「エノクの町」とラピュタの謎  最終回

 

 「末日」の世に生きる日本人にとって、まさかここまで早く日本が地に落ちる日がやって来るとは想像していなかったと思う。世の中はわれわれ日本人が考えている以上の速さで「終わり」に向かっている。しかし、「終わりは始まり」でもある。イエス・キリストは、自分の再臨をどのように待ち受けるべきかについて、次のように語っている。


 「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」(「マタイによる福音書」第24章37-39節) 

 

 現代社会の極度の堕落や暴虐の中で、自分や家族の安全をどう守ればよいのだろうと思うとき、われわれ大和民族は、大和民族のために書き記された『聖書』の意味を理解しないといけない。何度も言うが、『聖書』は他の民族のために書かれたものではなく、大和民族のために、大和民族の預言者たちが書き残した書物である。カナン人の末裔が大和民族を堕落させて神を怒らせようとする仕業も、大和民族を虐殺しようという企みも、全て『聖書』に記されている。

 

 「歴史は繰り返す」というが、現在の日本は、カナン人たちに内部から乗っ取らていった古代イスラエル王国と同じような状況にある。政治からメディアまで「在日カナン人」(勝手に筆者が命名)に国が乗っ取られた状態にあり、カナン人の音楽やドラマがもてはやされ、「カナン人(韓国人)になりたい!」などという若者たちを大量生産している。老いも若きも徹底した偶像崇拝に乗せられた状態である。

 

 そして二度と大和民族には戻れなくさせるための遺伝子組み換えワクチンを接種し、mRNAワクチン入りの巨大コオロギのパウダーを「SDGsだ!」などと称して、海外投資家からの金を期待して殺人食品を作り続けている始末である。これも「拝金教」という名の偶像崇拝で、これに加担した輩は誰一人絶対神からの鉄槌から逃れることはできない。政治家、官僚、学者、医者、企業、メディア、芸能人、全てである。

「SDGs」の名のもとに次々と製造される殺人コオロギパウダー食品

 

 もし、古代イスラエル王国と同じようなことが繰り返されるのならば、日本は2つに分かれることになる。北朝イスラエルの10支族と南朝ユダの2支族である。天皇家の側につくか、アメリカと在日カナン人たちが押し上げる秋篠宮家につくか、ということである。古代イスラエル王国が分裂した時、レビ族は双方に分かれたが、今回はレビ族は南朝、つまり天皇家側にしか付かない。北朝となる秋篠宮家に付くのは、偶像崇拝に陥った神社の神官や仏教の僧侶、そして統一教会や創価学会といったカナン人の悪魔崇拝者たちである。

 

皇室も「北朝」と「南朝」に分かれることになる?

 

 ここまで世界に「悪」が極まったのは、ノアの大洪水が起きる直前の時以来である。ノアの時は大洪水だったが、今回は最終的には「火」によって滅ぼされることになる。まぁワクチンを接種した人たちにとっては、時すでに遅しだが、ワクチンを接種せず、コオロギ食品も食べず、さらに「運のいい人達」にとっては、まだ時は残されている。 

 

 

◆戻ってくる「エノクの町ラピュタ」と「空中携挙」


 キリスト教の中でも、特にプロテスタントの信仰にあるのが「携挙」(けいきょ)である。英語表記は「Rapture(ラピュチャー)」で、「有頂天」「狂喜」「歓喜」といった意味を持つ言葉である。「携挙」はイエスの再臨の時に、敬虔であったすべての死者が蘇り、生きている信徒とともに天を昇ってイエスと出会い、永遠の命を得るというものであるが、この「携挙」が起きる時期が患難時代の前か、その最中なのか、その後かについては、各教派の間で主張は異なっている。

 

 『聖書』には以下のように書かれている。

 

 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(「テサロニケ人への第一の手紙」第4章13-18節)

 

「空中携挙」

 

 「携挙」はイエス・キリストを信じる全ての人や全ての死者が天に昇り、空中でイエス・キリストと会うとされることから「空中携挙」とも呼ばれている。いったいどれだけ多くの生きた人間と蘇った死者が天に昇るのかは分からないが、膨大な数になるはずだ。この「携挙」で昇った先は「天=太陽」なのだろうか。

 

 一部のオカルトマニアの間では「巨大なUFOに違いない」とか「プラズマに包まれて空に上げられる」とか言った言説も見えるが、アルザルから帰還するUFOの中には膨大な数となった失われた10支族の末裔たちが乗っているはずだし、ずっと空中に浮かんでいるというのも妙な感じである。では、どこなのか?

 

 それは帰ってくる「エノクの町」である!なぜ、そう思ったのか、そのきっかけは宮崎駿監督の作品『天空の城ラピュタ』を見た時である。パズーがシータにラピュタの本を見せているシーンで、本の題名が「RAPUTA」になっていたことだ。これは製作初期の頃は綴りが「LAPUTA」ではなく「RAPUTA」だったので、その名残だという方もいるが、そういう話ではない。


『天空の城ラピュタ』は空飛ぶ「生命の樹」

 

 『天空の城ラピュタ』のモデルはイギリスの社会風刺小説である『ガリバー旅行記』に登場する空飛ぶ島「ラピュタ」である。著者のジョナサン・スウィフトが、どうして空飛ぶ島にスペイン語で「娼婦」を意味する「ラピュタ」と名付けたのかについては既に記したが、「娼婦」という言葉で皮肉る対象とは、娼婦とは程遠い存在、それは純真無垢な乙女であり、貞節を守り続ける妻であり、人々に祝福された花嫁のこと。つまり最も神聖な花嫁とは「イエス・キリストの花嫁」であり、それは「新エルサレム」=「エノクの町」だとした。

 

 「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(「ヨハネの黙示録」第21章2節)

 

 「Raputure」(携挙)という言葉は、以下のように解説されている。

 

 1600年頃に「獲物や略奪品を運び去る行為」という意味で、rapt + -ure から派生したか、あるいはフランス語の rapture から来た言葉で、中世ラテン語の raptura「押収、強姦、誘拐」から派生したもので、ラテン語の raptus「持ち去り、誘拐、奪い取り、強姦」に由来する。英語で最初に確認された用法は、女性を対象としたもので、17世紀には時に rape(v.)の意味を持ち、この言葉と同源である。

 さらに「有頂天」「狂喜」「歓喜」といった意味は、「霊的な狂喜、精神的なトランス状態、昇華状態」を表した意味で、1600年頃に記録されている(raptures)。つながりのある概念は、突然的または激しい持ち去りである。言葉や音楽における「高揚感や情熱的な感情の表現」という意味は、1610年代から来た。

 

 「ラピュチャー」は「ラピュタ」なのである。そしてなぜ、「狂喜」したり「歓喜」するのかはイエス・キリストと会うからであり、不死不滅の肉体を持った人たちと出会うからである。そう、「携挙」で引っ張り上げられる先は「エノクの町ラピュタ」なのである!!

 

戻ってくる「エノクの町ラピュタ」

 

 「エノクの町=新エルサレム」は、縦横高さが2200キロの超巨大な階段状ピラミッドの城郭都市である。そこに何億人が引っ張り上げられたとしても収容可能な大きさである。さらに、そこには不死不滅の体を持ったエノクの民がおり、12支族+レビ族の大和民族にとっても、正統なるヤフェトの末裔たちにとっても、彼らは先祖でもあり親類でもある。

 

 引っ張り上げられた人間も、蘇った人間も、全て不死不滅の肉体となる。さらにこの時には「失われた10支族」の本隊である「アルザル」の住人たちも戻ってくる。そしてイエス・キリストが再臨する。ここに全てが揃い、「聖書」の預言が成就するのである。


 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。(「コリント人への第一の手紙」第15章50-54節) 

 


イエス・キリストの再臨

 

 「モーセ書」において、エノクは以下のように語っている。

 

 さて、エノクは主とともに語り、主に言った。「必ずや、シオンはとこしえに平穏に住むことでしょう。」しかし、主はエノクに言われた。「わたしはシオンを祝福したが、民の残りの者をのろった。」
 さて、主はエノクに、地に住むすべての者を見せられた。彼はまことに、時がたってシオンが天に取り上げられるのを見た。また、主はエノクに、「とこしえにわたしの住まいを見なさい」と言われた。

 エノクはまた、アダムの子らである民の残りの者も見た。彼らは、カインの子孫を除くアダムのすべての子孫の交じり合った者であった。カインの子孫は肌が黒く、彼らの中にいるべき場所がなかったからである。
 そのシオンが天に取り上げられた後、エノクは、まことに、地のすべての民族が彼の前にあるのを見た。そして、何世代かが過ぎ、エノクは高く上げられ、まことに、御父と人の子の懐にいた。そして、見よ、サタンの力が地の全面にあった。

 また、彼は天使たちが天から降るのを見た。そして、彼は大きな声が、「災いである。地に住む者は災いである」と告げるのを聞いた。また、彼はサタンを見た。サタンはその手に大きな鎖を持ち、それは地の全面を闇で覆った。サタンは見上げて笑い、その使いどもは喜んだ。
 エノクはまた、天使たちが天から降って、御父と御子のことを証するのを見た。聖霊が多くの者に降られ、彼らは天の力によってシオンに連れ去られた。 (「モーセ書」第7章20-27節)

 

地上にサタンが現れる?

 

 『聖書』は両義預言である。過去に起きたことは未来にも起きることとなる。そしてエノクは特別に「義人」として「天の御父」に選ばれた存在である。その意味では最大の聖人とも言える人間であり、大預言者でもある。「終わりの日」が近づいたとき、「サタンはその手に大きな鎖を持ち、それは地の全面を闇で覆った」という状態になるのだ。それは、まさに今、始まっていることである。

 

 「すると、サタンが彼らの中にやって来て、『わたしもまた、神の子だ』と言い、『そのことを信じてはならない』と彼らに命じて言った。そこで、彼らはそれを信じることなく、神よりもサタンを愛した。人々はそのときから、肉欲や官能におぼれ、悪魔に従がう者となり始はじめた。」(「モーセ書」第5章13節)

 

 

 

◆「カゴメ唄」の「八咫烏」と「八幡鳩」

 

 応神天皇は「八幡神」と習合した。「八幡」とは「はちまん・やはた・ヤーダ・ユダヤ」で「ユダヤ神」である。そして、掲げたのは「鳩」である。八幡神の遣いは「鳩」である。「烏」は「鳩」には勝てない。烏は陰で、鳩は陽だからである。「鳥」と言う字から「一」を引けば「烏」となり、「九」を足せば「鳩」となる。丹後の籠神社に伝えられてきた童謡「カゴメ唄」には2羽の鳥が隠されている。

 

 「かごめかごめ」とは封印されし伊勢本宮「伊雑宮」と元・本伊勢の籠神社の社紋「カゴメ紋」のことで、同時にユダヤ人の象徴、ダビデの星=六芒星である。△と▽が一つで、日本とユダヤの関係を宣言するとともに、旧約の民・物部氏と新約の民・秦氏が一つとなることを意味している。

 

 「籠の中の鳥」とは天岩屋に「籠もった」天照大神であり、籠冠=荊の冠を被って亡くなり、岩屋に葬られたイエス・キリストのことである。「いついつ出やる」として再臨を期待し、2羽の鳥たる「烏と鳩」が世に放たれることを預言している。「夜明けの晩」とは、天照大神が天岩屋に籠もって地上が闇に包まれたことを示すと共にイエスが十字架に磔になって絶命した時、地上が闇に包まれたことも示していると共に、この世が一番暗くなった時、世界の終末を表している。

 

 天照大神たるイエス・キリストが再臨する時には、「カゴメ」に封印された「白い鳩=ラストエンペラー」たる現在の天皇陛下放たれ、同時に「八咫烏」もその存在を世に姿を現すことになる。レビ族の王だった預言者、秦の「始皇帝」の名が示すのは「ファーストエンペラー」で、その始皇帝は大和の地に「契約の聖櫃」と三種の神器を封印させたからこそ、その封印を解く役目を負うの者こそが125社からなる伊勢神宮の数と同じ125代目の天皇たる「ラストエンペラー」なのである。

 

ファーストエンペラーとラストエンペラー

 

 飛鳥昭雄氏は書いている。陰の烏を象徴する組織が「八咫烏」ならば、陽の鳩を象徴する組織は「八幡鳩」である、と。だが、八幡鳩なる存在はまだ存在しない。しかし、いずれ現れることになる。超古代アスカ王朝の王権が正当なることを証明するために、近い将来、天から降臨するであろうと。そう、「エノクの町」が戻って来たとき、その姿を見ることになるにである!!

 

 飛鳥秘密組織「八咫烏」に伝わる預言詩として、以下の文言を書いている。

 

 「ともに合するまで日が昇らない 烏が放たれても世に闇があり  鳩が放たれても瞬きを知らず 再び鳩が大意を持って 天に出ずる喜びの時まで」

 

天使とともに姿を現すことになる「八幡鳩」

 

 時が来てことが成就すれば、人祖アダムから連綿と続く飛鳥秘密組織の神権は天照大神=イエス・キリストへと返還され、天皇陛下は最後の使命を果たすこととなる。以後、地上は八咫烏から八幡鳩の管理下に置かれ、新しい時代が始まるのである。この国が新たに掲げる号に「飛鳥」を目にしたら、時が近いことを悟るべきである。

 

 新元号「令和」の典拠となったのは、万葉集の梅の花の歌32首の序文にある言葉であった。

 

 「于時初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

 

 

 「春・月・鏡・香」があり、春の「日」と「月」、鏡の「日」と「香」これを合わせると「日+月+日+香」=「明日香」となる。「令和」の文字の中には「アスカ」が隠されている。さらに「和」の旧字体である「咊」は、常用漢字でも人名用漢字でもなく、天皇家にしか使うことが許されていない字である。

 

 「令」+「口+ノ+木」とは「命の木」となり、不死不滅となる実がなっている「生命の樹」が生えていた「エデンの園」は、「アスカ」から太陽へと引き上げられてしまった。しかし、「令和」に生き残る人類は、エノクやモーセと同様に「携挙」において不死不滅の肉体を得ることになる。それがカッバーラの奥義「生命の樹」であることを知る日は近づいている。


 


<終わり> 


 いやはや全部で65回にもなってしまった。ほとんど他のテーマのブログが書けない状態となってしまった。いつも連載を始めると思った以上に長くなるのだが、今回ほど脳が苦しめられた連載は初めてだ。なにせ『聖書』にはほとんど記述がない「エノク」である。「モーセ書」に慣れ親しんでいるわけでもないし、途中からは飛鳥昭雄氏が公開された『八咫烏秘記』を絡めざるをえなくなり、またもや「食人」となり、最後に「エノクの町」へと戻ってきた。

 

 筆者もこの最終回の稿を書くまで、「ラピュタ」と「ラピュチャー:携挙」が繋がっていたとは予想もしていなかった。変な言い方だが、この結論を書くために連載をさせられていた感は否めない。だが、これもまた「時が近づいている」ということなのだろう。こう書いている間にも、ワクチンを接種した方々が大勢亡くなっている。ロスチャイルドとロックフェラーの指示に従っているキチガイ野郎の悪魔崇拝者ビル・ゲイツは、次々と大和民族を滅亡させるための手を打ってきている。

 

 彼らは分かっていない。最後は絶対神の怒りの鉄槌が下り、永遠の闇の中に封じられてしまうことを。だが、まだまだ大和民族とカナン人の末裔との戦いは続く。だから気を抜いたらだめだ。くだらないTV番組やどうでもいいニュースに気をもんでる暇などない。そんなことをしていたら最期、ニムロドの末裔たちの仕掛け通り「偶像崇拝者」として滅ぼされてしまうからだ。もちろん「クリスマス」なんか祝っていたらダメだ。もうこれ以上、ニムロドとサタンを喜ばせてはいけない。われわれは「神の民:ヤ・ゥマト」なのだから。