「奥の細道」謎解き紀行 その6

 

 「奥の細道」の旅における重大な使命の一つとは、「隠れキリシタン」たちが保管していた「ヨハネの黙示録」の訳本を探し出し、入手することだったと故・川尻徹博士は読み解いた。なぜなら、当時「ヨハネの黙示録」は禁書扱いで、隠れキリシタンしか持っていなかったからである、と。

 

 江戸時代、キリスト教は大きな意味で「天主教」(てんしゅきょう)と呼ばれたが、布教をしていたのはカトリックの中の「イエズス会」である。「イエズス会」というのは「イエズス会士」たちが作る「The Society of Jesus」のことで、江戸幕府は「耶蘇会・耶蘇教」(やそかい・やそきょう)と呼んだ。この区別を理解していない知識人が日本には多い。

 

「耶蘇」の表記

 

 「なんでもこれからの人は西洋の事を知らなくては行けない。しかし耶蘇教になってはならない」(森鴎外『蛇』)

 フランシスコ・ザビエルを筆頭に、「イエズス会」はカトリック教会の中でも、鉄の意志を持つ堅い信念の会士たちである。つまり、キリスト教伝来とは言っても、当時の日本で宣教されていたキリスト教というのは、カトリックのみである。「耶蘇教」の耶蘇は、中国語のイエスで、「やそ」はその日本語読みである。

 

 一方の「天主教」は、中国語でいうカトリック教会をあらわす表現からの転用で、「天主」という言葉は、キリスト教を中国宣教する際に考え出された、キリスト教の「神」をあらわす中国語由来の表現である。神を「デウス」というのは、ラテン語の神(Deus)という単語をそのままカタカナ語にしたもので、この「デウス」と「天主」は、キリスト教で捉える神、万物の創造者、全知全能の永遠の神を表現しようとした言葉である。

 

◆「キリスト教」の伝来と「オクの細道」

 

 キリスト教が初めて日本に伝来したのは、1549年。スペインのナバラ王国生まれのカトリック司祭で、イエズス会の創設メンバーの1人であったフランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたものだが、それから475年が経過したといいつつも、実際は江戸時代の約250年間は鎖国と禁教令によってキリスト教文化からは隔絶されており、また明治から第2次大戦が終了するまで様々な弾圧が続いたことを考えると、実際にキリスト教が根付き始めたのは戦後の話で、まだ100年も経っていない。

 

 来日前、ザビエルはマラッカで布教活動を行なっていたが、この地で鹿児島出身のヤジロー(池端弥次郎)と出会い、洗礼を施し、彼を通訳兼道案内にして日本に上陸した。1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を開始する。しかし、 この時代、キリスト教の布教は困難をきわめたため、キリスト教の神を「大日」と翻訳、「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。

 

ザビエルとヤジローの像

 

 この時、「大日」と訳したのがヤジローだったが、大日とは「大日如来」のことで、真言密教の教主たる仏であり、密教の本尊である。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語の「神」の表現をそのまま用いるようになったとされている。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる。

 

 ザビエルたちは、10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指して平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。だが、周防の守護大名・大内義隆にも謁見するも、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い、同年12月17日に周防を発っている。ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重罪とされていた「衆道」(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。

 

戦国時代のキリシタン大名たち

 

 ザビエルたちは天皇や将軍から布教の許可を得ようとするが、失敗に終わる。ザビエルは教会宛の手紙の中で、日本人の印象について「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」と高い評価を与えると共に、この国では一度隅々までキリスト教に感化された跡がある」と書いているが、ザビエルは気が付かなかったのである。日本こそが原始キリスト教の国だということを。


 一方で、ザビエルは日本について、「この国は武力では支配することは難しい」と報告している。この時代、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスは明らかに中国をはじめとするアジアを植民地およびキリスト教国にするという野望をもって、ザビエルをはじめとした宣教師を、王や教皇らの許可や命令の下に世界各地に派遣しているが、これは金・銀をはじめとした貴重な資源をせしめるとともに、日本人をアジアに売り飛ばす人身売買という貿易、そしてキリスト教(カトリック)を広め支配下に置くという大戦略の下に動いていたのである。

 

南蛮貿易を描いた絵画

 

 南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへと向かう。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権を得る。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革へ対抗するように、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教だったのである。

 

 イエズス会は1540年に教皇パウロ3世に公認され、会員は軍隊的訓練を受け、厳格な規律を守り、教皇を首長と仰いで旧教勢力の拡大、新教撲滅の信念に燃えて積極的な布教活動に乗り出していた。そして、他国を侵略し、植民地として支配する為、宣教師達がその先遣隊を務めたのである。つまり「スパイとしての偵察」である。彼らが当時の日本を分析し、武力での制圧は難しいと判断し、まずは中国を支配してから日本に取りかかるべきという報告を本国にしていた事なども判明している。

 

 その後、宣教師たちが相次いで来日、南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などを作り、熱心に布教につとめた。ザビエルのあと、ポルトガル人宣教師ガスパル゠ヴィレラ(1525〜72)や『日本史』の著者として知られるルイス゠フロイス(1532〜97)らが九州を中心に近畿・中国地方の布教につとめ、キリスト教は急速に広まった。信者の数は1582 (天正10)年ころには、肥前・肥後・壱岐などで11万5000人、豊後で1万人、畿内などで2万5000人に達したといわれる。

 

長崎の宣教師たちとザビエル記念碑

 

 日本では当時、キリスト教を「天主教」「耶蘇教」以外にも吉利支丹・切支丹(キリシタン)宗などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じた「伴天連」(バテレン)の名で呼んだ。信長はキリスト教を利用したが、秀吉は人身売買を行うキリスト教を許さず、1587年に「伴天連(バテレン)追放令」を発令。貿易目当てからいったんは黙視したが、1614年に家康が「禁教令」を発令。多くの宣教師は国外に追放され、すべての教会が破壊された。
 

 1637年、領主の苛政(かせい)などをきっかけに「島原の乱(天草一揆)」が勃発。この戦いによって2万数千人の一揆勢がほぼ全滅したが、これをキリシタン一揆ととらえた徳川幕府はついにポルトガルと断交、海禁を行った。厳しい禁教のなか、日本に密入国した10人の宣教師が捕らわれ、1644年には最後の宣教師・小西マンショが殉教。宣教師と日本人との交流による宣教は途絶えたが、潜伏したキリシタンのひそかな信仰によってキリスト教の灯し火は消えることなかった。

 

隠れキリシタンが拝んだマリアの掛け軸とマリア観音

 

 表向き日本にはキリスト教徒はいなくなった。だが、彼らは生き延びて全国各地で密かに信仰を続けた。実は芭蕉が名付けた『奥の細道』というタイトルには、意味が込められている。なぜ芭蕉は「オクの細道」というタイトルをつけたのか?

 

 “オク”を数の単位の「億」と解釈した場合、十の八乗という数字になる。八はヤと読み、十はソと読む。「ヤソ」とは「耶蘇」であり当時のイエス・キリストの呼び名である。当時のキリスト教のことを「耶蘇教」と呼んだのはこのためである。つまり、「奥の細道」とは「イエス・キリストの細道」ということになる!

 

 「奥の細道」の旅は元禄二年、1689年のことだが、実際に執筆されたのは、4年後の元禄六年、1693年である。なぜ4年もかかったのかといえば、芭蕉の書いた原文に色々と手を入れ「ヨハネの黙示録」の内容を盛り込むための操作が加えられたからに他ならない。そうした隠されたメッセージとしての性質を持たせて完成させたのが、「奥の細道」なのである。つまり、「奥の細道」とは日本版の「ヨハネの黙示録」だったのである。

 

<つづく>