「奥の細道」謎解き紀行 その2

 

 『奥の細道』は俳句による旅日記で、芭蕉自身による挿絵も描かれている後世に残る作品であり、今で言えばオールカラー写真付きの豪華旅行ムック本みたいなものだ。とはいえ、なんで俳人と弟子の二人旅にお金を出すスポンサーがいたのだろうか。旅行雑誌の出版社がお金を出しているのならば話は分かるが、出版元がお金を出している訳では無いのだ。では、この旅にお金を投じることには、いったいどんな目的が隠されていたのだろうか。

 

奥の細道自筆本

 

◆『奥の細道』の序文

 

 「奥の細道」の旅の中で、非常に重要なのが「松島」である。序文にも松嶋にかける想いが綴られている。「奥の細道」の「序文」をご存知ない方もいらっしゃるだろうと思うが、序文にはこう記されている。

 

 月日ハ百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行かふ(こう)年も又旅人也。

 舟の上に生涯をうかへ、馬の口とらえて老をむかふる者ハ、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。

 予もいつれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそハれて、漂泊の思ひやます、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(こうしよう)の破屋(はおく)に蜘の古巣をはらひて、 やゝ年も暮、春立(たて)る霞(かすみ)の空に、白河の関こえんと そゞろ神の物に徒(つ)きて心をくるハせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて 取(とる)もの手につかず。

 

 もゝ引の破(やぶれ)をつゞり笠の緒付かえて三里に灸すゆるより、松島の月、先(まず)心にかゝりて、住(すめ)る方ハ人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、〈草乃戸も 住替る代そ ひなの家〉 面(おもて)八句を庵(いおり)の柱に懸置(かけおく)。

 

松嶋の風景

 

 <現代語訳>

 月日は永遠の旅人のようなものであり、過ぎては来る年もまた旅人のようなものである。
 船頭や馬子は、日々が旅であり、旅そのものを住まいとしている。
 昔の詩人も旅の中で亡くなった人が多くいる。
 私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に誘われていくように、あてもなく旅をしたいという思いを止めることができず、海浜をさすらい、去年の秋、川のほとりの粗末な家に帰って、くもの古巣を払って住んでいたが、やがて年も暮れ、春霞が立つ空のもと、白河の関所を越えようと思って、そぞろ神が乗り移って心をソワソワさせ、道祖神が手招きしているような気がして取るものも手につかない。

 

 股引きの破れをつづって、笠のひもを付け替えて、ひざの三里に灸を据えた頃から、松島の月がまず気にかかって、今まで住んでいた家は人に譲って、杉風の別荘に移ると、
 <このわびしい茅葺の家も住む人が代わる時節となったことだよ。この家にも3月の節句には、華やかにひな人形が飾られる光景が見られることだろう。>
 面八句を、庵の柱に掛けておいた。

 

 序文にその地名が出てくるのは「松島(松嶋)」だけだ。序文に出てくるということは、非常に重要なメッセージで、この旅の目的は、まるで「松島の月」を見に行きたいからの如く書かれている。そして「道祖神」である。「道祖神が手招きしている」と、その地「松島」には何が隠されているのだろうか。その謎解きの前に、まずは松尾芭蕉という人物について見てかねばならない。なにせ「松尾芭蕉は忍者だった」という説があるためだ。

 

 

◆松尾芭蕉「伊賀忍者説」
 

 松尾芭蕉正体は「忍者」で、奥の細道は幕府の密命を受けた隠密の旅だったという説がある。1644年、芭蕉は伊賀の上野(うえの)で産声をあげた。つまり故郷は伊賀忍法で有名な「忍(しのび)の里」だったのである。よって、芭蕉は忍者だったのだという。さらに芭蕉は伊賀流忍術の祖とされる「百地丹波」(ももちたんば)の子孫で、忍者の血を受けついでいると言われていることも影響している。

 

松尾芭蕉は伊賀忍者だったのか?

 

 芭蕉の父親は忍者と関係が深い「無足人」(むそくにん)で、苗字と帯刀を許された準士分の上層農民の松尾与左衛門(まつおよざえもん)である。母親の名ははっきりしないのだが、一説には、伊賀流忍術の開祖・百地丹波の末裔が母方の家系と言われている。要は忍者の里に生まれ、忍者の血を受けついでいるが、松尾芭蕉の「忍者説」のひとつの根拠となっている。

 

 さらに「奥の細道」の旅で、毎日40キロ近く歩く体力があったことや、全国をめぐる旅費がかなりの高額だったこともあって、忍者説が生まれたのである。たとえ芭蕉が「奥の細道」の旅で行脚した頃には既に名を馳せていたことで、各地にパトロン的な存在がいたとしてもおかしくはないが、まとまった資金を工面するのは大変なことだったはずである。よって、俳諧の天賦の才能がある芭蕉に、旅費を工面する代わりに各地の様子を報告せよという話を幕府が持ち掛けたとしてもおかしくはない。

 

芭蕉の銅像


 「芭蕉=忍者」説は、定説になりつつある。芭蕉の父・松尾与左衛門の旧姓は伊賀忍者の血を引く柘植氏であり、母もまた伊賀忍者の名家・百地氏(桃地氏)の一族であった。この百地氏の祖が百地丹波だが、織田信長が伊勢国を攻めた1578年(天正6年)の天正伊賀の乱を戦ったことで知られている。戦国時代には各豪族がそれぞれ忍者を雇っており、同じ一族であっても敵味方であったケースも多い。

 

 『奥の細道』の記述に従って、芭蕉たちの移動距離とスピードに注目してみると、総移動距離は約2400キロで、彼らは150日で移動している。滞在した日を引いて計算すると、長いところで一日50〜60キロを徒歩で歩き続けたことになる。この時代の1日の移動距離の参考として飛脚が90キロ・参勤交代が40キロ、籠(かご)が24キロと考えると、松尾芭蕉たちは、かなりのハイスピードで歩いたと考えられ、さらに芭蕉がこの頃四十六歳だったことを考えれば、「人生わずか50年」と言われた江戸時代において、その数字は超人的であるとも言える。

 


『奥の細道』の全工程

 

 現代においても普通の人間であれば、50〜60キロというのは1日の移動距離としてはかなりハードな距離だ。よって、「忍者として松尾芭蕉が鍛えられた人間であると考えれば、歩くことも可能な距離といえる」というのが芭蕉・忍者説の根拠の一つである。さらに「奥の細道」には不自然な点が多くあることも「芭蕉は忍者」であり、東北・北陸の内偵が目的だったのではないかといわれる所以でもある。もし、芭蕉が忍者だとしたならば、身元を隠す必要があったとも考えられる。

 

 しかしながら、この時代に「忍者」という職業はない。「忍び」「草(くさ)、草のもの」「“素破(すっぱ)」「乱破(らっぱ)」などといわれるスパイ活動を得意としていたものを指す。よって「芭蕉は徳川家の御庭番だった」ということを言う人もいる。「御庭番」(おにわばん)は、第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職で、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指す。TVドラマ「暴れん坊将軍」にも頻繁に登場するので、皆さんご存知だろう。

 


「暴れん坊将軍」の御庭番


 但し、諜報活動といえど、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれており、実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職である。「御庭番」は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配下だった。

 

 彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となっていた。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。


八代将軍・徳川吉宗

 

 「御庭番」の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの「薬込役」(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちのことで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。但し、紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。

 徳川吉宗が「御庭番」を新設した理由としては、徳川家康以来幕府に仕えてきた
「伊賀者」や「甲賀者」が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味合いもあったとされている。

 

 松尾芭蕉は「御庭番」だったのであろうか。だが、根本的に吉宗が8代将軍であったのは、享保元年(1716年)8月13日〜延享2年(1745年)9月25日まで。松尾芭蕉の死没は元禄7年10月12日(1694年11月28日)である。つまり、まだ「御庭番」は整備されていない頃だ。ならば、伊賀者の忍者だったのだろうか。その場合、目的は仙台「伊達藩」の監視が目的だったのであろうか。

 

<つづく>