弘法大師「空海」と真言密教の謎 その15

 

 「神泉苑」は京都御所の庭である。そして、平安京は水の都である。京都は北部の貴船・鞍馬から、南部の伏見(巨椋池)に至るまで勾配があり、北部は花こう岩質の多い山と丘陵、南部は当時、湿地帯で、北部からの地下水脈がこのあたりで湧き出す地形で、そこに神泉苑が造られたという。実際、京都の地下は巨大な湖で、それは琵琶湖から流れ出た水が地下水として溜まっている。その意味で京都は水の上に浮く都なのである。

 

水の都「平安京」の位置

 

 下鴨神社の境内に湧く水は都の水の源であるといわれるが、それを守ってきた一族がいる。鴨脚氏である。鴨脚氏の読み方は、鴨の足型が銀杏の葉に似ているところから「いちょう」である。"いちょうさん"ということである。下鴨神社のすぐ近くに住む鴨脚家は、先祖代々、御所の井戸を守ってきた一族である。この鴨脚家の庭には御所につながる井戸があるのだが、これが非常に変わった作りなのである。

 

 現在でもお住まいなので、通常はお庭は非公開である。鴨脚家は下鴨神社の社家で、現在残っているのはここだけだという。この庭の井戸は水面の高さで周囲の形が変えてあり、水面を一目見ただけで水位がわかるようになっている。本来はここの泉の水位は鴨川と同じだそうだが、鴨川の相次ぐ氾濫で昭和初期に河床が開削されて水位が下がる前は、画像の3重の石垣の上まで常時水位があったという。

 

鴨脚氏の庭園

 

 実は「葵祭」の前に行われる「御蔭祭」(みかげまつり)は、下鴨神社の神官と鴨脚家の人たちによって行われるのである。「御蔭祭」は、下鴨神社に賀茂の大神の神霊をお迎えする神事だが、京都盆地の水を支配する鴨の神の祭りでもある。「御蔭祭」では、行列を組んで御蔭山(八瀬遊園地の南の丘陵)にある御蔭神社に行って神を迎えると同時に、山の水を鴨脚氏が下鴨神社に運ぶ。この鴨脚氏とは神道祭祀の頂点に君臨する賀茂神社を仕切る賀茂氏の中の賀茂氏である「鴨」の一族である。この「鴨族」の裏にいるのが「漢波羅秘密組織」の「八咫烏」である。

 

 「八咫烏」の聖地・熊野には「如意宝珠」の図柄が描かれた「熊野牛王宝印」(くまのごおうほういん)が伝わっている。熊野本宮大社では、熊野牛王神符のことを「オカラスさん」と呼んでいるが、その真中には「日本第一」と記されている。

 

熊野本宮大社の「熊野牛王神符」

 熊野本宮大社では、熊野牛王神符のことを以下のように説明している。


 俗に「オカラスさん」とも呼ばれる熊野牛王神符(牛王宝印)は、カラス文字で書かれた熊野三山(本宮・新宮・那智各大社)特有の御神符です。カラス文字の数は、各大社によって異なります。当社の熊野牛王神符は、八十八の烏が見事にデザインされており、木版で手刷されたものを熊野宝印と認めています。

 熊野本宮大社の烏文字の種類は「八十八」としている。まるで空海の「四国八十八ヶ所霊場巡り」である。京都、熊野、高野山。これらは「空海」と「水」、そして「如意宝珠」で繋がっている。なかでもその中心となるのが元伊勢「籠神社」である。空海に「如意宝珠」とされる2つの珠を渡したのは、「籠神社」の神官の娘「真名井御前」とされているからである。

 

◆ 「真名井御前」が空海に神宝を授けた意味

 

 「真名井御前」は「空海」とは30歳近く年齢は離れていたが、二人は弟子以上の関係だったと言われている。これをもって二人は恋人同士だったとする人も多いが、話はそんな現代的な単純な話ではない。真名井御前は「如意尼」で、兵庫県西宮市西北部に位置する「甲山」(かぶとやま)の「神呪寺」(かんのうじ)を開基した人物として知られている。

 

入口に「炎」の如意宝珠が飾られている「神呪寺」

 

 真名井御前は、本伊勢「籠神社」 の神官「海部氏」の娘で、幼名は「厳子」(いずこ)といい、10歳の時に京へ出て、聖徳太子が開基した京都頂法寺の「六角堂」に入り、本尊の「如意輪観音」に帰依して修行に励んでいる時に空海に出会った言われている。そして籠神社に伝わる宝珠「潮満珠」と「潮干珠」を空海に授けている。

 

 真名井御前はその名が示す通り、海部氏の特別な「媛巫女」(ひめみこ)だった。普通、巫女が「神宝」を預けるということは、情を通じた男に王権を授けるということを示すといわれる。なぜなら海部氏の娘の媛巫女は天皇家に嫁入りする存在だからである。その特別な巫女であった真名井御前が、籠神社=海部氏に伝わる「神宝」を空海に預けるということは、空海に王権を授けるという意味になる。これはどういう意味なのだろうか?

 

「潮満珠」と「潮干珠」?


 真名井御前は20歳の時、「淳和天皇」の第4妃として迎えられ、そこから「真名井御前」という名で呼ばれるようになったという。天皇の妃として宮中に入った厳子を六年後、甲山(かぶとやま)に逃がしたのは、実は「空海」である。その後、淳和天皇から厳子に対する呼び戻しの要請を避けるため、空海は厳子に破格の「阿闍梨灌頂」(あじゃりかんじょう)を授け、仏門のもとに保護している。

 

 『元亨釈書』によれば、真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家を行うため、天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺・六角堂で修行、その後今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・西宮神社)から廣田神社、その神奈備山である甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。「神奈備山」とは「神が亡くなった山」という意味を持つ。つまり、甲山とは「ゴルゴダの丘」の象徴ということになる。これはどういう意味なのだろうか。

 

神奈備山である甲山

 

 甲山の名称の由来は、昔大きな松の木が二本生えていて、その兜のような形状から呼称されているという説がある。甲山、つまり「かぶとやま」ということだ。が、日本の郷土史家であった田岡香逸によれば、元来、「神の山」である「コウノヤマ・カンノヤマ」だったという。「元亨釈書」によれば、ここ甲山は「広田明神」との関わりが強く、「廣田神社」の神奈備山と考えられるという。

 この甲山山麓にあるのが神呪寺で、寺にある碑には、禅僧虎関師錬が編纂した「元亨釈書」の記述に基づき、十四代仲哀天皇の皇后「神功皇后」が国家平安守護のため山頂に如意宝珠及び兜を埋め、五十三代淳和天皇の勅願により天長8年(831年)10月18日、神呪寺を開創大殿落慶したと伝えている。そのためか甲山のどこかに宝が隠されているという俗説が地元ではあったという。

 

 またもや「神功皇后」が登場してきた。どうも空海の関わる場所には「神功皇后」の伝承が残されている。だが、問題なのは、「神功皇后」が山頂に如意宝珠を埋めたとあることだ。

 

立派な社殿の廣田神社

 

 廣田神社(ひろたじんじゃ、広田神社)は、西宮市大社町にある式内社(名神大社)で、主祭神 は「天照大神荒魂」で別名を「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)である。つまり、伊勢神宮内宮の第一別宮である「荒祭宮」の祭神と同体である。問題はここ廣田神社には、能『西宮』に謡われる秘蔵の霊宝たる『劔珠』如意珠があるとされていることである。

 

 この霊宝『劔珠』如意珠とは何か?廣田神社のHPでは、以下のように説明している。

 剣珠……「日本書紀」仲哀天皇2年(193)の条に、「神功皇后が関門海峡長門豊浦の津に泊まり海中より如意珠(こころままのたま)を得らると見ゆるも是なり」とあり、剣の形の現れたることから、剣珠と称された現存する日本最高最古の如意宝珠です。八幡大神(應神天皇)・神功皇后に戦勝を授け、高野山を鳴動させた神通の霊宝として著名です。

 

左:「天照皇大神荒魂」と記された廣田神社の御朱印

右:廣田神社の神宝「如意宝珠=劔珠」を記した絵図

 

 剣の形の現れたることから、「剣珠と称された現存する日本最高最古の如意宝珠」だと言っている。水晶の中に、釼の形の顕れたる如意宝珠にして、神功皇后、応神天皇に進むべき道を示されたという。また、甲山神呪寺の開基如意尼の伝『類従既験抄』藤原冬嗣『二十二社本縁』に『各々海中より得たる如意宝珠=劔珠』とあり、「劔珠珠者絶世之奇観也、霊光夜射九重天、龍女神珠不直銭」と記されている。

 

 神宝で「剣」というのなら、それは三種の神器の「草薙の剣」の象徴である。だが、剣の形が現れた珠だという。実は今年2023年8月に、廣田神社では宝物の「剱珠」を150年ぶりに公開したというニュースが流れた。神戸新聞の見出しは「1800年前から伝わる守護の水晶玉 240人が拝観、謡曲「西宮」の奉納も」と書かれている。実際に公開された「剱珠」は、以下であった。


廣田神社の神宝「剱珠」
 

 これが本当に「剱珠」なのだろうか。筆者の想像でしかないが、これは本物の「剱珠」を象徴する形代である。本物は「剱珠」ではなく「剱」だったはずだ。つまり、この珠の中に「剱の魂(珠)」を込めていますという意味なのである。逆にいえば、ここには過去に「草薙の剣」が祀られていたということである。もし、そうでなかったのならば、「逆の意味の剣」があったということである。「逆の意味の剣」とは、神=イエス・キリストを絶命させた剣、つまり「ロンギヌスの槍」である!

 

 甲山は廣田神社の神奈備山で、神が亡くなった山の象徴である。そして、ここ甲山の麓にあるのが「神呪寺」だという。「神の呪い」という名が付けられた寺である。廣田神社の主祭神 は「天照大神荒魂」で別名は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)である。「賢木」(さかき)とはイエス・キリスト磔刑の「十字架」のことである。ならば、イエス・キリストを絶命させた剣である「ロンギヌスの槍」と考えてもおかしくはない。なにせ、聖遺物のほとんどはこの日本に運び込まれたのである。

 

 もし、日本に「ロンギヌスの槍」が運び込まれていたとなれば、大変なことになる。だが、それを証明するものはない。象徴として考えた場合、「如意宝珠」は「神」である。その「神」の体を貫いていた「剣」のことを忘れるな、という意味でこの「剣珠と称された如意宝珠」が作られ、廣田神社に祀られたのではないのだろうか。あくまでも象徴としてである。なにせ「天照大神荒魂」を祀っているということは「須佐之男命」であり、それは荒ぶる絶対神ヤハウェである。つまりここは物部氏の社だったということである。

 

「神呪寺」の如意輪観音像

 

 天長7年(830年)、空海は真名井御前をモデルに本尊として山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、33日で「如意輪観音像」を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)の10月18日に本堂が落慶。同日、真名井御前は空海より剃髪を受けて、僧名を「如意尼」(にょいに)としたと伝えられている。これが甲山の「神呪寺」の秘仏とされる「如意輪融通観音」(にょいりんゆうづうかんのん)であり、日本三如意輪の一つとされている。

 

 別名は『融通観音』で、戦後から『金を融通してくれる』と言われて商業者の信仰も篤いと言われるが、それは表の話である。「融通」の意味するところは、真名井御前が空海に「籠神社」に伝わる宝珠「潮満珠」「潮干珠」を融通してくれた、ということなのだ。

 

 真名井御前は33歳の時に空海のいる高野山に向かって如意輪観音の真言を唱えながら遷化したという。そして翌日、空海も真名井御前の後を追うように62歳で入定したという。これを空海と真名井御前の「愛の物語」と捉える向きも多いが、そんな単純な話ではない。なにせ相手は籠神社の奥宮「真名井」の名を持つ特別な「媛巫女」と、「空海」という名を持つ日本仏教史上最大の僧なのである。謎はまだまだ続く。

 

<つづく>