「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その34

 

  令和3年に開催された「聖徳太子1400年遠忌」の際、全国各地で開催された「千四百年御聖忌記念 特別展」にて「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」(ごだいごてんおうしんかんぼん)が展示された。「四天王寺縁起」とは四天王寺の歴史や逸話が記されていたもので、元の「根本本」は聖徳太子の自筆とされるものという。「宸翰」(しんかん)とは天皇自筆の文書のことで、「後醍醐天皇宸翰本」は、建武2年(1335)に後醍醐天皇が四天王寺を訪れた際、太子自筆の書を書き写し、さらに自分の手形を「朱」で押印したものである。

 

 「太子直筆の書」と呼ばれるものは、太子が自筆で書いたものに太子が自分の手形を「朱」で押印したものと伝えられているが、現在は非公開である。太子の手印のある自筆の書を表に出すのは畏れ多いということで後醍醐天皇が書き写して残したという。 

 

「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」

 

 「後醍醐天皇宸翰本」の中の手形を「朱」で押印した部分をよく見ると、手形の中央上部に「穴」が開いているのがお分かりだろうか。これは南朝の祖である後醍醐天皇が、天皇になるための天皇家の秘儀「大嘗祭」において、五寸釘を使って掌に穴を開けたのである。天照大神の死と復活の儀式を天皇自らが再現することを通じて、この国を天照御神の代わりに収める大神権を授かり、神道の長となる儀式である「大嘗祭」だからである。

 

 古代の天皇が「大嘗祭」で掌に穴を開ける儀式を行ったのは、天照大神の正体が「イエス・キリスト」だからで、この儀式において「イエス・キリストの死」を再現、現人神として地上に現れたイエス・キリストと同じように「痛み」を自らの体に刻みつけたとされる。大嘗祭はイエス・キリストを十字架に磔にした際に両手と両足に打ち込まれた「聖釘(五寸釘)」を使って、「イエスの磔刑」を再現する儀式だったのである。後醍醐天皇を最後に、実際に手足に穴を開ける儀式は行われなくなったというが、現在の天皇陛下も「聖釘」を掌と足の甲に当てる儀式は行ったとされ、この「聖釘」は、今も伊勢内宮に祀られている。

 

◆後醍醐天皇と「壺」
 

 「愛染明王」は、貪欲のまま浄菩提心に昇華させ煩悩即菩提を説く密教の尊像で、「不動明王」は諸種の障害を除き、魔衆を滅ぼして修行を成就させる尊像である。南北朝時代、後醍醐天皇は空海の「真言密教」に傾倒、「愛染明王」を守護神とし、「隠岐」を脱出した後の1334年、天皇家の「玉体安穏」(ぎょくたいあんのん)を祈願して愛染明王像を創り高野山に安置、今も「金剛峯寺」の壇上伽藍「愛染堂」に祀られている。

 


愛染明王と不動明王


 「隠岐」の「碧風館」の後醍醐天皇の懐中物のレプリカを見ると、左内面の「愛染明王」は名の通りだが、右内面は「不動明王」ではなく、「壺」が彫られているの。当時の天皇家で「壺」といえば、第21代雄略天皇が蓋を開けた時に白い煙が立ち上った黄金の壺を意味した。『日本書紀通釈』には以下の内容が明記されている。
 

 「天下に朕が開きて見られざるのなしと宣(のたま)いて、この黄金のつるべ、すなわち甕の口を開かせ給いてたるに、中より白い煙が出でたるより、畏(かしこ)みてこれをもとのごとく密閉せしめたり」
 

 第21代・雄略天皇が黄金の壺(釣瓶:つるべ)の口を開けると白い煙が出てきて、恐れをなした天皇は蓋を締めたと伝えている。まるで浦島太郎の玉手箱のような話である。だが、初代神武天皇から第25代武烈天皇までが同一人物の為、雄略天皇も同一人物である。そして、この初代・神武=応神=雄略という名を持つ天皇、そしてその後を受けた第26代・継体天皇の陵(みささぎ)が河内の巨大な前方後円墳群である。

 

仁徳天皇陵と取っ手のついた「マナの壺」

 

 前方後円墳の形は、ひっくり返すと取ってのついた「壺」である。前方後円墳は「瓠塚:ひさごずか」「ひょうたん古墳」と称されたが、日本で一番古い社には「ひょうたん神社」を称するところがある。それは丹後一宮で「元伊勢・本伊勢」を称する「籠神社」(このじんじゃ)で、別名を「瓠宮:このみや、ひさごのみや」と言う。「籠」も「瓠」も「壺」も全て「こ」と読む。

 

 かつて「籠神社」には神宝として「黄金の壺」が伝わっていたという。籠神社の名称には、「壺(この)神社」の意味も有り、その壺の名は「真名之壺」(まなのつぼ)と呼ばれたと言う。高天原の聖なる水をくむための器のことで、籠神社の宮司が代替わりとなる際には、真名之壺の黄金を削り、「天の真名井」の水を真名之壺に汲んで飲んだと伝えられている。そして、この「天の真名井」があるのが「籠神社」の奥宮である「眞名井神社」(まないじんじゃ)だった。

 

「眞名井神社」の「天の真名井」

 

 宮中にあった「黄金のつるべ(壺)」は、「眞名井神社」の御神体だったのである。だが、ある時、真名之壺は神隠しにあったとされ、今はないのだという。では、それは現在どこにあるのか。「伊勢神宮」の「外宮」である。外宮の地下宮に御神体として祀られているのだ。

 

 この「真名之壺」とは、ユダヤ三種の神器の一つである「マナの壺」という黄金の壺のことで、それを日本にもたらしたのは「失われた10支族」の大王であった神武=応神天皇である。だが、神武=応神天皇は、大和朝廷をする際、日本にいたヤマト民族の王族に入り婿し、神宝であった「マナの壺」を渡している。それが「籠神社」の神官一族であり、ユダヤ教徒「物部氏」の大王であった饒速日命の末裔である「海部氏」だったのである。

 

つるべ井戸


 「釣瓶」(つるべ)を「甕」(かめ)とも称するように、上部の「蔓」(つる)と瓶の「甕」(かめ)「瓢」(ひさご)で「瓢箪」(ひょうたん)を意味する。昔ながらの井戸を「つるべ井戸」とも称するのは、「つる」と「かめ」が一つになっているからで、ここに「籠神社」の別名が「瓠宮:ひさごのみや」としている意味が隠されている。

 

 そして、「籠神社」の隠し歌「かごめかごめ」の中に、「鶴(つる)と亀(かめ)が統べった」とあるのは、さらに理由がある。それは「隠岐」の島前と島後のことだからだ。

 

「瓢箪(ひょうたん)」と「隠岐」=「鶴と亀」

 

 島前の「甕」(かめ)と島後の「蔓」(つる)で瓢箪型の「隠岐」を示唆しているのだ。更に「瓢」を象徴とする「眞名井神社」の御神体「眞名之壺」を暗示している。つまり隠岐を脱出した後醍醐天皇の懐中物の「壺」の意味はここにあるのだ。

 

 「籠釣瓶」(かごつるべ)という言葉があるが、水も漏らさぬ刀の意味で、「籠神社」の鎮座に「金箔の箱」とユダヤ三種の神器の一つ「アロンの杖=草薙之剣」を「隠岐」から運び込んだ物部氏の祖「徐福」(じょふく)の使命を指している。そして、その隠岐に関わる後醍醐天皇と空海には共通点がある。

 

後醍醐天皇と空海の像は全く同じ構図!

 

 よく見かける後醍醐天皇と空海の像であるが、構図が全く同じなのである。左を向いた角度から、密教の法具である「三鈷杵」(さんこしょ)を持っている構図も同じなのである。三鈷杵は密教法具の「金剛杵」(こんごうしょ)と総称されるものの一種。 金剛杵とは、修法(しゅほう)の時に、これを持つことによって心中の煩悩を破り、本有仏性(ほんうぶっしょう)の姿を明らかにするもので、中央に握りの把(つか)、両端に突起の鈷(こ)をつくるものをいう。

 

 杵形の把(つか)の両端に鈷を付け、鈷が一本のものを独鈷杵(とっこしょ)、三本を三鈷杵(さんこしょ)、五本を五鈷杵(ごこしょ)と呼ぶ。 また、鈷のかわりに宝珠や塔を表した宝珠杵、塔杵もあり、これに独・三・五の三杵を加えて五種杵という。この「一・三・五」とは「指」の出し方のことで、秘密のサインでもある。なぜ、二人が同じ「しるし」を表しているのかと言えば、それは「天皇」であり「預言者」だからである。

 

 空海は桓武天皇のご落胤にして、秦氏、物部氏の王家の血を次ぐ者にして、イエス・キリストの預言者だった。その空海は、籠神社の娘であった「真名井御前」から、籠神社の神宝「潮満珠・潮干珠」を授けられた者だった。そこにこそ弘法大師・空海の最大の謎が隠されている。

 

<つづく>