終末預言と 「偶像崇拝」の謎:最終回

 

 「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」 (「ヨハネ黙示録」第22章15節)

 

 「すると、獣は捕らえられた。獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」 (「ヨハネ黙示録」第19章20〜21節)

 

  ナチスドイツのような独裁を行うためのファシズムを根本とした「選民思想」をいうつもりはないが、大和民族は『選ばれたシオンの民』である。それはサタニズムに支配されたナチスが、科学技術を急速に発展させ、世界を終わりに導くための「兵器」を開発したのとは真逆の話であり、「神の兵器」によって失われた故郷であるシオン=エルサレムをカナン人の末裔であるロスチャイルドやロックフェラー、ラムセス2世の末裔でもあるバラク・オバマやローマ教皇フランシスコから奪い返さないといけない使命を持つ。

 

ナチスドイツによる偶像崇拝の象徴:ハーケンクロイツ

 

 それが大和民族がこの国で行ってきた全ての神事の意味なのであり、その預言を成就させるためには、大和民族と敵対する世界の民族との戦いとなる人類最終戦争「ハルマゲドン」を戦わねばならない。もちろん、その時には失われた12支族が全て集合することとなる。その中にはヤフェト系の白人との混血や本物のヤフェト・メーソン、遠い昔に分かれた失われた10支族の本隊もいる。そうでなければ世界を支配したニムロドの末裔とハム・メーソンを乗っ取ったカイン・メーソンと戦えないからだ。

 

 童謡「カゴメ唄」、そして国家「君が代」は終末預言の歌であったが、もう一つ「預言」の歌が残されている。「預言」というのは、単に悪い未来、悲しい未来が必ずやってくるということではない。そこには必ず「救い」の計画がある。しかしながら、この国の民が目覚めなければ、その救いは非常に限られることとなる。この「救い」の預言の歌が童謡で作者不明の「さくらさくら」である。

 

◆「さくらさくら」と「偶像崇拝者」たちの滅亡

 

  さくら さくら やよいの そらは みわたす かぎり 

  かすみか くもか においぞ いずる いざや いざや みにゆかん

 

 <ヘブル語翻訳>  

  隠れてしまった 唯一の神が、迫害を受け耐え忍び

  死んで犠牲になってしまった 

  くじ引きで引き当たられ、引き取られてしまった

  素晴らしい神の計画 それは救いである

  その救いの捧げものが成就した

 

 つまり、「さくら さくら」の中にイエス・キリストの十字架の磔刑と人類の救いの預言が込められていたのである!但し、「救い」は誰にでももたらされるものではない。2023年の「諏訪大社」の「筒粥神事」の結果は「三分五厘」であった。諏訪大社では「浮き沈みのない平な一年」と評した。それは、あくまでに表向きの表現である。別の読み方をすれば、全てが「真っ平ら」になってしまうという預言となり、既に「蘇民将来」の仕掛けは終わったという意味の可能性すらある。なぜかと言えば、それは岡本天命の預言書『日月神示』の上之巻・第三十三帖(三十三)に、以下の預言が残されているからだ。

 「未来の仕組みは全能の絶対神によって既に万端である。残るのは神の民である日本人の覚悟と準備にかかっている。その用意を準備万端なくやってほしい。富士山の空が晴れて、美しい日本晴れになる意味がよく分かってくるはずである。その晴れた神域に「神」の名を徴記す石がある。その石を心ある団員が分けて守護のお守りにしてほしい。天孫族、琉球民族、アイヌの三民族は、それぞれ自分達に託された与えられた準備をこなしてほしい。神は急ぐからである。」


伊勢地方で掲げられる「蘇民将来子孫家」の札

 

 同じ系統のYAPの遺伝子を持つ天孫族、琉球民族、アイヌ民族という「ヤ・ゥマト」は1つにならないといけないが、それぞれ与えられた使命は異なる。だが、この3つが一つのならないと、日本列島の「ヤ・ゥマト」の集合という預言は成就されない。岡本天明の預言は事が全て成就して「日本晴れ」となったとも受け取れる表現だが、裏を返せば「艮の金神」が日本列島を綺麗に掃除した後の光景とも受け取れる。日本と大和民族の大掃除が終わったということ意味である。

 

 「艮の金神」がいつ出てくるのかは分からない。だが、ビル・ゲイツ製の「遺伝子組み換えゲノム溶液」を接種し、既に亡くなった人にとれば、既に「艮の金神」に滅ぼされたのと同じである。こうした状況が発生すること警告しなかればならないはずの日本の自称予言者、超能力者、霊能師、宗教家、コンタクティ、占い師、陰謀論者、オカルト研究家、オカルト系ユーチューバーといった人たちは、誰一人ロスチャイルドとロックフェラーの仕掛けによる遺伝子操作遅死ワクチンへの警告すら出来なかった。そう、全滅である。最も世の中へ警告を発しなければならない時に、勇気を出さずに「沈黙」したのである。

 

サタン=赤い龍


 筆者も含め、こうした人たちはみな「偶像崇拝」に陥ったのと同じである。ユーチューバーだろうが、占い師だろうが、陰謀論者だろうが、オカルト研究家だろうが、みなYouTubeやらブログやらSNSやら、全て「偶像崇拝装置」の上で踊らされていただけなのである。

 

 特に地上波TVやYouTube、TikTokで活躍している人たちはみな「アウト」となる。全て「浄化」される対象となるのだ。絶対神というのは生易しい存在ではない。さらに、ビル・ゲイツ製「遺伝子組み換えゲノム溶液」を接種してしまった人と混じってしまった人たちも、またワクチンを接種していなくともスマホ中毒となって自己顕示欲や自己承認欲求の塊となった人間、頭の中が性欲だらけの人間も「偶像崇拝」に陥った者として滅ぼされることとなる。そこには男女も年齢も人種も関係ないのである。

 

悪魔の祈祷と「偶像崇拝」


 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(「マタイによる福音書」第5章 27 - 30節)

 

 「姦淫してはならない」ということで、それは「妄想」すら同じだと言っているのだ。もはや筆者もすぐに滅ぼされてしまうことになりそうだ(笑)。しかし、そんな中でも残される人たちは確実に存在する。それは「穢れ」ていない人たちである。

 

 

◆「神道」の奥義、それは「鏡」である

 

 神社にはご神体として「鏡」が置いてある。神棚があるお宅ではなくとも、家の中でもわれわれはほぼ毎日鏡を見ているのではないだろうか。神社における「鏡」は一般的に太陽を指しているといわれている。その理由は鏡で太陽の光を反射するのを正面からみると鏡が太陽のように光り輝いて見えるからである。つまり「天照大御神」の象徴である。

 


神社の御神体である「鏡」


 日本では太陽神である「天照大御神」を最上の神として祀るため、太陽を象徴する鏡をご神体として神社に祀る。また、鏡に映った自分自身の姿から自分の行動を自覚する、つまり「鑑みる」(かんがみる)という意味も込められている。神社に祀られている「御神鏡」の起源は、「天岩戸神話」と「瓊瓊杵命」(ニニギノミコト)の天孫降臨神話における天照大御神に行き着く。

 「三種の神器」の一つである「八咫鏡」は、日本神話において天照大御神が天の岩屋戸に隠れた際にその姿を映した鏡と言われ、瓊瓊杵命が高天原から下る時、天照大御神は「八咫鏡」について、次のような神勅を下している。『古事記』には「此れの鏡は専(もは)ら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉(まつ)れ」、また『日本書紀』には「吾が児(みこ)、此の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし」とあり、これは神のお姿は目に見えないが、この鏡を神自身と思って見よということである。つまり物理的な視力で見るのではなく、心眼をしかと見開いて見よということなのだ。伊勢神宮ではこの「八咫鏡」を御神体としている。神棚に納める御神札も、伊勢神宮の神宮大麻である。

 

「天照大御神」の御札(神宮大麻)

 

 神道では「目に見えない存在」を神として崇めよと言っているのである。そこには「偶像」は存在しないのである。そこにこそ「神道」の奥義があるのだ。国教たる「神道」には教義は存在しないが、「偶像崇拝」をさせないのである。それは古代エジプトで奴隷だったが、大予言者モーセに従って「イスラエル王国」を建国するも、偶像崇拝に陥ったことで国が分裂、さらに国をも失ってしまった苦い過去があったからである。カナン人たちに騙されて偶像崇拝に陥ったことを二度と繰り返すまいとして、宗教の根本に「偶像崇拝の禁止」を据えたのである。それも言葉として書かずに、である。ここが最も重要な部分である。

 

 ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も仏教も、あらゆる宗教は「偶像崇拝」を禁じたにもかかわらず、「教義」の中に文字として描いてしまったことで、逆に偶像崇拝に陥ったのである。そして、最も「偶像崇拝」を禁じないといけないコロナ禍において、奇しくも社会の安定を優先するがゆえに、全ての宗教者たちがまんまと「偶像崇拝」に陥ってしまったのである。みな滅ぼされることになる。但し、「穢れ」を除いた人たちだけは滅ぼされることなく、次の世へと生き残ることができる。そこに関わる神道の呪術が「左義長」(さぎちょう)である。

 

左義長(お焚き上げ)

 

 「左義長」は小正月の伝統行事として毎年1月15日に執り行われる「火祭り」である。 正月飾りや書き初め、古いお札、お守り、念願が成就して両目を書き込んだだるまなどをお焚き上げするものである。神棚に納めていた神の名が記された御神札も、自分の身代わりとなって守ってくれた御守りも、願いをかけるだるまも、全て正月を終えると燃やすのである。それは「全ての執着を捨てよ」という神道の奥義であり、天照大御神=イエス・キリストの与えた人類へのメッセージなのである。

 

 この世に「執着」する者、自分の財産、地位、名誉、全て「捨てよ」と言っているのである。それが「捨てられない」、物質的なこの世に「執着」している限り、「偶像崇拝」からは逃れられないというメッセージなのである。正月も左義長も神輿を担ぐことも、毎日風呂に入って「禊」を行う行為も、日本人が続けてきた神事とは全て「預言成就」のための呪術であり、神との「契約」なのである。そして、ことが成就したら、皆で盛大に祝って「鏡割り」を行う。それが奥義である。

 

「鏡割り」

 

 「鏡割り」を行うとは、全国の神社に祀られる「御神鏡」を割るということである。それは神との契約が成就したことを祝って、「十戒の石板」の象徴である「八咫鏡」が不要になるということである。「十戒」を守ることができた「穢れ」のない人間たちが、新たなる世を引き継ぐ祝いなのである。

 

 <「十戒」>
   1.私以外の神をあがめてはならない
   2.偶像をつくってはならない
   3.神の名をみだりに唱えてはならない
   4.安息日をまもれ
   5.父母を敬え
   6.殺してはならない
   7.姦淫してはならない
   8.盗んではならない
   9.偽証してはならない
 10.   隣人の持ち物をねたんではならない

 

  いったいあなたはいくつ「戒め」を守れているだろう?

 

<終わり>

 

 AKB48のメジャーデビュー曲は「会いたかった」だが、インディーズでのデビュー曲は「桜の花びらたち」である。歌詞を読んでみると、やはり偶像崇拝ソングだった(笑)。

 

 桜の花びらたちが咲く頃

 どこかで 誰かが祈ってる

 新しい世界のドアを 自分のその手で開くこと

 

 そして、最後の一節は「眼の前の大人の階段 一緒に登って手を振ろう」である。少女たちの花びらが咲くと大人の階段を上がれるよという危険な歌詞である(笑)。

 

 日本人は「桜」を愛する国民である。それは「散り際」がきれいだからである。日本人ほど「死に際」をきれいにしたいと考える国民はいない。それは、一切の穢れを取り除いた状態でなければ「天国」にはいけないことをDNAが理解しているからである。だが、ビル・ゲイツ製の「遺伝子組み換えゲノム溶液」を接種してしまったら最後、そのDNAすら失ってしまい、「穢れた状態」で死を迎えるということなのである。だからこそ、ワクチンも打ってはならず、コオロギの粉末も口にしてはならないのだ。ましてやあアメリカが押し付けるSDGsやLGBTQになんか乗ってはいけないのである。大和民族を穢れさせ、絶対神の怒りを買うようにすることこそが、カナン人の末裔が望むことなのだから。

 


 イスラエルの長老数名がわたしのもとに来て、わたしの前に座った。 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、この人々は偶像を心に抱き、彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。それなのに、わたしは彼らの求めに応じられようか。 それゆえ、彼らと語り、彼らに告げなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家の者で、偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が、彼の多くの偶像のゆえに答えよう。 それは、偶像のゆえにわたしから離れ去ったイスラエルの家の心をすべて、わたしが捕らえるためである。
 

 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。 イスラエルの家の者と、イスラエルの中に寄留している外国人のうち、わたしから離れて偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、わたしに尋ねようと預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が答えよう。 わたしはその者に向かって顔を向け、彼をしるしとし、ことわざとして、わが民の中から断つ。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
 

 もし、預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす。 彼らは共に自分の罪を負う。尋ねる者の罪は、預言者の罪と同じである。 それは、イスラエルの家がもはやわたしから迷い出ず、あらゆる背きによって二度と自分を汚さないためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と主なる神は言われる。

 

 (「エゼキエル書」第14章1 - 11節)

 

 もし、新しい世を見たいのであれば、今すぐ「偶像崇拝」をやめて、自身の穢れを浄化すべく、悔い改める道に進まねばならない。人類に残された時間は少ない。