「エノクの町」 とラピュタの謎 その38

 

 ノアの箱船は「天磐船」ではなく「海磐船」である。ノアが3人の息子たちと建造した三層構造の船で、且つ黄金比率で造られたことで沈没しない船であった。指示を与えたのはフリーメーソンの王・絶対神ヤハウェである。だが、「天磐船」の方の記述については聖書を探しても見当たらない。もしかしたら「八咫烏秘記」には記されているのかもしれないが、それはまだ公開されてはいない。

 

 空を飛ぶ「天磐船」とは「エノクの町」だとは書いたが、しかしながら「竹内文書」を見るとまるで戦闘機のような速さで空を飛ぶ物体のように描かれている。「天磐船」とは、果たして「エノクの町」だけだったのか。もし、それ以外もあったのなら、いったい誰が、何の目的で、どのように建造したのだろうか。

 

◆「竹内文書」が記す「天空浮舟(天空船)」とは何か?

 

 「竹内文書」では太古の人類は天空を飛翔する「天空浮舟(天空船)」を持っており、それに乗って世界中を飛び回り、日本人の祖の天孫族も時速1800キロもの超高速で巡幸したとしている。「マッハ1.8」である。通常のジェット機が1000km=マッハ1を少し切るくらいだから、明らかににジェット機より速い。地球1周は約4万kmなので、22時間で地球一周できる速度だ。現代でもマッハ1を超えるのは旅客機ではなく戦闘機もしくは軍事的な偵察機だ。そんなものに古代の天皇家が乗っていたとは思えない。なにせ5000年〜4500年くらい前の話である。

 

 意味合いとして考えられるのは「UFO」である。特に葉巻型の母船なら空飛ぶ「船」といってもおかしくない。さらにプラズマの原理で飛ぶため、マッハ3での急発進やジグザク飛行、急激なUターンなど、飛行機の原理では考えられない飛び方ができる上、内部は安定した状態を保つため、強烈なGの負荷など乗組員には影響を与えない。だが、それはノアの大洪水よりも後の、今から2500年くらい前に「失われたイスラエル10支族」がプラズマに包まれた地球内天体の亜空間「アルザル」に移動し、そこでUFOが開発されたてからの話である。

 

「天磐船」とは「葉巻型UFO」だったのか?

 

 たしかにエノクは現在の科学の水位をもってしても建造できない「3大ピラミッド」を作った人物である。その意味では、超古代文明アスカの科学文明は現在より遥か先を行っていたのかもしれない。その理由としては「長寿」が考えられる。地球内天体アルザルの人間はプラズマに囲まれ、戦いがないこともあって1000歳くらいまでは生きるというからだ。

 

 仮にアインシュタインやオッペンハイマーなどの天才的な科学者たちが1000歳も生きたら、いったいどれだけ科学技術が進歩するのか想像できないが、逆も然りで、とんでもない殺戮兵器すら開発していたかもしれない。なにせ第2次大戦中の短い期間で原爆を開発してしまったのだ。原爆や水爆の10000倍くらいの破壊力のある兵器すら開発できただろう。

 

アインシュタインとオッペンハイマー

 

 エノクは神に取り上げられるまで365年、地上で生きた。エノクまでの聖王たちも1000歳近く生きていたと聖書にも書かれている。アスカの聖王たちはみな「長寿」だったのである。


 アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。
 セツは百五歳になって、エノスを生んだ。セツはエノスを生んだ後、八百七年生きて、男子と女子を生んだ。セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。
 ・・・・・・・
 レメクは百八十二歳になって、男の子を生み、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と言って、その名をノアと名づけた。
 レメクはノアを生んだ後、五百九十五年生きて、男子と女子を生んだ。レメクの年は合わせて七百七十七歳であった。そして彼は死んだ。ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。 (「創世記」第5章1-32節)

 

  ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。

 ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。 (「創世記」第9章28-29節)

 

950歳まで生きたアスカ最後の聖王ノア

 

 アスカの初代聖王アダムは930歳まで生き、アスカの最後の聖王にして、新世界の最初の聖王ノアも950歳まで生きたのである。超古代といえど、寿命が1000年近くあったら科学者は生涯を通じてさまざまな発明を成し遂げ、電気も使っていたかもしれないし、プラズマも利用する技術も持っていたかもしれない。もちろん巨大な戦車や戦艦なども造れていたはずである。だが、人々を殺戮するような兵器の開発を「神」は許さなかったはずである。

 

 「エノクの町」は「シオン」、すなわち「心の清き者」とよぶ義人の文明社会を作っていた。どの程度の科学文明だったのかは不明である。なにせ「エノクに町」は神に取り上げられてしまったため、何の痕跡もないからだ。だが、エノクが地上で生きた365年間にはかなりの科学技術が発達したのではないだろうか。そして、もう一つ重要なのは、聖王たちは預言者であり、神によって導かれた人間たちであった。なにせ「ノアの箱舟」の建造は、材料から設計まで、建造の指示は全て絶対神ヤハウェが行っていたからだ。

 

ノアの箱舟の横断面(想像図)

 

 ここからはあくまでも筆者の推測であるが、空を飛翔できる「物体」を当時の人たちは持っていた。そして、それを「天磐船」と呼んだ(「竹内文書」では「天空浮舟(天空船)」)。「UFO」のような飛翔体だったのかもしれない。だが、飛行機ではない。「飛翔体」と呼ぶべきものに近ったはずである。そして、その「飛翔体」はプラズマで覆われていた。なぜプラズマなのかといえば、アダムの時代の地球は、全部ではなかったと思うが、まだプラズマで覆われていたはずだからである。そして、そのプラズマを与えたのは「天の御父」である。なぜなら、プラズマとは「神の光」だったからである。

 

 問題は、「天磐船」を使って、彼らは何をしていたのか。物見遊山で単に空を飛んでいたわけではないはずだからだ。

 

 

◆ナスカの「地上絵」と世界各地の「ピラミッド」

 

 超古代文明「アスカ」の名前が入った場所は世界各地にあるが、その一つにペルーの「ナスカ(NAZCA)」がある。この「ナスカ」は「N・アスカ」ということであり、「アスカとは反対の土地」という意味になる。「N」は「否定 (No, Not)」を表すからだ。緑溢れる平和な楽園であった「エデンの園=アスカ」と比べ、地球上で有数の乾燥地帯で雨が降らない「ナスカ」は真逆の土地である。そして、この土地にはかの有名な「ナスカの地上絵」が存在する。

 

「ナスカの地上絵」(ハチドリ)

 

 「ナスカの地上絵」(英名:Nazca Lines)とは、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた平坦な砂漠の地表面に、砂利の色分けによって描かれた幾何学図形や動植物の絵の総称であり、古代ナスカ文明の遺産であると考えられている。このナスカ文化とは、紀元前後から800年頃まで現在のペルー共和国海岸地帯のナスカ市周辺に栄えた文化のことをいい、従ってこの壮大なスケールの地上絵は西暦1年から800年にわたり栄えたナスカ文化の時代に描かれたと考えられている。果たしてそうなのだろうか?

 

「ナスカの地上絵」(コンドル)

 

 ナスカの図形群が描かれているエリアは縦横30kmもある非常に広大な面積があり、全体に千数百点もの膨大な数の巨大な図形が描かれている。あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像を把握することは困難である。なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということは今もって大きな謎の一つとなっている。また、ナスカの地上絵のエリアから川を挟んですぐ南にはカワチの階段ピラミッド群があり、その関係性は深いと予想されている。

 


「ナスカの地上絵」(クモ)

 

 地上絵は動物や植物、直線、幾何学図形など実に多種多様である。しかしながら、根本的な疑問がある。なぜ古代ナスカの人たちは上空からしか全体像を把握できないような巨大な絵を描いたのであろうか?その一つに「雨乞い説」がある。ナスカは地球上でも有数の乾燥地帯で、雨が降らないため、雨乞いのために描かれたという説である。

 

 地上絵の中に「クモ」を描いたものがあるが、クモは「雨」を象徴するものだったと言われており、また、古代ナスカ人が雨乞いの儀式に使っていた貝殻が地上絵周辺で多数発見されているからだという。日本でも稲作のための雨乞いの儀式は行われている。よって、古代のナスカの人たちが宗教的な意味合いで地上絵を描いた可能性はある。但し、「雨乞い説」だと雨とは関係のない植物や動物などの地上絵をなぜ描いたのか? という疑問が残る。



「ナスカの地上絵」(サル)

 

 「雨乞い説」以外にも「水のありかを示していた説」があり、ほとんど雨が降らないナスカでは、地下水に頼って生活する必要があったため、水脈や水源を示す目印としてナスカの地上絵を描いたというものである。説としてはありえなくはないが、実際にここから地下水が汲み上げられていた形跡はない。

 これ以外には「権力者の埋葬説」がある。権力者が埋葬された際、地上絵をひとつ描いたという説で、ナスカ文化では死者は太陽に帰るとされており、太陽に向けて地上絵を描いたのだという。しかし、権力者のために「サル」や「猫」を描いたりするものだろうか?古代から権力者が埋葬される場合、鳥やライオンなどが象徴として描かれる場合は多いが、「サル」や「猫」が描かれたというものは聞いたことがない。


宇宙飛行士(宇宙人)?

 もう一つの面白い説に「UFOの発着場説」というものがある。それはナスカの地上絵は宇宙人によって描かれ、UFOの発着場になっていたのではないかという説である。上の画像のナスカの地上絵のひとつに宇宙飛行士(もしくは宇宙人?)を描いたような絵があるからだ。確かにUFOに乗った宇宙人ならば、たやすく200メートルを超える地上絵を描くことができただろう。だが、筆者はそうだとは考えない。
地上絵を描いたのは、超古代文明アスカの末裔たちだったはずだからだ。

 

多種多様な地上絵の図柄

 

 地上絵は非常に多種多様である。上の図柄集を見ると、ワニのようなものからイヌ、キツネか狼、魚、中にはハサミのようなものまで描かれている。いったい、なんでこんなに多くの巨大な絵を地上に描いたのだろうか?それは天に見せるためだ。アスカの末裔の人たちは天に住む「神」に向けて描いたのである。なせなのか。そのヒントは「パルパの地上絵」の中にあった。


 ナスカの地上絵のエリアのすぐ北には、川を挟んで「パルパの地上絵」(英名 Palpa Lines)」と呼ばれる同じぐらい広大な山岳地帯の地上絵のエリアがあり、ナスカの地上絵の1000年前パラカス文化の時代に描かれたとされる、数多くの幾何学図形と地上絵が描かれているのだが、こちらは観光地化されていないので一般にはあまり知られていない。だが、ここには非常に重要な地上絵がある。それはカッバーラの奥義「生命の樹」である。

 

「パルパの地上絵」(生命の樹)

 

 上の画像は3本柱で天界の3神を描いた「生命の樹」である。それに対して下の画像は「木」である。だが、その図柄を見ると「生命の樹」を変形させた象徴図形だということが分かる。縦にすると以下のようになるからだ。

 

「パルパの地上絵」(木=命の木)

 

 なぜ、超古代文明アスカの末裔たちは「命の木=生命の樹」を地上絵として描いたのか。それは、ナスカとパルパの地上絵は「エデンの園」を描いているからである。緑にあふれ、人間も動物も弱肉強食ではなかった平和の楽園だったアスカを描いているのである。だから植物、動物、鳥、昆虫、魚や海中の生物、人間、そして命の木が絵として描かれているのである。

 

 はるか昔、アダムとエバは「命の木」が生えていたエデンの園に住んでいたが、「善悪を知る木=知識の木」の実を食べたことで神を怒らせ、エデンの園から追放された。そして、人間が二度と「命の木」に近づかないよう、天に取り上げられてしまった。だが、その「エデンの園」は現在、太陽の中にある。

 

 ということは、だ。ナスカの地に「地上絵」として楽園の風景を描いたアスカの末裔とは、「エノクの町」の人々ということになる!「エノクの町」は古代の北米・中米・南米で、インディアンやインディオとなるヘブライ人の末裔を導いた「赤い星」、「大地の母」である。そして「大地の母」はラビリンス(迷宮)であった。だから地上絵にも意図的にラビリンスを残したのである。

 

地上絵に描かれた丸い「ラビリンス」 

 

 長い間、地上絵のサルの図柄は、単に尻尾の長い尾長ザルとしか考えていなかった。だが、違った。地上絵をカッバーラとして描いたものと考えれば、これは「エノクの町」が飛来したことを示す「ラビリンス」だったのである。

 

 「エノクの町」とその住人たちは、インディアンやインディオを導いた後、ペルーの乾燥地帯に「絵」を描いたのである。「われわれはエノクの町の住人である」ということを後世の人たちに残すために。だからこそ雨の降らない場所を選び、そこを「アスカと反対の地」という意味で「ナスカ」と名付けたのである。

 

ラビリンスの象徴図形

 

 もうお分かりだろう。「竹内文書」が伝える時速1800キロで飛翔する「天空浮舟(天空船)」=「天磐船」とは「エノクの町」=「シオン」そのもののことだったのである!

 

<つづく>