「奥の細道」謎解き紀行 その4

 

 『奥の細道』の旅の目的は諸藩の偵察で、「松尾芭蕉」もしくは芭蕉の弟子の「河合曾良」が幕府の隠密として活動したのだろうか。しかし、これまで見てきたように、どうも忍者説にも無理がある。だが、「忍者」という存在自体は「公儀隠密」とか、いわゆる諜報活動に従事していただけではない。忍者が使う「忍術」とは、本来は「呪術」だからである。

 

◆「忍の里・伊賀」と「忍者の祖・聖徳太子」
 

 忍者集団とえば、「甲賀」「伊賀」「風魔」「根来(ねごろ)」「雑賀(さいが)」「服部」「百々地」「戸隠」等が有名である。以下に主な忍者の流派をまとめてみたが、青森から鹿児島まで、様々な流派が存在したことが分かる。中には聞いたことがないような流派もあるが、主要なものは京都、滋賀、三重、和歌山に集まっている。

 

 

 忍者の起源については諸説あるが、初めて忍者を使ったのは「聖徳太子」といわれる。太子が「志能便 /志能備」(しのび)と名づけて登用した大伴細人(おおとものほそひと)が忍者のルーツだといわれ、一説には太子は細人以外にも服部氏などの忍者を使っており、服部氏が伊賀、大伴細人が甲賀忍者の源流になったと言われている。  

 

 とはいえ、太子と忍者のつながりについては、太子の生きた時代の記録には残されていない。初めて言及されたのは、江戸時代に成立した忍術書である『伊賀問答忍術賀士誠』(いがもんどうにんじゅつかざむらいのまこと)では、神武天皇の御代に「奉承密策」した「道臣命」(みちのおみのみこと)を忍術の祖としている。

 

「道臣命」

 

 「道臣命」は大伴氏の祖とされる伝説的人物で、「日臣命」(ひのおみのみこと)とも呼ばれる。神武天皇の大和入りに際し、八咫烏(やたがらす)の後を追って熊野の山中を先導し、天皇よりこの名を賜ったとされている。また神武天皇による大和平定の戦いにも貢献したことで、天皇即位後、現在の橿原(かしはら)市鳥屋(とりや)町である「築坂邑」(つきさかのむら)に宅地(いえどころ)を賜ったとされる。

 

 『日本書紀』によれば、大久米部(おおくめべ)を率い「よく諷歌倒語(そえうたさかしまごと)をもって妖気を掃(はら)い平らげた」とあり、また道臣命を「厳媛」(いつひめ)とし、「斎主」(いわいぬし)として「高皇産霊神」(たかみむすびのかみ)を祀ったとある。前者は道臣命が呪力(じゅりょく)ある言語を管掌(かんしょう)したことを意味し、後者は践祚大嘗祭(せんそおおにえのまつり)にも重要な役割を演じたことを推定させるもので、要は「呪術」を行えた人物ということだ。

 

『忍術應義伝』

 

 『忍術應義伝』 (にんじゅつおうぎでん)では、聖徳太子が甲賀馬杉の大伴細人(細入)を使って物部守屋を倒したことから、太子から「志能便(忍)」と名づけられたと起源伝承を語る。しかし、こうした記述は他の史書から裏付けることはできず、江戸時代になって忍びの起源を遡らせて初代天皇とされる神武天皇や聖徳太子と結びつけた結果とされる。 

 

 

◆「裏天皇」聖徳太子と呪術組織「しのび」
 

 大伴細人の伝説によれば、あるとき細人は不思議な老人から忍術に関する巻物を与えられ、その教えを受ける。聖徳太子は大伴細人に物部氏の調査を頼み、さらに物部守屋を甲賀の地におびき出させる。守屋の討伐に成功した太子は細人の働きを評価、「良き情報の入手を志す者」という意味の「志能便(備)」の名称を与えたとする。
 

聖徳太子

 

 太子は志能便に朝廷内の不穏な動きや政敵の動向を調査させ、敵の情報を把握したとされる。なぜなら太子は女帝・推古天皇の摂政であり、実態は日本初の「裏天皇」だったからである。太子は細人を使って国内状況や民衆感情を把握、政治や訴訟判断の参考にしたとする。中国や朝鮮では早くから兵法書『孫子』において、情報入手が忍術の重要任務であると記述されていた。『日本書紀』では、百済(くだら)から「遁甲術」(とんこう)と呼ばれる忍術の一種が伝えられたとあり、新羅(しらぎ)の間諜(うかみ)と呼ばれるスパイを対馬で捕えたことも記録されている。

 

 聖徳太子は、太子の舎人(とねり)を務めた秦河勝(はたのかわかつ)と服部氏の一族も志能便に登用していたともされる。この服部氏とは秦氏の一族であり、この一族から有名な忍者の服部半蔵が出ている。秦氏は大陸から渡来した殖産豪族で、土木工事や機織物を手がけたことで有名だが、各地の祭礼などで芸能の披露や露店の出店といった商業活動にも従事していた。この秦氏の族長だったのが秦河勝で、太子のブレーンでもあったといわれている。

 


太秦公・秦河勝

 

 秦河勝は秦氏の族長である「太秦」(うずまさ)であり、秦氏は山背国(現在の京都市)の太秦を根拠地とした一族である。秦河勝は聖徳太子に強く影響を与えた人物とされ、『上宮聖徳法王帝説』では「川勝秦公」と書かれる。筆者のこれまでの連載でも書いてきたが、秦河勝とは聖徳太子その人でもある。

 

 秦氏の一族である「服部氏」は伊賀地方(三重県)に住み、伊賀や伊勢の神社に仕えたとされる。聖徳太子は伊賀や伊勢の情報を服部氏に集めさせ、服部氏はのちの伊賀忍者の祖にまでなったという。もしこれが事実であれば、太子は甲賀忍者と伊賀忍者の両方の祖を作ったことになる。さらに古代から日本を裏側から呪術で支配してきたとされる裏陰陽道の秘密組織「八咫烏」を作ったのも聖徳太子と言われている。

 

八咫烏

 

 忍者の祖とされる「道臣命」が神武天皇の大和入りに際し、「八咫烏の後を追って熊野の山中を先導し」という話は、先に「しのび」の組織であり「呪術組織」であった八咫烏が先に作られていたということを示唆しているのである。「八咫烏」とよばれる組織は裏の組織であり、基本的に物部氏で構成されるが、聖徳太子=秦河勝はさらに「志能備」という秦氏の諜報組織かつ呪術組織をつくり、常に全国の情報を京都に集めさせたのであり、だからこそ主要な忍者組織は京都、滋賀、三重、和歌山に集まっているのだ。

 

 ”しのびの者”を「忍者」と呼ぶが、忍者は昭和30年代以降、小説などに使われて普及した呼称である。いわゆる忍者が存在した時代には「忍び」と呼ばれたほか、異名として「乱破」(らっぱ)「素破」(すっぱ)「草」「奪口」(だっこう)「かまり」などがあった。実際、現在も各省庁の中にはひっそりと「草」として動いている方々はいる。その情報は「八咫烏」へと届くのである。

 

 

 忍者は、室町時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、また独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、謀術、暗殺などを仕事としていたとされる。なお、1600年代にイエズス会が編纂した『日葡辞書』では、「Xinobi(忍び)」と表記されており、また、女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍びも存在した。忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作であり、史実としては武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団が有名である。

 

 『萬川集海』によると「忍芸はほぼ盗賊の術に近し」とあり、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。「陰忍」とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して「陽忍」とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。

 

 近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。ちなみに戦前の日本軍のスパイ育成機関が「陸軍中野学校」である。

 

陸軍中野学校

 

 戦国時代の武将たちに使えた「忍びの者」たちは八咫烏の配下の陰陽師で、戦いの吉凶などを占っていた。彼らは信長、信玄、家康など、各戦国大名に使えつつ、その動向を京都の八咫烏へと伝えたのである。江戸時代には「虚無僧」となって全国の諸大名の情報を京都に集めたが、古くは「天狗」と呼ばれた人たちも「八咫烏」の伝令役である。「虚無僧」は尺八を吹きながら家々を回り、托鉢(たくはつ)を受ける僧のことだが、「薦僧 / 菰僧」(こもそう)というのが本来の呼び名で、諸国を行脚して遊行の生活を送り、雨露をしのぐために菰を持ち歩いたからである。

 

 「松尾芭蕉」も芭蕉の弟子の「河合曾良」も虚無僧の格好をしていたわけではない。よって、正々堂々と活動していたのである。彼らは忍者ではない。だが、彼らには大いなる使命があった。その使命は最終的に「京都」へとつながっていく。『奥の細道』の本当の目的とは何だったのだろうか。 

 

<つづく>