「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その19


 神道呪術氏族「忌部氏」の私有民である「部曲・民部」(かきべ)は、どう読んでも「かきべ」とは読めないが、もしもこれが暗号ならば、ポイントは音(おん)、つまり読み方である。「かき・べ」で、「べ=部」を除けば、「かき」となる。前回、「部曲=民部」とも書くなら、「曲=民」となり、「民」の意味は「奴隷」、それも「目をつぶされた奴隷」であった。

 

「片目の人麻呂伝説」

 

 実は、柿本人麻呂には「片目」という伝説があるのをご存知だろうか。これは民俗学者の柳田国男が著した『定本 柳田国男集』の中に栃木県佐野市小中町に伝わる「人丸様の話」として登場する。 

 「柿本人麻呂が、小中村をおとずれた時、悪い人たちにおわれて黍畑ににげこんで、てきから身をかくすことができたのですが、その時、まちがって黍の先で片目をついてつぶしてしまったそうです。そのため、しばらく動けず、小中にとどまっていたといいます。そこで村人たちはその霊を神社にまつるとともに、黍を畑につくることをやめさせたといいます。」


「人丸神社」(栃木県佐野市小中町)

 

 「黍(キビ)の先で片目を潰した」などというのは、あくまでも「伝説」と考えなければダメだ。それは後世に人麻呂の正体を伝えるための「暗号」なのである。この柳田国男が書き残した「片目の人麻呂伝説」のある栃木県佐野市小中町に鎮座しているのが「人丸神社」である。平安時代初期の元慶元年(877年)三月、里人によって石見国高角山より柿本人麻呂の分霊を勧請され産土神として祀られたのが始まりという。

 

 この「人丸神社」は、下野に八社ある柿本人麻呂を祀る神社の総社とされ、人丸を「火止まる」に掛けて火伏の神として信仰されている。また、社伝によれば、この地を訪れて柿本人麻呂が詠んだものとして「下野の 安蘇野の原の 朝あけに もやかけわたる つづら草かな」という和歌が伝わっている。この歌の字を見た時に、気になるのが「安蘇野の原」という地名である。「人丸神社」がある「佐野市」の地名には複数の由来があり、その一つには「安蘇野の原」が元になっているという説がある。


 <左野説>  
 ・奈良時代(8世紀頃)に、佐野地方は東山道の使道となっており、勅者、使者、蝦夷(えみし)征伐の武人らが東北地方へ下る通路となっていた。この使道の
左側を左野と呼んでおり、この左側の野に人が住みついて佐野となったという説です。ちなみに道の右側を右野(うの)と呼び、そこから上野→植野になったという。
 <狭野説>
 ・佐野地方は、万葉集東歌の
「安蘇山」(あそやま)、「三毳山」(みかもやま)、「赤見山」などに囲まれた狭い平野であり、この地形から狭野が転じて佐野となったという説。この「安蘇山」とは安蘇山塊を指し、日光市、宇都宮市、鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、桐生市、みどり市の8つにまたがる山域のことである。
 <麻野説>
 ・安蘇郡は、平安中期(10世紀頃)の「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅうしゅう)によると、麻読(おみ)郷(田沼・赤見)、説多(せった)郷(葛生)、安蘇(あそ)郷(佐野・犬伏・旗川)、意部(おふ)郷(植野・界)の4郷に分かれていたが、この中心の安蘇郷は、
安蘇野が転じて麻野といわれ「あさの」の「あ」を除いて「佐野」となったという説。

 

安蘇山塊・大鳥屋山

 <左野説>の使道の左側を左野と呼び、そこから佐野となったという説だが、要は「左道」という意味となる。左道とは「邪道」ということで、呪術でいえば左道は邪悪な黒魔術、右道が恩恵的な白魔術である。藤原不比等の墓への「陰宅」という左道の呪詛に関わった物部一族は、名前を変えさせられ、中央から排除され、地方へと流されるなど「落とされた」。地方へ”流される”ことを「左遷」(させん)というが、邪な企てを行おうとして発覚した者は必ず左遷されてきた。

 

 ならば、「佐野=左野=左道を行った者たちが送られた(東国の)地」と考えられる。なにせ下野国は、弓削道鏡が流された「流刑地」なのである。<狭野説><麻野説>に出てくる「安蘇」(アソ)だが、佐野市ではこれを「麻緒」(アサオ)の略かもしれないとしている。麻を産するため、この名前があると「倭名類聚抄」がしているからで、下野国志(しもつけこくし)にも「安蘇の名前は麻より出でし」とある。「麻」は神道儀式に使われるもので、古代より麻の栽培から麻織物など一切は「忌部氏」が担ってきた。つまり、この地には「忌部氏」が住んでいたということである。現に佐野市馬門町には「浅田神社(麻田明神)」がある。

 

 

栃木県佐野市馬門町の「浅田神社(麻田明神)」
 

 「浅田神社(麻田明神)」は佐野市の最南部に鎮座する神社で、通常は浅田神社と呼ばれているのだが、境内の社号標には「下毛野國天命總社」、鳥居には「天命惣社」、拝殿社号額には「天命惣社浅田大神」とそれぞれ表記されている。「天命惣社」(てんめいそうじゃ)とはいったい何を表しているのか。祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)と「事代主命」(ことしろぬしのみこと)、「豊城命」(とよきのみこと)の三柱で、景行天皇五十六年(126年)に勧請されたものだという。

 

 「大己貴命」とは出雲大社の御祭神である 「大国主命」(おおくにぬしのみこと) の別名であり、「事代主命」は大国主命の子なので出雲系、つまり物部系である。最後の「豊城命」(とよきのみこと)は馴染のない神だが、「豊城入彦命」(トヨキイリヒコノミコト)の別名で、第10代「崇神天皇」の皇子とされている。東国の「上毛野君」(かみつけののきみ)・「下毛野君」(しもつけののきみ)の祖とされる。つまり、ここは東国に建立されていた物部系の社である。実際にこの社にはスサノオがヤマタノオロチを退治した彫り物がある。

 

「天命惣社浅田大神」の扁額と大蛇を退治するスサノオの彫り物


 「豊城入彦命(豊城命)」は『古事記』『日本書紀』によれば、崇神天皇の皇子で、母は紀伊国造の娘「遠津年魚眼眼妙媛」(とおつあゆめまぐわしひめ)である。第11代「垂仁天皇」の異母兄で、「豊鍬入姫命」(とよすきいりひめのみこと)の同母兄である。上毛野君、下毛野君の始祖とされ、孫の「彦狭嶋王」は東山道15国の都督に任じられ、曾孫の「御諸別王」は東国に善政を施いたと伝えられる。しかし、なんで東国なのか。この時代、東国はまだ「大和:ヤマト」ではないからだ。

 

 崇神天皇が豊城命と異母弟「活目尊」(のちの垂仁天皇)のいずれかに皇位を継承させようとそれぞれに夢占いをさせたところ、「豊城命」は「御諸山」(桜井市の三輪山)に登って東に向かって槍を8回突き、剣を8回振った夢を見た。一方の「活目尊」は御諸山の山頂に登って縄を四方に張りめぐらして粟をついばむ雀を追い払う夢を見たと奏上した。天皇は兄は東方のみに向かったので東国を治めさせ、四方への配慮がある弟に皇位を継がせたという。

 


鳥居に飾られた「天命惣社」の扁額


 これは「神話」であり史実ではない。「豊城入彦命」という名だが、豊は「豊受」のトヨで、伊勢外宮に祀られる「豊受大神」を奉ずる一族に「入彦」、つまり「入婿」になったという意味で、父親である崇神天皇は『日本書紀』での名は「御間城入彦五十瓊殖天皇」である。「御間城」とは朝鮮半島のことで、朝鮮半島から渡ってきて、「入婿」になったという意味で、要は同じ人物のことである。つまり、物部氏の王族で、「豊受大神」を奉ずる海部一族に入り婿した秦氏の大王のこと、つまり神武天皇であり応神天皇のことである。

 

 同じ下野国の「二荒山神社」の旧称は「宇都宮大明神」で、「豊城入彦命」「大物主命」「事代主命」を祀っている。ここでは豊城入彦命は崇神天皇の命をうけて東国を平定、のち当地にとどまったが、4世孫奈良別王が下野国造となり、祖神を奉斎したのが当社の起源と伝えている。この伝承だが、浅田神社の言い伝えでは、浅田神社は蝦夷征伐に向かう「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)がここに神籬(ひもろぎ)を建てた後、その址に神社を建てて「天命郷の総鎮守」になったのだという。要は豊城入彦命と日本武尊は同一人物ということである。逆さから読めば、物部氏の社だったが、秦氏が乗っ取りに来たということだ。

 

御嶽山神社と嶽普明大神

 

 浅田神社の参道左手側には「御嶽山神社」と「嶽普明大神」が祀られている。御嶽山は最初は「修験道」の場として独自の山岳信仰として栄えるようになったといわれているが、もともと御嶽信仰は御嶽山そのものを信仰するものだ。つまり「山」をご神体とする古神道で、それは唯一絶対神ヤハウェを信奉するユダヤ教である。国常立尊、大己貴命、少彦名命を御祭神とする御嶽神社は、智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭を司る霊妙神として祀られている。つまり、霊の状態の神=ヤハウェ信仰なのである。

 

 崇神天皇は、歴史上では祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)、つまりこの国を最初に統一した初代天皇という名前である。崇神天皇の子・垂仁天皇の御代に「伊勢神宮」が作られたことになっているが、これは「国津神」(物部氏系の神=絶対神ヤハウェ)の祟りを畏れたということで、それが「崇神」という名前に込められている。謎なのは「垂仁天皇」の名が「活目尊」となっていることである。

 

右:崇神天皇 左:垂仁天皇

 

 垂仁天皇は、『日本書紀』での名は「活目入彦五十狭茅天皇」(いくめいりびこいさちのすめらみこと) 、「活目天皇」(いくめのすめらみこと)、「活目尊」(いくめのみこと)で、 『古事記』では「伊久米伊理毘古伊佐知命」(いくめいりびこいさちのみこと)である。「活目」はそのまま読めば ”目を活かす”という意味だが、辞書には出てこない。よって、「刮目」(かつもく)の誤記、誤変換だとなっており、 「刮目」は「目を大きく開いてよく見る」などの意味だという。まるで大仏の開眼みたいである。

 

 「活」という字は、「かつ」「いきる」「いかす」「いける」と読む。「かつ」には「有効に使う。動きを殺さないで役立てる。動きを殺さないで役立てる事。」という意味があり、「活用」という言葉に使われる。また、「命が助かる」意味で「活路」という言葉もある。さらに「気絶した者を蘇らせる方法」や「死なないようにする。呼吸したり、動いたりできる状態を長続きさせる」という意味も持つ。非常に呪術的な意味合いだ。一方の「いきる」の同意は「生きる」で、「いける」の同意は「生ける」である。ここにも「命を保たせる」「死にかけた・死んだ生物を、呼吸したり、動いたりできる状態にする」という蘇生の意味がある。


「活」の時の字源

 「活」という時の字源を調べると、「亻」は
「刃物で目を突き刺し潰れた目」とある。と考えると「氵:さんずい」は血が流れる様子で、「口:さい」は神への捧げ物をいれる器だから、「潰れた目」を捧げ物にしたという字になる。この「亻」は後に「氏」に変わっている。これを白川静氏は「象形。把手のある小さな刀の形。祖先の祭りの後で行われる氏族の共餐のとき、この小刀で祭祀に用いた肉を切り分けるので、この肉切り用のナイフが氏族の象徴となり、氏族共餐に参加する者を氏という。それで氏は“うじ(氏族)” の意味となる」(白川静『常用字解』)としている。

 この白川静の解説に対して、「氏に肉切り用のナイフという意味はない。氏にそんな意味がないからには、祭祀に用いられるとか、氏族の象徴とされたということもあり得ないだろう。氏の肉切り用のナイフという意味は空想の産物というほかはない」と否定する見解もあるが、これらは漢字を作ったのは古代の中国人だから、中国の文化にそんなものはないと考えてしまう人の意見である。漢字を作ったのはヘブライ人である。ヘブライ人は羊を燔祭に捧げ、丸焼きにした羊の肉を切り分けて一族に分配をすることを祭祀としてきた民族である。肉切り用のナイフを使っていたのである。

 

右手に「ナイフ」を持つアブラハムの燔祭を描いた絵画

 

 つまり、こうだ。「氏」をつけられるのは、絶対神ヤハウェの燔祭の儀式を行ってきたヘブライ民族、つまり「大和民族」ということである!さらに前回、「民」の字は「目をつぶされた奴隷」で、「民=奴隷」だとした。「ヤ・ゥマト:大和民族」は「ヤハウェの民=神の民」という意味だが、正確には「ヤハウェの人々=神の人々」である。そのヤマトを導いたのはモーセである。同じレビ族だが兄アロンは神官の一族となり、それが物部氏系「八咫烏」であり、天皇家は秦氏系のモーセの末裔である。

 

 崇神天皇の長子「豊城入彦命(豊城命)」は東国に行き、その弟である「活目尊」は「垂仁天皇」になった。これは弟・モーセの末裔の天皇が、兄・豊城入彦命(豊城命)が「活かした=有効に使った」というこでもあり、東国に行った物部氏を殺さずに「生かした」ということを伝えているのである!もちろん、秦氏系の大王(天皇)は第26代「継体天皇」からだが、崇神天皇の逸話はあくまでも神話である。

 

 佐野市小中町に伝わる柿本人麻呂の「片目」の伝説とは、柿本人麻呂の出自は「ヤハウェの民」で、柿本人麻呂=物部氏=忌部氏だったことを伝えているのである。さらに、佐野が「左道」の意味なのは、藤原不比等の墓への「陰宅」の呪詛に関わった忌部氏がここに流され、それが柿本人麻呂の出自なのだと伝えているのである。もちろん「片目」の意味は、絶対神ヤハウェが顕現する時に現れる神の「片目」の象徴なのである。しかし、浅田神社の拝殿社号額には「天命惣社浅田大神」とあり、ここの地名「安蘇の名前は麻より出でし」とある。「安蘇」(あそ)というのは何を示す暗号なのだろうか。

 

<つづく>