「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その8
「贔屓」(ひいき)・「亀趺」(きふ)・「覇下」(はか)と3種類の名前をつけられた「亀+竜+石碑」の謎解きには手を焼いた。なにせ謎がこうも多層構造だと、いったい何を解き明かしたのか忘れてしまう。だいたい、空海→いろは歌→即身成仏という謎解きの流れが完全にストップさせられた。まさか仏教的な墓や石碑にまで「三種の神器」と「契約の聖櫃アーク」の謎が隠されているとは思わなかった。
「贔屓」は「契約の聖櫃アーク+三種の神器」の意味を隠していたが、これは古神道=ユダヤ教の宝としての象徴。アークは伊勢内宮の地下宮に「御船」=「辛櫃・唐櫃」として祀られているが、地下宮にあるのは「アーク+十戒の石板+聖十字架」である。秦氏が渡来した際に持ち込んだ「アークの贖いの蓋」+「2枚の十戒の石板」+「聖十字架」が「亀=アークの箱」の上に乗っている構造である。それが「贔屓」の「大きな荷物を背負う」のを好むという謎の伝承の正体だったのである。
要は秦氏が持ち込んだ至宝で物部氏を封印している話にもなっているところが恐れ入る。
北京市宛平城の抗日記念館にある「民族正気浩然長存」碑。
ここにきて梅原猛、篠原央憲、井沢元彦、藤村由加の各氏による柿本人麻呂の謎に関する昔の著作を数冊引っ張り出してみたものの、逆に脳内が混乱をきたし始めた。どの方も独自の視点で人麻呂の人物像、歌に隠された秘密などを解き明かされているのだが、どうも結論がイマイチなのである。要は腹落ちしないのだ。「何かが足りない」という漠然な思いはあるのだが、それが何かがまだ分からない。
しかし、柿本人麻呂を突破しないと空海には戻れない。もしかすると「いろは歌」にはただならぬ内容が秘められているのかもしれない。
◆「八幡人丸神社」の牛と亀と三匹の猿
山口県長門市油谷にある「八幡人丸神社」(はちまんひとまるじんじゃ)は、島根県・兵庫県の柿本神社とともに日本三社と称されている。だが、ここもまた少々へんてこりんな神社である。
「八幡人丸神社」
ここは古くからある八幡宮に柿本神社が合祀された神社で、祭神には八幡神と柿本人麻呂を祀っている。由緒書によれば「明治43年(1910年)に弓弦葉山に鎮座する八幡宮に、当地に鎮座する柿本神社を合祀し、旧柿本神社社殿に移転して八幡人丸神社と改称した」ものとある。合祀したのは比較的新しいが、この旧八幡宮は、天平宝字年中(757〜765年)に字掛渕に住む漁夫の霊夢に牛に乗った八幡大神が現れたため、油谷湾から奉遷して弓弦葉山に鎮祭したことに始まるという。
そして弓弦葉山に鎮座する八幡宮(祭神:應神天皇・仲哀天皇・仁徳天皇)に当地に鎮座していた柿本神社(祭神:柿本人麻呂)を合祀し、柿本神社社殿に移転して社名を「八幡人丸神社」に改称したものである。旧柿本神社は、柿本人麻呂が石見国から九州への往還の時に、当地の風光を愛でて「向津具(むかつく)の 奥の入江のさざ波に 海苔かく海女の 袖はぬれつつ」と詠んだとされ、人麻呂の逝去後、その遺徳を追慕し祠を建てて祀ったことに始まるという。
人麻呂の歌碑
ここにも「亀趺」があり、神馬像もある。ここまではいいのだが、ここ「八幡人丸神社」には「臥牛像」があり、なんとも不思議な「人の像」が立っているのである。「臥牛像」は「御神牛」(ごしんぎゅう)とも言われ、有名なのは天満宮に奉納され境内に祀られた臥牛像である。牛の像を置いている神社は全国各地にあるが、なかでも天満宮では菅原道真公が牛と縁が深かったことから「神の使い」として信仰の対象となり「御神牛」と呼ばれる。主に金属製や石製で、撫で牛や使い牛ともいう。
同じ臥牛の像が並べられているのが聖徳太子が建立したとされる「四天王寺」の「牛王尊石神堂」であり、「南無大聖牛王尊」として祀られている。簡単に言えば「牛の神」であるが、その名前は「石神」とある。。四天王寺では「この御堂は聖徳太子四天王寺御創建の時、その材木をひきたる牛伏して石神となり永く衆生を利益せんとの誓願により建立せられたるもの也。いにしえより絵馬を奉納して祈願すれば速やかに心願成就す。特に腫物平癒を祈る人多し。御名号、南無大聖牛王尊と唱えて至心に念ずべし」と伝えている。
「八幡人丸神社」の「臥牛像」
ここは天満宮でもないし、寺でもない「八幡神社」である。だが、ここは旧柿本神社社殿に移転して八幡人丸神社と改称している。つまり、この「臥牛像」はもともと旧柿本神社にあったものだと考えるべきで、そうなると旧柿本神社は物部氏系の社だったと考えられる。なにせ「四天王寺」も寺になる前は物部氏の神社で、今も聖徳太子と蘇我馬子に殺されたとされる物部守屋も祀られている。実際、現在も物部氏が裏側で寺の運営に関係している。
やはり柿本人麻呂に関わる社はすべて物部氏系の社だったと見て間違いようだ。そこを秦氏が乗っ取ったことで八幡神社になったのである。だが、ここには謎の像がある。これがへんてこりんな人型の像なのである。
この像、どこを調べても何の像なのかさっぱり分からない。そして研究者の方も全く注目しない。だが、どこの神社も奥宮や本当のお宮はひっそりと佇んでいるものである。まるで正体を知られたくないように。その意味で、この放置されたような「人型」の像には重要な意図が秘められているように思えるのだ。それはこの神社の名前である「八幡人丸神社」(やはたひとまるじんじゃ)である。
人丸社は昔から「お産の神」となったり、「防火の神」となったりで信仰されてきたとされ、それは「人丸」(ひとまる)と云う言葉が「人生る」(ひとうまる)と「火止る」(ひとまる)の二通りに詠むことができるので、昔の人が勝手に読んで勝手にかついで信仰の対象にしてしまったと云う。柿本人麻呂を祀る「人丸神社」は、ここ以外にも既に紹介した明石、栃木県佐野市、また千葉県南房総市の明石にもある。
もしこの像が「人丸」を表しているのであれば左手に持つ石板のようなものは「瓦」なのではないのか。「高津柿本神社」の人麻呂像も左手に「瓦」を持ち、それは「カッバーラ」であるとした(連載「その3」)。もし、この像もまた柿本人麻呂ならば、柿本人麻呂はカッバーリストということになり、そこれそ「鴨族」ということなる。
◆「見ざる・言わざる・聞かざる」の猿と
「八幡人丸神社」には、もう一つ重要な像がある。それは謎の「3匹の猿」の像である。「見ざる・言わざる・聞かざる」である。
「3匹の猿」の像
この像もまた、何の説明もないらしい。そして、ここを訪れた人たちの中でも、この像のことに触れる人はほとんどいない。多分、何の説明書きもなく、かなり老朽化しているからだろう。だが、謎の人の像も含めて、何も書いていない部分にこそ大切なメッセージが隠されているというのが神道の奥義である。
もし、柿本人麻呂がカッバーリストで、「鴨族」ならば、だ。この猿の像と人の像にこそ、この神社の奥義が隠されているのかもしれない。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿といえば、左甚五郎作による日光東照宮・神厩舎の猿の彫り物だが、実は神厩舎には猿の彫刻は全部で8面あり、人間の一生がストーリーだてて風刺されている。さらに「彫り物」であり石像ではない。
日光東照宮の「三猿」の彫り物
だいたい、なんで徳川家康を「東照大権現」という神として祀る社に「三匹の猿」を掲げているのか。それは日光東照宮を建立したのが「南光坊天海」だからだ。天海は「江戸」を設計し、事実上「江戸幕府」を作った天台宗の大僧正である。 徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したというのが表の顔だが、裏の顔は異なる。江戸を風水都市として設計、さまざまな呪術を駆使して江戸発展の礎を作った人物である。
なんで日光に「三猿」があるのかといえば、それは天海の呪術だからだ。天海は密教・天台宗の大僧正である。だが、本当の姿は仏教系の八咫烏である。天台宗の総本山「延暦寺」のある比叡山の麓に鎮座する「日吉大社」は、かつては日吉社と呼ばれていた社で、 全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称「山王権現」とも呼ばれるが、ここでは「猿」は神の使いである「神猿」とする・
日吉・日枝・山王神社の総本社「日吉大社」
「日吉大社」は約2100年前に創祀された全国3800余の分霊社の総本宮である。 平安京遷都の折にはこの地が都の鬼門にあたることから、日吉大社は都の魔除・災難除を祈る社となった。日吉大社の中には、猿の装飾などが多数ある。これは、猿が古来より神の使い「神猿」(まさる)と呼ばれ、魔除けの象徴とされてきたことに由来する。「神猿」は「魔去る」「勝る」に通じ、大変縁起が良いため、猿が大切に扱われているのだという。
「山王」とは日吉の神の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味している。それは「山王信仰」と呼ばれ、天台宗の寺社の広がりと共に日吉の神が祀られていくこととなった。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの「神猿」も広く知れ渡ったとされている。
日吉大社の西本宮楼門の「棟持猿」(むなもちさる)
「神猿」は魔除けの呪術なのである。それが3匹いるということは、「三神」を象徴していることとなるのではないか。「八幡人丸神社」の「3匹の猿」の像は「見ざる・言わざる・聞かざる」である。「見てはいけない・言ってはいけない・聞いてはいけない」のである。では、いったい何を「見てはいけない・言ってはいけない・聞いてはいけない」のだろうか。それは「神の姿」「神の名」「神の声」のことである!
<つづく>