沖の注連縄「琉球」の謎 その2

 

 昔、沖縄県は、「琉球」(りゅうきゅう)と呼ばれる王国であった。1429年、「尚巴志」(しょうはし)という人物が、「按司」(あじ)とよばれる各地の豪族たちを一つにまとめたところから「琉球王国」は出発している。

 

「尚巴志」

 

 琉球王国」は、今から約570年前(1429年)に成立、約120年前(1879年)までの約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国である。1429年に尚巴志が初めて統一権力を確立。これが「尚家」(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりである。その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国、日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展、「首里城」はその王国の政治・経済・文化の中心であった。

 

 この時代は「大交易時代」(だいこうえきじだい)と呼ばれており、「琉球」は「レキオ」という名前で、ポルトガルの資料にも記録されている。しかし、1609年、薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻、首里城を占拠してしまう。それ以降、270年間にわたり表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で王国は存続していた。
 

 

◆江戸時代の「尚寧王」と初代「舜天王」の謎

 

 1609年に薩摩が琉球を侵略したころ、「尚寧王」(しょうねいおう)が薩摩に連行されたという話になっているが、沖縄の『門中家譜』の記録では、尚寧王は薩摩で丁寧に扱われ、江戸に行って徳川秀忠に謁見したと記されている。一般的に沖縄では、琉球が侵略されたので尚寧王は捕虜になって薩摩に連行されたと考えれているが、事実は異なり、2年ほどで琉球に帰っているのだ。

 

「尚寧王」

 

 沖縄の国史と言われる書物は「琉球国中山世鑑」(ちゅうざんせいかん)・「おもろさうし」・「鎮西琉球記」とされ、「中山世鑑」の歴史感が400年間語られてきた。本土の研究者でもあまり知られていないが、実は琉球王朝のもとになったのは「源為朝」(みなもとのためとも)とする説があるのだ。源氏である。琉球王府の正史である「琉球国中山世鑑」に記される「舜天王」(しゅんてんおう)は、なんと源為朝の子であるという説なのである。どういうことなのか。


 「保元の乱」で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、大島から脱出をこころみた際、潮流に流され、運を天に任せてたどり着いたのが琉球北部の「今帰仁」(ナキジン)で、よってこの港を「運天港」(うんてんこう)と名づけたという。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけるが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまう。妻子が為朝の帰りを待ち侘びたところは「牧港」(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だというのである。

 

「源為朝」は「舜天王」の父なのか?


 もし源為朝が舜天王の父親だとすれば、鎌倉幕府を作った源頼朝と舜天王は従兄弟となってしまう。但し、これはあくまでも単なる伝説にすぎないとも言われる。その背景には、17世紀初頭に薩摩の島津氏によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがあったのだという。

 

 つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に組み込ませるため、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したというのものであり、そうした意図で、源為朝の伝説は琉球最初の正史に記されることになったのだという。

 

正史「琉球国中山世鑑」

 

 だが、一方で琉球の初代の王「舜天王」は「安徳帝」だという説がある。とすれば平氏である。これはいったいどういうことなのだろうか。かたや源氏でもう一方は平氏が琉球王国の祖だというのだ。

 

 安徳天皇は平清盛の娘、徳子が生んだ皇子である。3歳の時に平氏の圧力で即位するも、「壇の浦合戦」で「三種の神器」とともに海中へ没して亡くなったというのが通説である。しかし、「壇ノ浦合戦」で、平氏の船団は全て海中に没して滅んだというのは嘘であるというのだ。実は沖永良部島、竹島、口之島、中之島、臥蛇島、宝島、硫黄島、奄美大島、八重山諸島、与那国島には、平家が上陸したとする口伝や伝説が残されており、遺跡が多く残されているという。

 

壇ノ浦で入水したと伝わっている「安徳天皇」

 

 この「舜天王」は「安徳帝」だする説を唱えたのは、沖縄の音楽研究家であり歴史研究家だった山内成彬(やまうちせいひん)である。山内成彬という方は、沖縄県における本格的な音楽学者の先駆けで、実演家としても活躍した方でもある。古典音楽から民俗音楽に至るまで幅広く研究し、王府おもろ、クェーナ、御座楽など、盛彬が採譜した多くの民俗音楽は、今日の貴重な文化遺産となっているのだが、一方で戦後はヘブライ人渡来説やムー大陸の存在を実証しようとするなど、超古代史的な世界に熱中したため、音楽・芸能方面の業績にまで疑問をもたれる傾向があったという方でもある。

 

 なぜ山内成彬はそうした古代史の謎を究明しようとしたのだろうか。実は沖縄には「ヤマト=古代日本」の創生に関わる逸話が残されており、「神武天皇も沖縄を経由してヤマトに行った」ということを今に伝える風習が残されている。さらには、「神武天皇は琉球で生まれた」という伝承まであるのだ。となると、初代天皇は琉球で生まれ、再び安徳天皇が琉球の王として戻ってきたという話になってしまう。

 

初代「神武天皇」は琉球で生まれた?

 

 「神武天皇は琉球の惠平也に生誕あそばされたり」

 

 これは琉球のユタに口伝で残されているものだが、この「惠平也」は「いへや」である。「神武天皇」のまたの名は「神倭伊波礼毘古」(カムヤマトイワレビコ)で、名前の中に「伊波」は「いは」とも読むが、それは「いへや」のことなのではないだろうか。だが、こうした伝承は巫女であるユタに口承伝承として残されているもので、一般の沖縄人すら知らない。よって、本土の人間ヤマトンチュが知ることもほとんどない。その意味では、本当の琉球の歴史は2000年以上封印されてきたのである。

 

 

◆約450年間、南西諸島に存在した王制の国
 

 「琉球王国」とは、今から約570年前(1429年)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたって南西諸島に存在した王制の国である。北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島には、先史時代を経て鎌倉時代の12世紀頃から一定の政治的勢力が現れた。それが冒頭に書いた各地に現れた「按司」(あじ)とよばれる豪族たちで、彼らが抗争と和解を繰り返しながら整理・淘汰されていったのである。

 

 そして、1429年に「尚巴志」(しょうはし)が主要な按司を統括、初めて統一権力を確立する。これが「尚家」(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりで、その後、琉球は外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきた。

 

「尚巴志」

 

 1429年、「尚巴志」は権力を統一すると王宮を建設する。それが「首里城」である。 首里城はの王宮であり、政治・行政の拠点でもあった。1945年の沖縄戦で全焼、1992年に正殿などが復元され、2000年には、城跡などが世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に登録された。しかし2019年に火災が発生、正殿、北殿など6棟が全焼し、2棟が一部焼損している。

 

1877年に撮影された首里城正殿の写真(沖縄県公文書館蔵)

 

焼失する前の首里城

 

 「琉球王国」は1879年に日本に併合される形で消滅、現在の沖縄県へとなった。だが、王族の人たちやその末裔はどうなったのか。少々気になって調べてみたところ、琉球王国の最後の王は「尚泰」という方で、1843年(天保14年)に生まれ、1901年(明治34年)に亡くなっている。琉球王国が滅亡してからは東京に居を移し、華族となり侯爵となっていた。この時代は他の藩主たちも同様で、東京に移り華族となっていたから、尚康王も他の藩主と同様の扱いとだったことが分かる。

 最後の王「尚泰」の末裔ではないが、第二尚氏王統の初代尚円の子孫はシンガーソングライターの伊禮俊一さんという方で、尚円は尚泰の先祖である。そして、驚いたことに女優の比嘉愛未さんは琉球王朝の末裔なのだという。
「え〜っ!」である。2016年10月02日、都内で行われた映画『カノン』公開記念舞台あいさつに登壇、同作の内容にちなみ「家族から聞いてビックリしたことは?」と聞かれた際、「最近(地元の)沖縄に帰った時に、101歳のひいおばあちゃんから『ウチは、琉球王朝の末えいだったんだよ』と言われました」と明かしている。

 


女優の比嘉愛未

 たしかに写真をよく見るとただならぬ雰囲気を感じさせる。ものすごく品があって貧乏人の顔をしていない。まさに「姫」といった感じで、高貴な血が流れているのが分かる!というか、そう思えてくるのが不思議だ(笑)。時代が違っていたら会えない人なんだということをわれわれ平民は理解しないといけない。比嘉さんは会場がどよめく中、さらに
「家の額縁に不思議な紋章が掲げられていて『あれ、何?』と聞いてみたら、そういう風に言われまして…」と説明している。

 

 「そんなスゴいことを何で言ってくれなかったんだろうという、ビックリした感じがありました」と笑顔を見せているが、逆にいえば王家の血筋というのは狙われるものだ。最近までちょくちょく「宮家詐欺」というものがあった。名前も聞いたことのないような宮様を作り上げ、いかにも皇室に繋がっているかのように見せて詐欺を働くというものだ。だから比嘉さんは変な男には騙されないでいただきたい。なにせ事あれば王家の血筋を求める人間は必ず現れるからだ。

 

昔の首里城守礼門の絵葉書

 

 琉球は大きく分けて、3つの時代がある。「尚徳王」(しょう とくおう)は第一尚氏王統最後の国王(第7代国王)で、王が統治した1441年〜1469年までが独立した王朝時代。その後が薩摩藩の統治による割譲時代、明治以降戦前までを処分時代とし、第2次大戦以降はアメリカによる統治が続いた。というか、実際は現在も続いている。

 

 徐々に軍を撤退させつつも、なんでアメリカは今も沖縄に居座っているのだろうか。そこにはアメリカの「奥の院」が関わっている。もちろん沖縄近海の海洋資源もあるが、アメリカは沖縄を押さえることの重要性を理解している。それが、「辺野古」(へのこ)である。「辺野古」は沖縄県名護市の東海岸側、久志地区にある地域で、総面積10.83 km²だが、現在その多くの区域を米海兵隊の二つの基地キャンプ・シュワブと辺野古弾薬庫によって占有されており、また宜野湾市の普天間飛行場の代替施設建設のため大浦湾の埋め立てが進められている。

 

「辺野古」の飛行場建設地

 

 「辺野古」とは「へそ」である。琉球の「へそ」だからこそアメリカはそこを完全に押さえようとしているのである。そして、それは日本全体を支配する「へそ」だと知っているのである。

 

<つづく>