聖書文字「漢字」の謎 その3

 

 始皇帝と同じ血脈の「嬴」の名をもつ徐福は、絶対神ヤハウェを奉ずる「ユダヤ人ユダヤ教徒」のレビ族として紀元前の日本に渡来。物部氏の祖となって日本に「古神道」を広げて行った。始皇帝も徐福もイスラエル人で同じ呪術の能力を持つ「預言者」だったのである。

 

 始皇帝は「旧約聖書」を理解していたため、イスラエル民族の歴史と故事を「字」のパーツに込め、複数のパーツを組み合わせることで旧約聖書の逸話やユダヤ教神秘主義「カッバーラ」の奥義を伝えるための文字として発明させたのである。始皇帝の時代の中国(秦)にいたヘブライ人レビ族たちが作り上げたのは旧約聖書の文字としての「漢字」であった。そして、同じヘブライ民族で、紀元後に渡来した原始キリスト教徒「秦氏」は新約聖書の中でもイエス・キリストに関する意味を込めた文字を作り上げた。その両方が混ざっているのが「漢字」である。

 

◆謎の渡来人「漢氏」

 

 古代朝鮮半島から渡来したもっとも古い中国系の帰化氏族を「漢氏」(あやし)という。 その出自は後漢霊帝の子孫といい、秦始皇帝の末裔という「秦氏」と並び称せられる。 東漢氏(倭漢:やまとのあや)と西漢氏(河内漢:かわちのあや)の両系にわかれ、その後に渡来した今来漢人(新漢人:いまきのあやひと)を加え,巨大な氏族として存続した。

 

 東漢氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団の総称とされ、阿知使主は大和の「綾藩」の創始者となった。古代史研究家の門脇禎二氏は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」という。

 

奈良県高市郡明日香村檜前に鎮座する式内社に「於美阿志神社」(おみあしじんじゃ)がある。 当地の地名「檜前」(ヒノクマ)は『倭名類聚抄』大和国高市郡の「檜前郷」の遺称で、この社は「東漢氏」(倭漢:やまとのあや)の氏寺と考えられる古代寺院「檜隈寺」(ひのくまでら)の跡に鎮座している。

 

氏神とする於美阿志神社


 当社は御祭神として東漢氏の祖である阿知使主(あちのおみ)夫妻を祀っており、東漢氏の氏神としている。社名である「於美阿志」(おみあし)とは、「於美」は「使主」、「阿志」は「阿知」の意とし「阿知使主」のことであるとされている。東漢氏は上述のように阿知使主を祖とする渡来系の氏族だが、単一の氏族でなく来朝した数多の渡来系氏族が共通の祖を設けて集団化したものと見られ、彼らは檜前付近を拠点としたと考えられている。

 そして檜前に居住した東漢氏が氏寺として創建したのが「檜隈寺」で、この寺院が彼らの統合の象徴として運営されていたと推測されている。現在は残っている遺構から檜隈寺がかなり大規模な寺院であったことが知られているものの、檜隈寺についての文献は少なく、正史ではわずかに『日本書紀』朱鳥元年(686年)八月の条に見えるのみである。

 

 この神社、少々不可解な点がある。それは東向きに建つ境内社と、最奥部に北向きに建つ境内社がある。どちらも社名・祭神が不明なのである。大概の神社では、奥にある小さな祠こそが本当の社であることが多い。意図的に隠しているのである。

 

祭神不明の東向きに建つ境内社

 

最奥部に北向きに建つ謎の境内社

 

 『続日本紀』では「東漢氏」の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ、「帯方郡」(たいほうぐん)へと移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。また、阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなったという。そして「掬」(つか)の代に「東漢」直姓を賜ったとされている。

 

 この部分を読むと、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れてきたというのなら「物部氏」である。なにせ秦氏は「牛」の燔祭を止めさせた一族だからで、全国に今も残る「牛」のつく地名には必ず物部氏の呪術師が居たことを伝える場所が多い。「帯方郡」は中国が支配していた韓半島の場所の呼び名で、魏志倭人伝にも登場してくる場所である。後の「百済」(くだら)に当たる。また「漢」の時代とは紀元前206年~西暦220年である。よって「漢末」というのならば、物部氏ではない。

 

「帯方郡」と「弁韓・辰韓・馬韓」

 

 東漢氏は、記紀の記録から土木建築技術や織物の技術者が多く居たことがうかがい知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、内蔵省・大蔵省などの官人を出している。また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。壬申の乱の際には蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を出している。

 

 系図は不明だが、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、常に通交すべきである」と朝廷に奏上している。小野妹子は隋では「蘇因高」と呼ばれ、その正体は聖徳太子であり、蘇我馬子でもあり、秦河勝でもある。つまり東漢氏とは渡来時期が異なる「秦氏」なのである。

 

小野妹子(左)と秦河勝(右)

 

 東漢氏と直接の関係は無いが百済から五経博士「漢高安茂」(あやのこうあんも)という人が派遣されているが、生没年は不詳、継体天皇の在位中である516年に、朝鮮の百済が倭国に貢上したとされる。中国人名であるため百済に帰化していた中国人とみられるが、正体は始皇帝亡き後の「秦」の戦乱を逃れて朝鮮半島に移住した秦氏である。

 

 尾張と美濃には、技術部民が多く、「鞍部」(くらべ)は鞍・鐙などの各種の馬具を制作していた漢部であり、「錦部」(にしきべ)は絹織物製造担当の漢部であった。「部」の民とは、本来は最初に日本に渡来した物部氏の末裔であり、4世紀以降に渡来した秦氏が物部系神社を次々に乗っ取り、配下に収めつつ、やがて婚姻によって習合していった。「牛」を神の遣いとして奉ずるのは「物部氏」であり、倭=ヤマトも河内も物部氏の土地であった。そこにやって来た秦氏が合体、「漢部」となったのである。なぜなら共に聖書文字として「漢字」を使う民族だったからである。

 

<つづく>