「奥の細道」謎解き紀行 その3

 

 「松尾芭蕉忍者説」には続きがある。それは「松尾芭蕉=服部半蔵説」である。さらに『奥の細道』にみられる様々な矛盾点からも松尾芭蕉の忍者説を説く方々がいる。なぜなら、旅の日程が異様だからだ。というのも、出発前に芭蕉は「松島の月まづ心にかかりて」と詠んで、訪れることを心待ちにしていたはずの日本三大名所・松島を素通りして、仙台藩の重要拠点である石巻港や瑞巌寺を見に行っているのだ。

 

 伊達政宗公以来、仙台藩は外様の中でも特に強大な勢力を誇っており、幕府が警戒を続けていた雄藩である。幕府は、創作活動を名目として芭蕉を仙台藩の偵察に行かせたのではないか。また、偵察であることを隠す為のカモフラージュとして書かれた紀行文こそが、『奥の細道』だったのかも知れないという。しかし、もし目的が内定だったのならば、それを紀行文として発表するのは矛盾していないだろうか。

 

伊達政宗

 

 芭蕉、さらには同行者の河合曽良が忍者だったという説もある。果たして二人は隠密だったのだろうか。もう一度、「忍者説」を整理してみよう。

 

◆忍者として隠密の旅?「奥の細道」の旅に出発
 

 松尾芭蕉が弟子の河合曽良(かわいそら)を伴って旅に出発したのは1689年(元禄2年)、45歳のことである。この旅が隠密の旅だったのではないか?という説は、いくつかの疑念から生まれている。

 

 ●疑念1 :忍者としての密偵?松尾芭蕉の不自然な旅程
  出発前、芭蕉は「松嶋の月まづ心にかかりて」と松嶋を訪れることを楽しみにしていた。しかし実際は、肝心の
松島では1泊しかしていないのである。『奥の細道』の序文に登場するほど楽しみにしていたはずなのにである。場所によっては13泊、10泊と長期滞在しているにもかかわらずだ。

 

 このことから、松島観光はカモフラージュで、仙台藩内で他に遂行すべきミッションがあったのではないかという疑念が生まれた。そのミッションとは、仙台伊達藩の動向を探ること。当時、仙台藩は幕府から日光東照宮の修繕を命じられており、これには莫大な費用がかかることから、幕府は不満を持った仙台藩が謀反を起こすのではないかと警戒していたという。

 

松島の夕景

 

 NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』でも描かれていたが、仙台藩主・伊達政宗は、豊臣秀吉も徳川家康も一目置く存在であった。しかしながら、松尾芭蕉が生きた時代は、徳川三代将軍家光の時代である。徳川家光は、伊達政宗のことを「おやじ」と呼ぶほど慕っていたとされ、信頼関係は厚かったといえる。
 

 さらに、仙台藩の南にあった会津藩の藩主は、徳川家光の母違いの弟にして名君の誉れ高い「保科正之」(ほしなまさゆき)である。保科正之は「今後、徳川幕府に反抗するものは、私の子孫ではないと思え」ということを藩のルールにしたほどで、家光の信頼が厚い人物である。仙台藩のことを探るならば、敢えて江戸から芭蕉たちを送り込む必要もなかったのではないだろうか。

 


会津藩藩主・保科正之


 東北以外の地域も忍者として偵察していたのならば、北陸の大藩である加賀国(現在の石川県)前田藩がある。加賀百万石と言われた前田藩主・前田綱紀の母親は、徳川家光の養女だった女性であり、前田綱紀の妻は保科正之の四女である。こちらもまた徳川幕府とのつながりはとても強い。
 

 他にも東北・北陸の藩で、幕府に反抗的なところもあったかもしれないが、東北・北陸の最も有力な2つの藩が、幕府との関係が強かったことを考えると、弱小の藩が反抗してみたところで、すぐにお取り潰しにされてしまう。よって弱小の藩を内偵調査する必要性があったのかというのは考えにくい。

 

 ●疑念2:松尾芭蕉の強すぎる足腰は忍者だから?
  前回書いたが、「奥の細道」は東北・北陸を巡って美濃に入る六百里(約2,400km)、約5ヵ月の旅だった。長い時で1日に十数里(約50〜60km)も歩いたことから、「年齢の割に健脚なのは忍者だからに違いない」と、松尾芭蕉忍者説を後押しした。しかし、車も電車もない江戸時代の人々にとって、40km程度は何でもなかったとも言われている。芭蕉の年齢を考えれば強行軍だったのかもしれないが、この説も信憑性には乏しいといえよう。

 ●疑念3:松尾芭蕉は旅の資金と手形を忍者として入手?
  5ヵ月にわたって旅を続けるには相当な資金が必要である。当時、関所を通るには通行手形が必要であり、庶民の旅行は今よりも不自由だった。幕府の命を受けた隠密旅だったからこそ、芭蕉たち二人は自由に動き回ることができたのではないかという主張もある。

 

松尾芭蕉

 実際、芭蕉は俳諧師としては著名であったが、だからといって決して裕福な生活は送っていなかった。芭蕉は、伊勢や伊賀を治めていた藤堂高虎(とうどうたかとら)の流れをくむ藤堂良忠(とうどうよしただ)に仕えていたことで、俳句に目覚めたとされている。そして、1666年(寛文6年)に良忠が若くして急逝したことで、1675年(延宝3年)に藤堂家を出て、江戸に向かう。

 

 江戸で生活を始めた芭蕉は、当時流行っていた談林派俳諧(だんりんははいかい)に影響を受け、奥州俳壇の始祖と呼ばれる磐城平(いわきたいら)藩藩主の内藤義概(ないとうよしむね)らと交流を持った。しかし、経済的に困窮したのか、1677年(延宝5年)から4年間、なぜか神田上水の水道工事にも携わっている。背景には、藤堂藩が高虎以来、築城や土木水利技術に長けていたからだというが、なんで俳諧師が水道工事をやっていたのかは不明である。

 

 まぁ、現代風にいえば、食うにやまれず本業とは関係ない肉体労働で短期間稼いだ、という感じだろうか。

 

深川の芭蕉庵

 

 その後、宗匠(そうしょう:師匠)となった松尾芭蕉は深川に暮らし、「侘び(わび)、寂(さび)、撓り(しおり)、細み(ほそみ)、軽み(かるみ)」を重んじる蕉風俳諧を確立。1694年(元禄7年)に50歳で他界している。晩年10年間は、敬愛する平安・鎌倉時代の歌人、西行(さいぎょう)にならって吟行の旅に出て、「野ざらし紀行」や「更科紀行」を生んだ、というのが表の話である。

 

 深川の芭蕉庵に留まっているだけなら、弟子たちに生活の面倒を見てもらうことは出来ただろうが、何度も俳諧紀行の旅に立たせるような資金を弟子たちが賄えたとは思えない。さらに芭蕉庵は天和二年(1684)の駒込の大火で類焼、一時、諏訪に移るが翌年には江戸に戻り、 「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈(おい)の小文」「更科紀行」と次々と俳諧紀行の旅に出ているのだ。

 

「野ざらし紀行」の自筆図巻

 

 金に困ったという記録はなく、物乞いをした形跡もない。金銭的には明らかに余裕を持った旅をしている。特に「奥の細道」のような長旅には、現在の金額に換算して最低三千万円はかかったと推定される。そんな大金をどこから捻出したのか。考え得る現実的な推測は、資金面で援助してくれる“スポンサー”がいたということである。

 

 この金銭面の謎は、未だに芭蕉=忍者説をとる方々の重要な柱となっている。なぜなら、東北・北陸の旅から戻ってきた松尾芭蕉は、3年もかけて「奥の細道」をまとめているからだ。その間はどうやって食べていたのだろうか、ということである。さらに3年もかけて完成させた「奥の細道」は事実を元にしたフィクション、創作されたものだという説にまで発展している。要は旅の真の目的を隠す必要があり、手を加えて創作したのだというのである。

 この説をとる人たちの理由に、一緒に旅をした河合曾良が書いた日記「曾良旅日記」には、「奥の細道」とは違う内容が多いというものがある。



『曽良旅日記』

 

 ●疑念4:河合曽良が記した「曽良旅日記」との齟齬と「河合曽良忍者説」
  弟子の河合曽良が記した旅の記録『曽良旅日記』と『奥の細道』の間には、行程などに多数のくい違いが見られるため、松尾芭蕉は特別な意図があって違う日付や内容を記録したのではないかという説がある。しかし実際のところは、奥の細道は旅を終えたあとに推敲(すいこう:文章を何度も練り直すこと)を重ねて完成した作品であり、日付や内容の齟齬は、松尾芭蕉の意図的な演出と考えられている。

 

 意図的に『曽良旅日記』と『奥の細道』の記述を合わせなかった背景には、徳川幕府による安定した政治を続けるため、実際は「奥の細道ルート」のみならず、全国の藩の状況を調査しようとしていたのではないかと疑っている人たちもいる。あくまでも最初の調査のルートが「奥の細道」のルートだっただけで、実は続きがあったのではないかというものである。

 

 

 江戸時代初期、北海道にあった藩は「松前藩」だけで、東北以北には力はない。よって、まずは本州の半分を調査し、残りの西日本分は追って調査するはずだったのではないかと考える方々がいる。実際、松尾芭蕉は「次は九州へ行きたい」といっていたことが判明しているからだ。残念ながら松尾芭蕉は、1964年に50歳で亡くなったが、1709年に河合曾良が九州巡検使(じゅんけんし)随員として九州をまわることになる。よって、実は弟子の河合曽良こそ忍者で、松尾芭蕉を隠れ蓑に諜報活動を行なったのではないかというのだ。

 

 巡見使とは諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査するために、幕府が派遣する役人のことだが、隠密か否かの違いはあれど、やっていることは諜報活動のようなもの。『奥の細道』の旅も含め、徳川幕府の安定した支配体制をつくるために、どの程度、徳川幕府の支配力が全国に浸透しているのかを調査することが目的で、曽良こそ幕府の密命を受けした忍者だったのではないかというのである。


河合曾良


 松尾芭蕉という、俳句の有名人に注目を集めておけば、その陰で河合曾良の注目は少なくなり調査はやりやすくなったというわけである。つまり、松尾芭蕉は河合曾良のサポート役だったのではないか、という。実は、この河合曾良という人物、調べるとかなり怪しいのである。但し、それは忍者ではない。もっと大物のことだったのである。

 

<つづく>