としては、正伝である『義公行実』をはじめ『桃源遺事』『久夢日記』など様々なものがあり、宝暦年間にはこれらの伝記資料を基に実録小説である『水戸黄門仁徳録』が成立し、黄門漫遊譚の起源となっている。

 

「水戸黄門漫遊記」の絵本と講談本

 

 『義公行実』というタイトルの中にも暗号が隠されている。「義公」とは徳川光圀の諡号(しごう)である。さらに「義」とは「我は羊」という字であり、神の小羊とはイエス・キリストのことである。

 

 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(「ヨハネの黙示録」第22章1-5節)

 

ヨハネと「ヨハネの黙示録」の世界

 

 史実の光圀は、家臣の佐々十竹(佐々宗淳)らを各地へ派遣しており、「彰考館」の総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が、後の助さん・格さんのモデルと見られている。幕末になって、講談師がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。

 

 内容は、「天下の副将軍」こと光圀が「お供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをする」というもので、大変な人気作となった。副将軍職は幕府の職制にはないが、水戸徳川家には参勤交代がなく江戸定府であったことから、家臣の中には「いったん将軍にことあるときは、水戸家当主が代わって将軍職を務める」と思いこんで「副将軍」という者もいたという。誰がこの講談を考えたのかというのは分からない。だが、その人物は敢えて「俳人を連れて」という部分を折込むことによって、確実に『奥の細道』を意識していたのである。

 

助さん・格さんと水戸光圀

 

 「奥の細道」の旅の本当の主役は水戸光圀公だったのである。芭蕉の配下の河合曾良になりすまし、大胆にも芭蕉を伴い旅をしていたのである。「月日は百代(ひゃくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も  又旅人なり」とは、「奥の細道」の有名な出だしの文句である。

 

 一代とはだいたい20年である。現役として活躍できるのは、徳川家265年の歴史でも将軍は15代で、一代平均で18年である。すると、百代というのは2000年ということになる。つまり。『奥の細道』が日本の「ヨハネの黙示録」だとすれば、西暦2000年までの黙示的な旅を表していると捉えることができるのではないだろうか。さらに2000年を「イエスの磔刑から2000年」と解釈するなら、まさに「ヨハネの黙示録」が示す「終末の日」の話となる。つまり『奥の細道』には「終末預言」が隠されているとも解釈できるのではないだろうか。

 

 『聖書』の預言は両義預言であり、過去・現在(当時)・未来を行ったり来たりするものであり、まさに時空を超えた「旅人」なのである。奥の細い道の先にあるもの、それこそが水戸光圀公が未来に向けて残したかったものなのではないだろうか。

 

<つづく>