「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである」 

(「ローマ人への手紙」2章1節)

 

 

 重〜く響く言葉だ。

 筆者はキリスト教徒ではないが、この「ローマ人への手紙」でパウロが呼びかけている対象は、自分たちは神に選ばれた民で、律法に通じていると勝手に自負しているユダヤ人たちである。この連中は、律法の基準に従って、自分たちが他人を裁くことができると勘違いしている連中である。だからこそ、律法を無視するような発言をした救世主イエス・キリストを十字架にかけてしまったのである。その人は自分たちの絶対神なのにも関わらずだ。

 

 自分が神の意思を知っているかのごとく考えること自体が傲慢なのであり、とんでもない間違いを犯しているのだ。律法に通暁した自分たちが裁かれることはないと勝手に考え、他者を裁くような増長した姿勢を示すことをパウロは激しく批判する。まぁ、筆者もよく安倍晋三やら池田大作やらビル・ゲイツやら、大和民族を亡き者にしようと企む輩を猛批判して断罪してしまうのだが(笑)、きっとパウロが現れたらえらい批判を受けそうだ。

 

 だが、やたらと知識をひけらかして他人を批判する輩は、どこの会社にも役所にも大学にもいるものだ。キリスト教敵には、自分が罪人であるという現実を自覚せずに、他人を裁くような姿勢を見せることは「悪行」となる。自分を棚に上げて他人を裁くような人間は、たとえ主観的には正義の告発者であっても、神の視座からすると罪深い人間なのである。その意味で考えると、筆者はとても罪深き人間である。

 

 この辺りは非常に難しい。正義の名のもとに悪と戦うことや、悪を断じることも罪深い人間とされてしまうのだろうか?筆者の場合、「勧善懲悪」で悪者は退治しないといけないという考え方が、幼少の時から育まれてしまっているため、どうも反大和民族(※反日本人ではない)の輩を許せないのである。狭小なのだろうか?まぁ、最期は神によって裁かれることになるのだろうから、しばしパウロに怒られても悪者退治の発信を続けて行こうと考えている(笑)。