終末預言と「偶像崇拝」の謎:その29
現在のユダヤ教白人種「アシュケナジー系ユダヤ」を世間では「ユダヤ人」だと思い込んでいるが、それはあくまで「ユダヤ教に改宗した白人種」であり、血統的なユダヤ人ではない。「ハザール汗国」の白人種が、ユダヤ教に改宗したことで白人のユダヤ人が出来上がり、その末裔が白人種の宗教的ユダヤ人であり、それら白人種のユダヤ人を宗教画で描き続けた結果、アダムもノアもアブラハムもモーセもイエス・キリストも「白人」だと信じ込まされているだけなのである。これぞ人類史上最大の嘘であり、そうした嘘の偶像を崇拝させてきたのも「アシュケナジー系ユダヤ」に化けたカナン人たちの末裔なのである。
◆ 「ダニエル書」の預言と『死海文書』
『旧約聖書』には、イスラエル建国の預言が残されている。
「お前の民と聖なる都に対して七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し幻と預言は封じられ最も聖なる者に油が注がれる。これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される。」(「ダニエル書」第9章24~25節)
旧約聖書の預言者ダニエルが残した預言の通りになる出来事の前兆が1947年に起きた。まだイギリスが委任統治していたヨルダン川西岸地区のクムランの丘の一つの洞窟から、20世紀最大の考古学的発見と言われる『死海文書』が発見されたのだ。ベドウィンの羊飼いの子供達が偶然にクムランと呼ばれる洞窟に入り、そこでパピルスと羊のなめし皮に書かれた古代ユダヤの巻物が入った壷を発見。これ以降、この地域から併せて972もの巻物の断片が発見された。
クムラン洞窟
『死海文書』は972の写本群の総称で、主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書から成っている。死海文書が発見された場所であるクムランは、1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。なお、広義に「死海文書」という場合、クムランだけでなく20世紀後半の調査によってマサダやエン・ゲディ近くのナハル・ヘベルの洞窟から見つかった文書断片なども含むので、文書数には幅が生じる。
死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。文書は大部分がヘブライ語で書かれており、2割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテア語の文書も含んでいる。多くは羊皮紙であるが、一部は砂漠では生産されない牛皮であり、また一部パピルスもある。
死海文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられているが、死海文書を記したとされる「クムラン教団」については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流であるが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。要ははっきりしていないということである。
『死海文書』
『死海文書』は「二十世紀最大の考古学的発見」ともいわれているが、発見された場所がイギリス委任統治領だったクムランだったこと、また結局は誰が作ったのかは未だに不明なのだ。ここにこそ秘密が隠されているのである。だが、1948年4月に死海周辺で古代の写本を発見というニュースは世界に伝わり、ユダヤ人たちの「シオニズム運動」が爆発的に動き始めることになる。古代のイスラエルがあった場所にユダヤ人たちを帰還させようとするこの「シオニズム運動」が盛り上がった背景には、二枚舌外交のイギリス(=ロスチャイルド)がア
さらに「ユダヤ人」たちの念願だとしたイスラエル建国が急速に進んだ背景にあったのが、ナチスによるユダヤ人迫害と虐殺であった。
◆ナチスによるユダヤ人虐殺とイスラエル建国
自身にユダヤ人の血が入っていたとされるヒトラーは、天才的ユダヤ人科学者たちを厚遇したが、一般のユダヤ人たち、特に金融を生業にしたユダヤ人たちを憎み、ヨーロッパに住んでいたアシュケナジー・ユダヤ人たちを絶滅しようとした。先導したのはアイヒマンである。
アウシュビッツ強制収容所のユダヤ人
このナチスによる「600万人のユダヤ人虐殺」というのは、戦後のアメリカの新聞・映画・TV・紙媒体というメディアを通じた実態を遥かに超えた数値で、「ユダヤ人=迫害された可哀想な流浪の民」という喧伝が功を奏し、ロスチャイルドにより支配されたイギリスとロックフェラーのアメリカによるバックアップで、本当のユダヤ人ではない非セム系の白人のユダヤ人たちによるイスラエルが建国される。
「600万人のユダヤ人虐殺は無かった」と書くと、世界中の偽ユダヤ人から攻撃を受ける対象になる。実際、「600万人のユダヤ人虐殺は無かった」と書いた文藝春秋社の雑誌『マルコポーロ』は翌月に廃刊処分となった。いわゆる「マルコポーロ事件」である。発端は『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」でだった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、アウシュヴィッツとマイダネクに観光に訪れた際に撮影などを行った後、1989年頃から収集した英文書籍に基づき執筆したものであった。その内容は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは明白な史実としながらも、以下のような論旨であった。
1.そのナチス党政権下のドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとした、とする従来の主張には根拠がない
2.その手段として使用されたとするガス室は、それらの位置や構造からみて、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造したものとしか考えられない
3.戦後、連合国軍が押収したドイツ政府文書から判断して、ナチス党政権下のドイツが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んで企図した計画は、ソ連を打倒した後、ヨーロッパのユダヤ人をロシアに強制移住させるものだった
4.収容所でユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死である
この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは1995年1月17日であったが、同日未明に起こった阪神大震災のため、発売直後には震災報道に覆い隠されて記事は注目されなかったのだが、雑誌発売を受けてアメリカのユダヤ人団体と駐日イスラエル大使館が、文藝春秋に抗議を開始。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、『週刊文春』をはじめとする文藝春秋の発行誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。そして直ぐに廃刊が決まったのである。
西岡氏はヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかったとしている。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることで、彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlösung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒 した後、実行するつもりでいた。ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡する。戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。
ユダヤ人少女と仲良しのアドルフ・ヒトラー
どこまでが本当の話で、どこからが嘘なのかは分からない。だが、戦後にアメリカのユダヤ人協会が発表した世界のユダヤ人人口では、600万ものユダヤ人が減少したとする記録は残されていないのである。多く見積もってもせいぜい40万人程度なのである。だが、そうした真実は伝えてはいけなかったのである。なぜなら、「国を持たない=再びホロコーストが起きる」という恐怖をアシュケナジー系ユダヤ人の脳裏に刻み、さらに世界中にイスラエル建国の必然性を認めさせることが目的だったからである。
白人系ユダヤ人が現イスラエルに住むことの正統性の証しとする『死怪文書』が世に出て7週+62週=69週(7×69=483日)目の360日(1年)+123日(約4カ月)後、ダニエルの預言通りイスラエルは建国された。ユダヤ人の祖国への帰還を促する「シオニズム運動」は、実は第二次世界大戦の前から言われていたことで、当初ヨーロッパに住んでいたアシュケナジーユダヤ人たちは、今さら砂漠に帰るということを嫌がっている人が圧倒的に多かった。
そこでロスチャイルドがナチスドイツをバックアップする形で、ヨーロッパに住んでいたユダヤ人に恐怖を与えた。「自分たちの国がないとまた虐殺されるぞ!人体実験されるぞ!」と。この恐怖が見事なまでに功を奏し、白人のユダヤ人によるイスラエルが建国された。パレスチナ人からカナンの地を奪い返してイスラエルを建国したアシュケナジーユダヤ人にとって、次に成就しなければならない預言が「聖地エルサレム奪還」であった。
<つづく>