「奥の細道」謎解き紀行 その5

 

 「歌」とは暗号でりメッセージでもある。前回の連載でも歌の神・柿本人麻呂の謎や「いろは歌」に隠されたメッセージとその壮大なる意図を読み解いていったが、松尾芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世には「俳聖」として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

 

 柿本人麻呂が和歌の神なら、松尾芭蕉は俳句の神様である。ならば、そこに込められた内容もまた、後世に伝えるための重要なメッセージがあるのではないのだろうか。 

 

◆ 「奥の細道」の旅の目的
 

 川尻徹博士は、自著『芭蕉隠れキリシタンの暗号』の中で、『奥の細道』の目的をこう記している。

 

 「『奥の細道』とは、日本の歴史の中でも特筆すべき重大な意義が込められていた紀行文で、未来へ伝達する黙示的メッセージとして作成されたものであった」。

 

 ということは、その時代ではなく、後世の人が謎を解くための「暗号」ということだ。さらに川尻博士は、『奥の細道』を作った目的は、「松嶋の月」が登場する冒頭部分にこそヒントが隠されていると指摘している。

 

松嶋の月

 

 「松嶋の月先心(つきまずこころ)にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、草の戸も住替る代 (すみかわるよ)ぞ ひなの家 面八句を庵の柱に懸置。」

 

 <口語訳> 

 もう心はいつか旅の上-松島の月の美しさと、そんなことが気になるばかりで、二度と帰れるかどうかもわからない旅であるから、いままで住んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風(さんぷう)の別荘に移ったところ、わびしい草庵も自分の次の住人がもう代わり住み、時も雛祭のころ、さすがに自分のような世捨人とは異なり、雛を飾った家になっていることよ、と詠んで、この句を発句にして、面八句をつらね、庵の柱に掛けておいた。(日本古典文学全集「松尾芭蕉集」)

 

 芭蕉は「松嶋の月をぜひ見たいと思った」というのが、旅をするに至った動機として記しているが、松嶋の月とは何を意味しているのか?とはいえ、既に書いたが、芭蕉たちは実際は松嶋を素通りしてしまっている。つまり、「松嶋」「松嶋の月」というのは暗号なのである。川尻博士は、松嶋の月とは『聖書』の「ヨハネの黙示録」(卜訳文)のことであるという!

 

「ヨハネの黙示録」

 

 1992年に『芭蕉隠れキリシタンの暗号』が出版された際に読んだが、その時は「はてさて、何のことやら」などと筆者も感じてしまった。なにせ江戸時代もまだ家光の時代である。その時代に、『聖書』を読んでいた人間がどれほどいたのだろうかと考えると、大して木にもしなかった。

 

 『ヨハネの黙示録』(古代ギリシア語: Ἀποκάλυψις Ἰωάννου、ラテン語: Apocalypsis Iōannis、英語: Revelation)は、『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で最も預言書的な性格を持つ書である。タイトルの「黙示」とはギリシア語の「アポカリュプシス」の訳であり、文中では著者自ら「ヨハネ」と名乗り、終末に於いて起こるであろう出来事の幻を見たと語っている。

 

 そんな『ヨハネの黙示録』と『奥の細道』が、いったいどう絡んでくるのだろうか。

 

 

◆「松・嶋・月」の意味

 

 「松」は「木+八+ム」という字である。「八」は「ヤ:絶対神ヤハウェ」、「ム」は「私有」の意味で「私は有る」と言ったヤハウェであり、イエス・キリストのことである。つまり「松」とは「ヤハウェ=イエスの木」という意味なのである。

 

   神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい、「『わたしは有る』というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と。』」(「出エジプト記」第3章14節)
 

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(「ヨハネによる福音書」第8章58節)

 

 「嶋」は「島」とも書く。「嶋」は「山+鳥」で「山=天界の3柱の神」の存在を告げた「鳥=イエス・キリスト」であるが、嶋は日本のことでもある。嶋とは、周囲が水に囲まれた陸地の意味をもつ字だからである。嶋は14画で、山部に分類されるが、山は古神道(ユダヤ教)では神の降り立つ磐座であり、降り立つ神はヤハウェである。

 

「ヤハウェ」を表すヘブライ文字

 

 「嶋」を「山鳥の嶋」(やまとりのしま)として「島」と区別する意味はここにある。ちなみに異体字の「嶌」(しま)も同様である。つまり、「松嶋」とはヤハウェ=イエス・キリストの降り立つ島のことなのであり、それは日本のことである。ちなみに黙示録を記したヨハネだが、「ヨハネ」とは「יהוה(ヤハウェ)が深く恵む」という意味の名である。

 

 「月」はカトリックの象徴である。一般的に「月」には、「女性」「マリア(母マリア)」「神秘」「変化」などのイメージや象徴的な意味があり、特に「女性」と関連付けられて絵画などにも描かれてきた。周期的に満ち欠けを繰り返すことから、女性のシンボルとして用いられたが、月が女性のシンボルとなった理由にはいくつか説がある。

 一つ目は、月の周期が月経周期と一致していることから、女性性を象徴するものとして捉えられてきたという説で、月が満ち欠けする様子は、女性の生命力や繁栄、再生を表しているとされることもある。二つ目は、月は古くから母性や豊穣、女神と結びつけられてきたことに由来する説で、多くの文化において、月は女神の化身として崇められ、女性の神秘性や魅力、または慈悲深さや穏やかな力を表す象徴となっている。これらの説に加えて、月の静かで美しい姿が、女性の内面的な美しさを表しているとされることもある。

 

聖母マリアと三日月

 キリスト教・聖書における「月」のイメージでは、
聖母マリアを「月のように美しい」と形容する。中世に描かれた《キリスト磔刑》の十字架の両端には太陽と月が描かれており、キリストの死と復活を意味するとされる。太陽と月は「男と女」「夫と妻」を表すことから、太陽はキリストを、月は聖母マリアを意味すると言われる。

 
「聖母マリア信仰」はカトリックの一つで、キリストを身ごもった聖母マリアは生まれつき一切の罪と穢れを持たないという考えを表す《無原罪の御宿り》の図像では、必ず三日月が描かれる。しかし、人間であるイエスの母マリアを「聖母マリア」として信仰することは、キリスト教においても宗派によって考え方は異なる。

 

聖母マリアのペンダント

 

 「マリア崇拝」は「聖母マリア」を崇拝する宗教的行為だが、欧州古代の多神教的信仰、特に女神崇拝が形を変えて引き継がれたものと考えられ、本来キリスト教では禁じられている行為だ。実際、カトリック教会でも「マリア崇敬」とは区別し、禁じているもだが、一部のプロテスタントの教派は、カトリック教会におけるマリア崇敬を「崇拝」していると捉え、批判している。

 

 プロテスタント各教派の見解によると、マリアに対して極端に注意を払うことは、神に対する崇拝から道を逸っているばかりでなく、実際に偶像崇拝に接触するものだとしている。そう、「偶像崇拝」なのである。聖母マリア像だろうが、イエス・キリスト像だろうが、本来はキリスト教では根本的に偶像を作って崇拝してはならず、ましてや人間マリアであり、「聖母」ではないのである。

 

 キリスト教は戦国時代に宣教師たちとともにやってきて、福音書ごとに述べ伝えられていった。その時の日本人にとってはイエス・キリストも聖母マリアも初めて聞く名前だったため、宣教師が布教したそのままを鵜呑みにするしかなかった。

 

フランシスコ・ザビエル

 

 キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、1549年にカトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなかであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみで、キリスト教の日本布教が開始され、宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功、順調に信者を増大させた。

 だが、豊臣秀吉の安土桃山時代になると、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が起こったほか、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買されているという話も伝わり、これを耳にした秀吉は、
バテレン追放令を発布、宣教を禁止する。

 

キリスト教の儀式を行う日本人と司祭

 

 秀吉は追放令を発布するも、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時、宣教開始の地である九州地方でキリシタン大名や信者が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した。

 やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣政権に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康の江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府が禁教令を出し、また「島原の乱」など幕府へ反抗するキリスト教徒が現れたことで、禁教として「鎖国政策」を採ったため、宣教師はもちろん、外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。

 

島原の乱での大量処刑

 一方で檀家制度を整備、キリスト教徒をあぶり出すため、庶民に
「踏み絵」を踏ませた。幼子イエス・キリストを抱く母マリアが描かれたものである。以降、表立ってキリスト教徒は活動は行わず、幕府の力が及ばない地方や山間部など移住、密かに信者としての活動を続けることを余儀なくされた。この信者たちのことは「隠れキリシタン」と呼ばれている。

 

「奥の細道」の旅における重大な使命の一つとは、戦国時代以降に広まった“隠れキリシタン”たちが保管していた「ヨハネの黙示録」の訳本を探し出し、入手することだったのである!なぜなら、当時「ヨハネの黙示録」は禁書扱いで、隠れキリシタンしか持っていなかったからである。

 

<つづく>