「奥の細道」謎解き紀行 その1

 

 今回の自分の裏テーマは「故・川尻徹博士に捧ぐ」である。ご存知の方もいらっしゃると思うが、一般的に川尻徹博士は「とんでも本を何冊も出した医者にしてノストラダムス研究者」という風にレッテルを貼られている方だ。川尻博士は1931年〈昭和6年〉生まれで、1993年〈平成5年〉9月に他界された精神科医(医学博士、東京慈恵会医科大学)であり予言研究家でもあった。

 

 精神科医としての様々な研究もあるが、独特の予言解釈で知られる。1986年に発売された『滅亡のシナリオ』(祥伝社ノン・ブック)は、それまでのノストラダムス本とは全く違う視点で描かれていて、かなり斬新だった。どこが違うのかと言えば、それは数々のアドルフ・ヒトラーの写真を医者として分析したことだ。


 

 トンデモ本などを主に収集する「と学会」の会長だった山本弘は著書『トンデモ本の世界』の中で、川尻徹の著書を見てトンデモ本にはまったと書いているように、その後に川尻博士が出した著書をトンデモ本大賞に選んでいる(1992年の第1回トンデモ本大賞選考会で『ノストラダムス戦争黙示』『ノストラダムス複合解釈』が第1回日本トンデモ本大賞を受賞)。

 

 川尻博士のユニークな視点は、ノストラダムスの予言を信じるのみでなく、それが的中しているように見えるのは世界史を裏で操る「影の組織」が予言通りに行動しているからだ、とする独自の解釈を展開したこと。そして、その組織は神道に関わっているところまで見通していた点だ。川尻博士はその存在は知らなかったようだが、この「影の組織」とは「八咫烏」のことである。そして、世界の裏側を操っていた闇の組織はフリーメーソンになりすましたイルミナティである。

 

 この時代、まだ飛鳥昭雄氏が「八咫烏」の存在を表には出していない。よって、川尻博士はうっすらとその存在には気付いていたが、「八咫烏」やロスチャイルドに乗っ取られた「後期イルミナティ」の核心には迫れなかった。だからこそトンデモ本にされてしまったのであるが、博士はノストラダムスの予言以外に、『奥の細道』や歌川広重の『東海道五十三次』にも予言のメッセージがこめられているとした「解読」を行っており、『奥の細道』については『芭蕉隠れキリシタンの暗号』(徳間書店)として発表されている。

 

『芭蕉隠れキリシタンの暗号』と松尾芭蕉

 

 今回、筆者が試みたのは、川尻博士がユニークな視点で解き明かした『奥の細道』についての謎をさらに深堀りしたことである。きっと川尻博士が存命だったら、こういう結論を導き出していたであろうというものに基づいて、改めて『奥の細道』と俳人・松尾芭蕉の謎を追いかけてみることとした。
 

『おくのほそ道』と「松尾芭蕉」

 

 『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人・松尾芭蕉による元禄15年(1702年)に発刊された紀行及び俳諧である。日本の古典として名前を知らない人はいないほどの紀行作品の代表的存在で、芭蕉の著作中で最も著名な作品である。なお、中学校国語の検定済み教科書では、すべて「おくのほそ道」の表記法をとっているが、筆者は『奥の細道』という表記で謎解きを進めて行く。なぜなら、そこにこそ答えが示されているからだ。

 

 「奥の細道」は、芭蕉が崇拝する僧侶であり歌人であった西行(西行法師)の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良(かわいそら)を伴って江戸を出発、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程は約600里(2400キロメートル)、日数は約150日間で東北・北陸を巡り、元禄4年(1691年)に江戸に帰っている。西行500回忌の記念すべき年に、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅であったとされている。

 

「奥の細道」の約2400キロに及ぶ工程

 

 「奥の細道」は「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭より始まり、作品の中に多数の俳句が詠み込まれている。句を詠んだのは、日本で最も有名な俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)である。芭蕉は寛永21年(1644年)に生まれ、元禄7年10月12日(1694年11月28日)まで生きた、江戸前期の俳諧師である。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身で幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)と言った。俳号としては初め宗房(そうぼう)と称し、次に桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。

 

 芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立、後世には「俳聖」として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだという。

 

松尾芭蕉

 

 一般的には『奥の細道』は「松尾芭蕉の作品」と認識されており、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。つまり、終点は美濃の大垣(現在の岐阜県大垣市)であって、江戸に戻ってくる部分はないのである。

 

 元禄2年3月27日(1689年5月16日)に芭蕉門下の「河合曾良」(かわいそら:河合惣五郎)を伴い、上野の谷中を立ってから東北、北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文が『奥の細道』として残されたものだが、曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。そう、『奥の細道』は二人旅だったのである。

 

松尾芭蕉と河合曾良

 

◆天才俳人「松尾芭蕉」と『奥の細道』の不可解な点

 

 数多くの有名な句を遺した芭蕉の絶大な人気は、いまだ衰えることなく、日本中の俳句愛好家たちの心を魅了し続けている。“俳句の第一人者“と言えば、松尾芭蕉を連想する人が多い。

 

 「夏草や兵どもが夢の跡」

  (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町
 

 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

  (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺
 

 「五月雨をあつめて早し最上川

  (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町

 

 1694年に50歳でこの世を去るまで、芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』『鹿島詣』『更科紀行』『嵯峨日記』といった歴史に残る紀行文や日記を遺している。だが、俳人としての天才的な才能とは別に、違った側面も兼ね備えていた。多角的に検討してみると芭蕉の俳諧の旅の裏には、実はとてつもなく大きなバックが控えていたと推定せざるを得ないのである。

 

 そして、その旅は、単なる一俳人としての気儘(きまま)な旅ではなく、巨大な意志に基づいたある大きな目的を含んでいたことは間違いない。一介の俳人の旅を「隠れ蓑」として、その目的は遂行されていた。それが最も顕著に表れているのが『奥の細道』なのである。

 

 

 『奥の細道』にはあまりにも不可解な点が多い。いくら有名な俳人であっても、あのような長い行程の旅を、なぜ単なる俳諧師が苦もなく出来たのか。その資金は、どこから調達されたのか。同行者であった河合曾良は、行く先々で大層なもてなしを受け、様々な料理を楽しんでいる。まるで現代のTVの全国ご当地グルメ番組のみたいなものなのだ。現代のTV番組がスポンサーで成り立っているのと同様に、『奥の細道』にもまたスポンサーがいてもおかしくない。

 

 なぜ、そのような金のかかる旅が可能だったのだろうかと考えればスポンサーの存在に行き着くが、その目的が分からない。仙台の青葉城では、曾良は追手門から城内に簡単に入っているが、一介の俳諧師の弟子になぜそのようなことが許されたのか。これが主人公である松尾芭蕉ならまだしも、芭蕉の弟子の曾良なのである。松島で曾良は「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」という句を詠んでいるが、どうしてこのような句を遺したのかも不明なのである。

 

 いったい『奥の細道』にはどんな目的が隠されていたのだろうか。

 

<つづく>