沖の注連縄「琉球」の謎 その10


 古代琉球の人たちが東の海の彼方にあるとした楽園「ニライカナイ」とは、古代マヤだった。「ニライカナイ」は古代ヘブライ語で「耕された畑で穀物が収穫できる良い島」を意味した。そこに住んでいた古代マヤ人は、新たなる「約束の地」を目指して太平洋を渡り、古代の琉球へとたどり着いた。彼らはヘブライ人であったが、古代アメリカの地で彼らを導いたのは、鳥の羽を持つ白く輝く神で、その正体は 天から鳥のように降臨してエス・キリストであった。 
 

 1429年から1879年の450年間の琉球王朝時代、高級神女(ノロ)たちには「三十三君」という神女組織があったという。第二次世界大戦時に失われれてしまったが、琉球には33個の金の香炉があったという秘伝がある。「33」という数字はカッバーラの「生命の樹」の11個(隠された「ダアト」を含む)のセフィラと22個の小径(パス)により図式化された世界創世の象徴である。かたや「金の香炉」というのはモーセの幕屋などユダヤの神殿に置かれていたものである。

 


「御嶽」に祈りを捧げるノロたち(神女・祝女)

 ならば、ノロ(神女・祝女)は「生命の樹」を理解していた「原始ユダヤ教」の女祭祀だったことになる。だが、一方で琉球民族の祖先の古代マヤ人を導いたのは、イエス・キリストである。「ノロ」の祭祀の詳細は分からないが、原始キリスト教に改宗していたユダヤ教徒の女祭祀だったということなのだろうか。

 

◆神女の組織「三十三君」

 

 琉球王国時代のノロの任命継承は、何かしらの不予の事態などにより順当に行われなかった場合、近親者から後継者が選ばれた例があるという。また、現在の久高島では、霊感の強い人物(サーダカ、サーダカウマリ)を断絶したノロの後継者として選ぶということが行われている。ノロは原則として終生職であるが、現在の久高島では、久高ノロと外間ノロ以外の「神人」(カミンチュ)には引退儀礼がある。また、三代後(祖母から孫娘)に霊格である霊威(セジ)が引き継がれると考えられている。

 

 この「祖母から孫娘へ」というのは、女性版の「天孫降臨」的な意味合いを感じるが、それが何故なのかは分からない。ノロの基本的な役割は、豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝うといった時期ごとに数多くの祭祀を行うことと、その祭祀において神を憑依させる「依代」(よりしろ)となることが存在意義であるため、これといった戒律や教典はなく、他の宗教のように大衆に啓蒙すべき神の教えといったものもない。その意味では「神道」に近い。

 

今帰仁ノロ殿内

 

 ノロは「偶像崇拝」はしない。ユダヤ教でも原始キリスト教でも「偶像崇拝」は固く禁じられている。御嶽にあるイビ石などがご神体として崇拝される例が多く見られるが、これはあくまで、いわゆる「依代」に対する尊崇である。ノロは特に処女性は問われないが、既婚か独身か、年齢要件などは現在も確認される。王国最高位のノロである「聞得大君」(きこえおおきみ)の2代目までが生涯独身であったことや、「聞得大君」以前からの由緒あるノロである「阿応理屋恵」(おありやえ)が生涯独身だったという記録もあり、原始的には処女性が要求されたと考える説もある。

 ノロには決まった服装はないが、琉装もしくは和装の着流しの
「白装束」であることが多い。神道的にいえば、白装束というのは「死に装束」であもる。また、「草の冠」(神カムリ)などの草装も多く見られ、そうした異形の装束は神が憑依していることを意味している。また、装身具として勾玉を身に着けることも多い。

 

「草の冠」をつけるノロ(右は久高島のノロ)

 

 この「草の冠」(神カムリ)が意味するのは、もちろんイエス・キリストである。とすれば、ノロに「神女」「祝女」の字を当てる意味は、神を降ろして一体となる「依代」、つまり神イエス・キリストが顕現していることとなる。イエス・キリストの女預言者たちということにもなる。するとノロとは「巫(女)」でもあるということだ。

 

 120年ぶりに復元された琉球王朝ゆかりの伝統行事であった国頭村辺戸の「大川お水取り」の様子を見ると、ノロが神官の男たちを従えているのがよく分かる。先頭を歩く「道ジュネー」は神の印であるクバの葉を持って一行を先導し、その後ろに国頭村辺戸のノロ(祝女)が続く。この辺戸大川(へどうっかー)の「お水取り行事」は、毎年首里城に献上され、国王の年始儀式「お水撫で」が執り行われる等、非常に重要な儀式であった。

 

辺戸大川の「お水取り行事」の一行

 

 辺戸大川(へどうっかー)の「お水取り行事」を見ると、まずは「木=草」に祈りを捧げているのが分かる。「木」が磐座になっている。ユダヤ教(古神道)的な儀式だが、そこに「草」があると原始キリスト教の儀式となる。と考えると、古代の琉球では、やはり原始キリスト教に改宗もしくはその奥義を知っていたノロによる古代ユダヤ教の儀式が行われていたということになる。

 

辺戸大川の「お水取り行事」の儀式


「卑弥呼」のようなノロ

 第二尚氏王朝の尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し、琉球神道と統治機構を一体化した全国的な祭政一致体制が確立された。「ノロ」という呼称はそのときに神職の正式名称として制定されたものだが、祭祀制度そのものは、そのとき初めて制定されたものではなく、以前から各地域に女性の祭司がおり、各地域の祭祀を司っていたと考えられている。尚真王はすでにあったこれらを整備、中央集権的に階層化したのである。なお、ノロにあたる女性の祭司を八重山では
「ツカサ(司:「神」と同義)」と呼称する。また、これら神職者は総称として便宜上「神女」と通称される。

 これは「尚真王」の代にノロの頂点として制定されたのが
「とよむせだかこ」(名高き霊力溢れる君)の異名を持つ「聞得大君」だった(聞得大君は「最も名高い君」という意味)。「聞得大君」は琉球国王を守護する国王の「おなり神」であり、王国を守護し豊穣をもたらす神とされた。事実、初代の「聞得大君」は尚真王の妹である。それまで、国王に仕える神女の権威は国王を上回るようになっており、尚真王の即位についても、母オギヤカが高級神女と結託して謀略を巡らしただめだったという逸話も残っている。

 


聞得大君役の高岡早紀(NHKドラマ)

 「聞得大君」は王家の女性(先代王の妻など)から選ばれ、首里城内の10の御嶽と斎場御嶽を掌管し、全国のノロたちを支配していたが、ノロへの任命辞令は国王から発せられていた。これは制度的にはあくまで国王が神女組織を支配していたことを示すものと考えられている。聞得大君の下には、それ以前からの有力な神女である(首里)阿応理屋恵、佐司笠などの「君」や、首里の三間切(三平等:みふぃらと呼ばれた)をそれぞれ掌管する3人の
「大阿母志良礼」(おおあもしられ)がおり、その下に各地方を統括する「大阿母」たち、さらにその下に各地域の祭祀を管轄する「祝女」を配するヒエラルキーを形成していた。

 

 なお、こうした高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいたが、この「三十三君」については、33人ではなく「三十三」は「百」のように「大勢」の意味とする説が有力視されており、そのほとんどは首里に在住、王家となんらかの血縁関係にあったと考えられている。この「三十三君」は、本当に高級神女たちが大勢いたことを示す言葉なのだろうか。否!これは「カッバーラ」の呪術を使う33人からなる巫女集団だったのである。彼女たちの先祖こそが「女八咫烏」である!

 

初代聞得大君「月清」とユタたち

 

 上の画像でも分かるように、初代聞得大君「月清」も神女「ユタ」たちも大きな「扇」をを持っている。本土で「扇」を持つ存在とは「天狗」であり、天狗には「烏天狗」がいる。「烏天狗」とは「八咫烏」のことで、「大天狗」は組織の頂点を成す3人の「金鵄」のこと。彼らはみな日本の、そして世界の「奥義」を握っている集団である。

 

 男の「八咫烏」がいれば女の「八咫烏」も存在する。男だけで子孫を残すことはできないからだ。つまり、神女「ユタ」たちの先祖こそが「女八咫烏」なのである。その組織は古代マヤにあったのかどうかは分からない。だが、この「ヤマト」の国の祭祀を裏側から支配してきた存在は「八咫烏」である。だからこそ、沖縄では神女「ユタ」が祭司の筆頭だったのである。

 

 本連載が当初の予定とは異なる展開となってきてしまった。が、しかし、ここは通らねばならない道なのであろう。

 


◆琉球とユダヤ教神秘主義「カッバーラ」

 

 琉球には33個の金の香炉があったという秘伝がある。これはモーセの幕屋に置かれた「金の香壇」の存在を示すものである。

 


幕屋に置かれた金の香炉

 

 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。 (「レビ記」第10章1-3節)

 

 「レビ記」には「香炉」とあり、その「香炉」を置いたのが「香壇」である。

 

レビと香壇

 

 あなたはまた香をたく祭壇を造らなければならない。アカシヤ材でこれを造り、長さ一キュビト、幅一キュビトの四角にし、高さ二キュビトで、これにその一部として角をつけなければならない。その頂、その四つの側面、およびその角を純金でおおい、その周囲に金の飾り縁を造り、また、その両側に、飾り縁の下に金の環二つをこれのために造らなければならない。
 すなわち、その二つの側にこれを造らなければならない。これはそれをかつぐさおを通すところである。そのさおはアカシヤ材で造り、金でおおわなければならない。あなたはそれを、あかしの箱の前にある垂幕の前に置いて、わたしがあなたと会うあかしの箱の上にある贖罪所に向かわせなければならない。


 アロンはその上で香ばしい薫香をたかなければならない。朝ごとに、ともしびを整える時、これをたかなければならない。アロンはまた夕べにともしびをともす時にも、これをたかなければならない。これは主の前にあなたがたが代々に絶やすことなく、ささぐべき薫香である。あなたがたはその上で異なる香をささげてはならない。燔祭をも素祭をもその上でささげてはならない。また、その上に灌祭を注いではならない。アロンは年に一度その角に血をつけてあがないをしなければならない。すなわち、あがないの罪祭の血をもって代々にわたり、年に一度これがために、あがないをしなければならない。これは主に最も聖なるものである」。 

 (「出エジプト記」第30章1-10節)

 

純金の香壇(想像図)

 

 これを読むと、黄金で祭壇が作られ、それはまるで「契約の聖櫃アーク」のように担ぎ棒のある形だったことが分かる。「香ばしい薫香」を毎朝たかなければならず、それ以外の香をささげてはならないとある。「灌祭」というのは、ユダヤ教の祭儀で、神の賛美、神への感謝、祈願、贖罪の目的でぶどう酒または水を祭壇に捧げることだが、それはダメだと言っている。

 

 「出エジプト記」の記述を読むと、まるで日本の「香壇」である。そう、香壇なのである。香壇は「神仏の前にある香をたく壇」のことだが、その元はモーセの幕屋に置かれた「黄金の香壇」だったのである。その祭祀を司どったのは大祭司アロンである。そのアロンの末裔が「八咫烏」なのである。だからこそ「女八咫烏」である神女「ユタ」たちが香炉で香を炊いたのである。

 

 しかし、なぜ琉球には33個の金の香炉があったのか。また、なぜ高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいたか。ポイントは「33」である。もちろんカッバーラの奥義「生命の樹」の象徴である。

 

「生命の樹」の構造

 

 「生命の樹」の構造は「十個の球体(セフィラ)」と二十二本の小径(パス)、そして三つの柱で構成される。十個の球体(セフィラ)には、もう一つ「隠された叡智」のセフィラ「ダアト」を加えて11個が本当の数である。この11個のセフィラと22本のパスを足すと「33」という生命の樹の数となる。しかし、「33」はそれで終わりではない。なにせ「香壇」の数の象徴でもあるからだ。

 

 人類を救済するため、「観音菩薩」は様々な姿に変化する。変化観音として「六観音」、さらには33の化身となる「三十三観音」が知られている。本来、「観音菩薩」は男なのだが、ときには女となり、またときには子供や老人、王、貧民、夜叉や龍にもなる。「観音菩薩」には「三十三応身」という信仰があり、「三十三観音」「三十三霊場」「三十三間堂」など必ず「33」で表されるのである。ここに奥義が隠されている。

 

観音三十三応身図

 

 神は男神にもなり女神にもあり、仏にもなる。しかして、その正体は光の救世主イエス・キリストである。「観音菩薩」の別名に「観世音菩薩」があるのはイエス・キリストを象徴しているからである。「音」は「立+日」で太陽神の立ち姿であるが、問題は「世」という字にある。「世」という字の旧字/異字体「卋」である。

 

 「卋」の音読みは「セ・セイ」で、訓読みは「よ」。意味は「三十年」とある。。「十+廿」で、廿は二十(十の二倍)の意味を持つ字である。だが、音読みは「ジュウ」で、訓読みは「にじゅう」なのである。そして「世」とは「漢字の十を3つ合わせた」形から「三十年」だといい、「長い時間の流れ」を意味する「世」という字が成り立ったとする。
 

 3つの「十」とは、イエス・キリストと罪人2人の三人が十字架で磔となった「年」を起点にした時間の流れを意味しているのである。さらに、真ん中の「十」が上にある意味は、イエスの死骸は宙に浮いている状態を示す。ユダヤ教では、死体が地上に降ろされると「穢れ」となるため、十字架に掛けられることで地上から浮かせたのである。さらに十字架に掛かった神は天に浮いている、つまり天上界にいることを象徴しているのである。

 


地上から浮くイエス・キリスト

 

 加えて、「十」の字は、もともとは縦の棒線1本だけの「|」だけであった。つまり、もともと「|」だけで「十」を意味していたのである。よって、「十」とは「|」と「一」から成り立っていることとなり、「十」=「|+ 一」=「10+1」=「11」で、数字の「11」を表現していることになる。つまり、「十」は「10」でありながら、「11」でもあるのだ。だから「生命の樹」のセフィラは、本当は11個だが、「隠された叡智(ダアト)」を除いて10個としているのである。

 

 なぜ琉球には33個の金の香炉があったのか。そして、高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいたか。それは、琉球全体がカッバーラで覆われた神殿だったのであり、「女八咫烏」が「生命の樹」を琉球の奥義として封印したのである!こんなことを書く人は誰もいない。だが、ここにこそ琉球の祭祀は神女ノロが司ってきた理由が隠されていたのである。

 

<つづく>