「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その23


 「いろは歌」には、「暗号」が隠されているという。これは、「いろは歌」を独自の視点で解読しようとしてきた方々の共通認識である。梅原猛氏、篠原央憲氏、井沢元彦氏と、それぞれ読み解き方は異なるものの、皆さん「暗号」だという。中でも、篠原央憲氏の『いろは歌の謎―暗号で綴った死刑囚の遺書だった 』は、迫害された歌人としての柿本人麻呂による絶望の叫びが秘められていたとし、「いろは歌」にはさらに第二の暗号が潜んでいるとしている。

日本人としての「い・ろ・は」

 

 筆者は「あいうえお」でひらがなを習った世代だが、いつ習ったかは覚えていないが「いろは歌」は諳んじることはできる。現在の子どもたちは「いろは四十七文字」といっても、ほとんどの子も若い方たちも全部を知らないだろうが、筆者の親の世代、つまり戦前生まれの日本人は、誰でも、物心つき始める頃には「いろは歌」を覚えさせられ、「いろは四十七文字」によって、初めて文字と言うものを知ったのである。それは江戸時代も同じだ。

 

「ん」まである「いろは歌」

 

 「いろは四十七文字」には、日本人が生涯を通じて使用する「ひらがな」が、一字も重複することなく、全部収まっている。その意味では、「いろは四十七文字」というのは、日本人の基本を成すものなのであり、日本人としての「い・ろ・は」ということだ。しかし、一方で「いろは歌」は古い時代に作られた「歌」でもある。深い意味を持った歌、つまり「いろは歌」であり、単に文字を覚えるためや、文字を記号的に整理するためだけに、かな文字を配列したというものではないはずだ。

 

 「いろは歌」を覚える歳、まず最初に「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」と区切って文字を覚える。つぎが「ち・り・ぬ・る・を・わ・か」である。しかし、実際には一番最後になぜか「ん」「京」が入っていて二字分の空白を埋めてある。上の画像でも、「ん」が最後に入っているし、「いろはカルタ」でも「京」のカルタが何故か入っている。それで「七☓七=四十九文字」というわけなのだが、「ん」は「いろは」以後の文字として理解はできるものの、なんで「京」という漢字が唐突に登場するのか。実は、ここにこそ「いろは歌」の奥義が隠されているのである。

 

 「いろは歌」は非常に良く出来た「字母歌」である。四十七文字の最後に「ん」を入れた48文字の全てを1度だけ使って作られ た歌のことを「字母歌」と言うが、無造作に口ずさみ、日常的に活用してきたが、これをいったい誰が作ったのか、どのようにして作ったものなのか、誰一人知らないのである。これは「弘法大師の作」だと言う説、「三宝絵詞」などの作者である「源為憲」だったという説もあるが、実際のところは不明である。

 

「三宝絵詞」


 高級な技術を駆使され、しかも優れた内容をもち、これほど普及した歌は他にはない。日本人の、文字使用の原点であるともいえるこの「いろは歌」の作者が、いまもって分からず、それが意図的に秘匿され、本当の作者を表に出すことのできない隠された事情があるような形跡が随所にうかがえるのだ。
 

 日本の古代史は、つねに謎また謎で、謎かけが重層的な構造になっていることが多い。これは単純に「日本語」「漢字」だけでは読み解けず、漢字の場合には「訓読み」や「同音異義語」、「日本だけの意味」などに本当の字義が隠され、その後ろには「聖書」があるからだ。日本と日本人の謎を解くには、さらにユダヤ教神秘主義「カッバーラ」を理解していないと、結局は断片的な謎解きにしかならず、奥義からは遠ざけられるような構造になっている。

 

 この「いろは歌」も、おそらくこの深い部分にかかわっているはずだ。この「四十七文字」の奥には、果たしてどんな秘密がかくされているのだろうか。

 


「とかなくてしす」と暗号としての「歌」

 

 「いろは歌」は古文献において、七五調区切りではなく七文字ごとに区切って書かれることがあるが、七字区切りで以下のように各行の最後の文字を拾って読むと、「とかなくてしす」即ち「咎無くて死す」と読める。「咎無くて死す」とは、「無実の罪で死んだ」という意味で、「いろは歌」の作者が遺恨を込めた暗号であると云わる所以である。なお、これは古くは江戸時代に発見され、大正時代には議論されていたという。

 

 江戸後期の国語辞書『和訓栞』(わくんのしをり)の「大綱」には、「いろはは、涅槃経諸行無常の四句の偈を訳して同字なしの長歌によみなし、七字づゝ句ぎりして陀羅尼になずらへぬ。韻字にとがなくてしすと置けるも偈の意成べし」と書かれ、「咎無くて死す」とは「罪を犯すことなく生を終える」という意味であり、七字区切りにすると「咎無くて死す」と読まれるようにいろは歌は作られたとしている。

 

 確かに「いろは歌」を7文字で区切って改行して並べ、その右端を順に読むと「とかなくてしす」となる。

 

 

 古来より「歌」は暗号として用いられてきた。古代より現代に至るまで、暗号は戦争及び諜報活動で使われてされたが、平安初期には、歌人たちの間で一種の「遊び」として使われるようになっていた。これもいつ始まったのかは不明なのだが、現代でいうクイズ遊びのようなものであった。その方法は、暗号学的には「分置式」と呼ばれるもので、一見なんでもないような歌の文句の中に、別の通信文を秘匿する方法である。例としては「古今集」にある「紀貫之」(きのつらゆき)の歌に、次のようなものがある。

 
小倉山 峰たち鳴らし なく鹿の へにけむ秋を 知るひとぞなき
 
 しかし、この歌には、別の意味の言葉が隠されているという。五七調に従って分けて書くと、それがわかるのだという。

 
ぐらやま
 
ね立ち鳴らし
 
く鹿の
 
にけむ秋を
 
るひとぞなき

 つまり、いちばん頭の字を横に読むと、
「をみなへし:女郎花」となるのだという。

 

「女郎花」

 

 「女郎花」は「秋の七草」だが、 実際は夏頃から咲いている黄色い清楚な5弁花である。 「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「へし(圧)」で、 美女を圧倒する美しさから名づけられた。「男郎花」(おとこえし) という花もあり、こちらも5弁花であるが、白い花で、形はそっくりだが「女郎花」より「力強く」見えるからだとされる。こうした暗号にもさらに裏の意味も込められている。

 

 平安時代の「遊び」としての暗号は、重大な秘密のメッセージを暗号的に組み込むというような大袈裟なものでなく、花の名や鳥の名を織り込んだりする雅やかな遊びであって、こうした歌の詠み方を「折句」(おりく)と呼んでいた。そして暗号を各句の頭に分置するものを「冠:かむり」、末尾に置くものを「沓:くつ」といい、両方に折り込むのを「沓冠:くつかむり、くつこうぶり」と呼んでいた。

「沓冠:くつかむり、くつこうぶり」

 

 「沓冠」の例としては、栄花物語にある「合 (あ) はせ薫物 (たきもの) すこし」を詠み込んだ「あふさかも、はてはゆききの、せきもゐず、たづねてとひこ、きなばかへさじ」が最初の例として知られているが、鎌倉末期の歌人で、「徒然草」(つれづれぐさ)の作者でもある兼好法師が、友人の頓阿法師に送った「沓冠」の歌が、上の画像である。「冠」で「よね(米)たまへ」、「沓」で「ぜに(銭)もほし」となる。これに対して頓阿法師の答えた歌は

 

 るもう       
 たく我せ     
 ては来     
 なほざりにだ   
 ばし問ひま   

 であり、これは「米(よね)はなし」「銭(ぜに)すこし」となり、非常にユーモラスな金銭、米の貸借のやり取りにしてある。それにしても非常に高度な「暗号遊び」である。だが、作家で「いろは歌」の謎解きをされていた篠原央憲氏は、「沓冠」の暗号を調べていた際、「いろは並べ」の順に文字を書いていたら、そこに不可思議な言葉が入っていることに気づいたのだという。

 

 「沓」にあきらかに暗号文が入っている。しかも、それは、実に薄気味悪いことばである。

 とかなくてしす—「とが(咎)なくて死す」

 これは一体どういうことなのか。私は一瞬、戦慄した。偶然に、こんなことばの配列になったのであろうか。「咎なくて死す」とは、無実の罪で死んでゆくことを訴えた言葉である。この切なく哀しい響きを持った暗号文は、いつ誰によって、なぜ作られたのか、私は、それが作られた時代、おそらく平安初期か奈良時代ころの、この作者の境遇に思いをはせたのであった。「いろは歌」は、まさに不気味な歌なのだ。その作者は、一体誰なのか、遠い奈良・平安時代から、じつに千余年も過ぎて、いまはじめて一人の人間が、その作者の切ない訴えに気づく。それはあまりにも遅すぎた伝達である。私は興奮し、この悲痛な境遇で死んでいった薄倖の作者を探さなければならないと、思った。私の「いろは歌」研究はこうして始まった。

 

 「罪もなく死んだ」のは柿本人麻呂だったのか。それとも、「いろは歌」とは、そうした罪なく死んでいった人たちへの鎮魂歌だったのだろうか。

 

<つづく>