「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その33


 住吉大社に祀られる「和歌三神」の一柱である「住吉明神」は、現人神として「和歌」で託宣を行ったとあるが、託宣とは「神のお告げ」のこと。つまり、和歌とは神から与えられた預言を「歌」の形にして伝えるものである。そして「明神」とは「日+月」で陰陽を示し、夜空に輝く明星にして太陽神でもあるイエス・キリストのこと。それは「住吉明神」の正体であった。

 

 「歌」を詠む者たちは「カッバーラ」の呪術を使って、預言を和歌の中に暗号として隠して伝えてきた一族のことである。その一族の聖地を「和歌山」と称したのであるならば、空海もその一人であり、尚且つ「和歌山」には八咫烏の聖地「熊野三山」もある。

 

◆藤原定家と『小倉百人一首』

 

 和歌研究家の太田明は、一般的には「歌留多」(かるた)で知られる『小倉百人一首』には規則性と法則性が構造的に隠されている事実を数学を用いて証明された。それは「10×10=100」の升目に「歌番号」が法則的に配置される”10次魔方陣”であり、特殊配置で編纂した藤原定家の仕組んだ高等数学が隠してある。

 

藤原定家

 

 大田氏は「古今伝授」(こきんでんじゅ)の暗示を使い、百人一首の番号や和歌に含まれる「ことば」と選ばれた「歌人」のつながりを読み取ることによって、10×10による「10次魔方陣」を見つけたのである。さらに『小倉百人一首』の一定の規則性と法則性が構造的に隠されている事実を数学を用いて数値的に証明してみせた。さらに太田明氏は「三鳥」の口伝から、『小倉百人一首』に以下のことを読み解いている。
 

 ■百千鳥(ももちどり):百+千鳥式(番号を己字の型に配列していく方式)
 ■呼子鳥(よぶこどり):子を呼ぶのは母=ハハで、「8×8」。百首を「8×8」で「64首」と「36歌仙」を含む「36首」に分けよということ  
 ■稲負鳥(いなおおせどり):稲負→ 持ち米 → 餅 → くっつく →「36+64」で 1~18、83~100までを除いた
64首(呼子鳥)を内側の8×8の魔方陣に組み、そこに百千鳥に寄って組まれた外側の対(1と100、2と99等)を稲負鳥によってくっつけるということ。

 

「10次魔方陣」

 

 この法則性は「10×10=100」の升目に「歌番号」が法則的に配置される「10次魔方陣」で、藤原定家の仕組んだ高等数学「和算」が隠されている。「百人百首」の歌集をあえて「百人一首」と、百人のはずが本当は99人しかいないという仕掛けが施されており、99の意味は熊野に続く「九十九王子」(つくもおうじ)の「八咫烏」の「熊野信仰」が加わっている。「王子」は参詣途上で儀礼を行う場所でもあり、王子とは熊野権現の御子神でもある。

 

 「三木三鳥」の「三鳥」とされる「喚子鳥」(よぶこどり)、「百千鳥」(ももちどり)、「稲負鳥」(いなおおせどり)の仕掛けは、八咫烏のトップ3名による「三羽烏」=「金鵄」(きんし)をも示唆している。この裏には三本足という「八咫烏」が隠されている以上、「藤原定家」は「カッバーラ」を用いる「漢波羅」(かんぱら)、つまり裏の「陰陽道」の呪術を極めていたというこである。そして、それはまた柿本人麻呂、空海も同様である。

 

「九十九王子」と「熊野参詣街道」

 ユダヤ密教カッバーラを用いるカバリスト「漢波羅」である藤原定家の末裔の「冷泉家」からすれば、天皇徳仁陛下の身に何かが起きること=徴(しるし)の樹種
「梓」(あずさ)の音読「し」から、また古く版木(はんぎ)に梓の木を用いたところから「上梓」の漢文読のみ〝梓に上す:しにじょうず〟「死に上手=死んだふり」が行われるのかもしれないと飛鳥昭雄氏は言う。何故かと言えば、「冷泉家」は、最後の天皇陛下の京都帰還の仕掛けを百人一首の中に封印していたからである!!

 

 『日本書紀』は最古の三柱を「原初三神」とし、『古事記』はそれを「造化三神」とし、各々を「独神」の三柱とする。同時にそれは物部系古神道(ユダヤ教)の「一神教(三位一体)」であると共に、秦氏系神道(原始キリスト教)の「父・子・聖霊」の「三神教(三位三体:三体同位)」を表し、皇室の御宝の「三種の神器」を一つの「契約の聖櫃アーク」に納める「璽」として表す。

 


熊野三羽烏

 

 

 

三鳥を意味する様々な家紋

 

 カッバーラの奥義「生命の樹」の三柱の秘密を人類に明かしたのは創造主ヤハウェが受肉した現人神イエス・キリストだが、磔刑であの世に追放されてしまった。その神が最強の祟り神の「艮の金神」(うしとらのこんじん)の正体で、大和民族は己の罪を背負わせ人柱に掛けて殺した皇祖神の祟りを恐れ、年中、正月、五節句で祟り封じの儀式を行い続け、「須佐之男命」に退治された「八岐大蛇」の金色の大蛇を「建御名方神」(タケミナカタノカミ)とし、水潟(みなかた)である「諏訪湖」の底に封印した。

 

◆「諏訪大社」と日本の四隅

 

 諏訪湖は「下社:秋宮」「下社:春宮」「上社:前宮」「上社:本宮」で囲う聖域の「境内」を、四隅の縄張りである「境:結界」で封じているが、『小倉百人一首』は「艮の金神」の出現と無縁ではなく、カッバーラ、数秘術ゲマトリア、文字入替のアナグラム、無限構造フラクタル等、様々な高等数学と霊感を規則的に「10次魔方陣」に仕掛けていた。それが「和算」の正体である。

 

 「和算」から出て来る数値には深い意味があり、藤原定家が懇意にした「後鳥羽院」が流罪で崩御した「隠岐」の地に、「艮の金神」出現の仕掛けが藤原定家によって仕掛けられていたのである。

 

諏訪大社の下社:秋宮、下社:春宮、上社:前宮、上社:本宮

 

 日本の真ん中に位置し、そこに「四方」が備わっている場所が「諏訪大社」で、諏訪大社では昨年2022年、7年毎の「御柱祭」(おんばしらさい)が開催された。「御柱祭」は式年に行われる御柱の曳行(えいこう)と建立を中心とした祭事である。諏訪大社の上社(本宮、前宮)と下社(春宮、秋宮)の4社に行われる御柱祭は、7年目ごとの寅(とら)・申(さる)の歳を式年とし、神殿の造替、遷宮を行うもので、正式名称を「式年造営御柱大祭」といい、その全てが諏訪の氏子の奉仕によって執り行われる諏訪大社最大の神事である。

 

 諏訪の東西南北の4社にそれぞれ2本づつ「柱」=「神」を立たせることで、日本の四方にしっかりと杭を打ち込み動かないようにするものだが、2本の柱が立つとは2人の神が立つこと。それは神道的には荒御魂の「スサノオ」と和御魂の「天照大神」が立つことであり、ユダヤ的には旧約の神「ヤハウェ」と新約の神「イエス・キリスト」が並び立つことを意味する。これは日本という国の真ん中に「柱」を立たせる=神を祀ることで、この国の安寧と五穀豊穣を祈るとともに、諏訪に封印されたとされる「艮の金神」が出て来ぬように封じているということでもある。

 

2022年の「御柱祭」

 

 「諏訪大社」の創建年代は不明だが、日本最古の神社の1つとされるほど古くから存在し、中日本の神社仏閣では伊勢神宮・熱田神宮・善光寺よりも古い。『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)には「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。古代に「軍隊」を率いていたのは物部氏である。


 上社本宮には本殿が設けられていない。山がご神体だからだ。本宮の神体は現在「守屋山」と一般的に認識されているが、明治時代の始まりまでは諏訪明神こと建御名方神の「御正体」(依り代)とされた諏訪氏出身の「大祝」(おおほうり)が上社の神体ないし現人神として崇敬されていた。江戸時代の文献には守屋山に筆頭神官の神長官を務める守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)の霊を祀るとはあるものの、守屋山を上社の神体山とうかがわせる記述はない。

 

 ポイントは「山」、そして「モリヤ」という名だ。

 

守屋山

 

 守屋山の頂上には「磐座」があり、この守屋山には、不思議な伝説がある。それは旧約聖書の『創世記』にでてくるエルサレムの「モリヤ山」の記述と同じだという。『創世記』では神がアブラハムに息子イサクを「モリヤの地」に連れてくるよう命じている。神が命じた山の上で息子を犠牲にするよう、アブラハムに求める場面である。アブラハムはモリヤ山を「ヤフア・イルエ(ヤハウェがそなえる)」と名付けた。『歴代誌下』ではソロモン王が「エルサレムのモリヤ山」で神殿の建築を始めている。現在の「神殿の丘」である。

 

 モリヤ山はソロモンの父ダビデの前に神ヤハウェが現れた場所でもある。ユダヤの伝承では、ソロモン王が神殿を建てたエルサレムのシオン山がモリヤであるとされており、歴代誌では、「エルサレムのモリヤ山上」と言われている。さらに、アブラハムがイサクをささげようとしたのが、オルナンの打ち場だと言われ、今日、「聖岩」(イスラム教の聖地)といわれているものが存在する。イスラム教徒は、この聖岩を「アブラハムの場所」と呼んでいる。

 


守屋山の磐座


 守屋山の磐座は、アブラハムが息子イサクを燔祭にしようとしたモリヤ山の聖岩の意味で置いてあるのである。もちろん、それを行ったのは原始ユダヤ教徒=古神道の物部氏である。諏訪大社の「御頭祭」では、紅の着物を着せられた「御神」(おんこう、おこう)と呼ばれる8歳ぐらいの子供が柱に縛り付けられる。

 

 そして、神官がこの御神を小刀で刺そうとする瞬間、諏訪の国司の使者の乗った馬が登場してそれを止めさせ、少年の代わりに鹿75頭を燔祭として捧げるのが「御頭祭」の起源とされている。燔祭を行うのは物部氏である。
 「旧約聖書」のイサクの物語は、以下のように書かれている。

 
神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽す捧げ物としてささげなさい』(創世記22章2節)

 


アブラハムの燔祭を止める神の遣い

 

 神に忠実なアブラハムは、一人息子のイサクを縛って刃物を振り上げ、まさにその子を殺そうとする時、主の御遣いが天からアブラハムを呼んで止めさせ、アブラハムは息子イサクの代わりに、雄の山羊を燔祭として神に捧げたという。その生贄の羊の数は75頭である。そう、諏訪大社の御頭祭とはアブラハムの燔祭を忘れないようにする、原始ユダヤ教徒・物部氏の儀式なのである。

 

 その物部系古神道(ユダヤ教)の要の社は「籠神社」「諏訪大社:本宮」「熱田神宮:一之御前神社」「伊雑宮」で、4社で「日本の四隅」を構成、封印していたのである。

 

「物部系古神道」要の4社

 

 この四隅の正中となるのが「隠岐」である。隠岐の島後にはオリオンの三ツ星に配置された「伊勢命神社・水若酢神社・玉若酢命神社」があり、島前の中ノ島に鎮座する鳥羽上皇を祀る「隠岐神社」を合わせて隠岐の四隅となる構造としたのである。さらに「隠岐」は元伊勢にして本伊勢たる「籠神社」の海の奥宮である。

 

 空海は「隠岐」を訪れている。今も隠岐では空海が歩いた場所でお遍路が行われている。そして、平成になるまで隠岐の「島後」は「名無しの島」だった、つまり呪詛を受けないために「名」をつけさせなかったのである。なぜなら、そこが「ヤマト」の国の出発点であり、日本列島の雛形だからである。「隠岐」を封印したのは弘法大師・空海である。

 

 

 「隠岐」へ流布された「後鳥羽上皇(後鳥羽院)」は「隠岐」の「島前」(どうぜん)の 「中ノ島」に配所されて崩御し、100年後の後醍醐天皇は島前の「西ノ島」から、忠臣らと抜け出し、漁師の小屋に身を隠し、世話になった礼に柘植(つげ)の「懐中」を村の者に与えている。

 

 それは二つ合わさる木製の懐中物で、左内面に「愛染明王」(あいぜんみょうおう)、右内面に「不動明王」が彫られているとされ、現物は今も「木村家」が保管するが、レプリカが一般公開されている。後醍醐天皇はなぜ、「愛染明王」と「不動明王」を彫らせたのだろうか。

 

<つづく>