終末預言と 「偶像崇拝」の謎:その23

 

 Adoは2020年にデビューした女性シンガーで、「うっせぇわ」「新時代」などの大ヒットを生んでいる。その特徴は「顔出しNG」なことである。最近はAdoに限らず、顔出ししないアーティストも増えており、覆面グループやら、正体不明バンドなども次々と登場している。昔はZARDなど写真では認識していてもTVにほとんど出演していないため、実態が分からないアーティストもいたが、そうした方々はあくまでも戦略上そうしていたもので、現在の顔出ししないアーティストたちが、戦略なのか、はたまたネット全盛の時代に何らかの恐怖を抱いて顔を出さないのかは知らない。

 

Adoの「オールナイトニッポン」

 

 「顔を出さない」というのは、呪術的にいえば「呪詛」を受けない意味になる。よって、誰かが呪詛しようにも、名前も芸名でそれもローマ字やカタカナ、顔も分からないときたら「呪詛」ができない。もしかしたら、こうしたアーティストたちは、無意識のうちにそうした「呪詛」を恐れているのかもしれない。よって、アイドルへのストーカー行為などの「事件」には発展しない。

 

 「ストーカー」行為は女性アイドルに限った話ではない。逆に女性のファンの方がヤバい場合も多い。筆者が20年前に仕事をしていたさる著名アーティストのマネジメント会社には、ちょくちょくヤバい女性ファンがやって来てはスタッフを悩ませていた。ある日、事務所のドアがノックされ、開けてみたら真っ白なウエディング・ドレスを身にまとった女性が立っていて、ドアを締めてしまった。その後、その女性はトイレに篭り、手首を切ってウエディング・ドレスを真っ赤に染めた、とか。病院で治療を受けた後、ご本人曰く「彼が結婚すると言ってくれた」と言ってたという。ちなみにその女性は千歳空港からウエディング・ドレスを着ていたらしい(笑)。筆者は他人事なので笑ってしまったが、事務所の方もご本人も笑い事ではなかったに違いない。だが、大いなる「勘違い」である。

 

◆アイドルビジネスを作った「ジャニーズ」

 

 元祖アイドルビジネスのモデルを作ったのはジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟である。様々なグループのメンバーが相次ぐとともに、ここのところ、ジャニー喜多川氏の昔の下半身事情が報道され、天下のジャニーズも大変な状況に陥っている。だが、ジャニーズの凄いところは、「群れない」ところだ。ジャニーズ事務所本体は、決して業界団体にも入らず、なぁなぁな業界慣習には従わなかったことである。宗教的に考えれば、絶対に「分派」しなかったところが、長い間ジャニーズの一人勝ちが続いた一つの要因である。

 

ジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟

 

 ジャニーズの強いところは、「メンバーの入れ替え」は行われず、基本的に解散まで同じメンバーで、各グループごとに特徴が異なる点である。グループの人気メンバーが卒業することで人気が落ちることはない構造だった。また、似てはいるもののグループごとに特徴が異なる点もジャニー喜多川の類まれなプロデュースの手腕によるところが大きかった。少年隊、SMAP、TOKIO、嵐、Kinki Kids、V6などなど、どのグループにも美少年やら面白キャラがいたり、最盛期の収入は下手なレコード会社よりも巨大だった。

 

 ジャニーズは、日本的にいえば「八百万の神々」の多神教である。だが、創始者で育成・プロデュースのジャニー喜多川はメディアには一切登場せず、一般人=ジャニーズ信徒には何も語らなかった。教えを授けたのは寵愛した少年=信徒に歌とパフォーマンスという神の言葉を届ける「預言者」たちに対してだけである。つまりジャニー喜多川は「姿の見えない絶対神」で、スキャンダルが露呈した少年はすぐに退所させられる辺りは「十戒」を守らないヘブライ人をすぐに罰する怒れる神ヤハウェそのものである(笑)。その意味では非常に「ユダヤ教」的だといえる。

 

 しかし一方で「男の子のみ」という宗教モデルは、聖職者は男性のみという極めてユダヤ・キリスト教的なものである。美しい影のある少年が必ず配置され、輝けるスターになるというのは、まるでイエス・キリストのようにも感じる。だが、男の子を寵愛してしまうのは極めてカトリックの俗の部分の象徴とも言える(笑)。そんなジャニーズも二人のカリスマ創業者=宗教の始祖が消えたことで退所騒ぎが続き、BBCのように公然と攻撃するメディアが登場したのも「令和」だからである。

 

ジャニーズ大集合

 

 ジャニー喜多川こと喜多川擴(きたがわひろむ)は、なぜ「群れる」のを嫌い、「分派」をさせなかったのだろうか。ご本人は一切インタビューを受けない方だったので、独白本もなければ自伝もない。よって、ここからは筆者の想像でしかない話として断っておくが、この理由は父親の喜多川諦道氏の影響なのではないのか。父の喜多川諦道氏は高野山真言宗米国別院の僧侶だった人物である。仏教の世界の中で空海の教えである真言宗だけは分派がなかったのである。厳密には真言宗は16派に分かれているが、全て「真言宗」である。日本の仏教は13宗派56派の宗祖・教え・教典・唱名などがあるが、最澄の天台宗からは日蓮、法然、親鸞など、みな違う宗派を作り出していったのである。


 1933年に喜多川一家はアメリカから日本へ移住し、大阪府大阪市で生活した。しかし間もなくして母親が死去、やがて太平洋戦争が勃発すると子供達だけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開している。その後満年齢16歳まで日本で育った。那智には熊野三山の一社、熊野那智大社があり、ここ熊野は裏神道「漢波羅秘密組織」の「八咫烏」の聖地である。もしかしたら、少年時代の喜多川擴少年を導いたのは「八咫烏」だったのかもしれない・・・なんてことはないと思う(笑)。そんなことがあったら、非常に面白い天界になるのだが。

 

◆令和における言葉の変化=「神」と「鬼」

 

 神7(かみセブン)とは、AKB48用語の1つである。選抜総選挙で7位以内に入った同一メンバー、もしくは上記7人を指していたが、AKB48初日公演の一般観客が7人だったことから、その一般観客をファンの間で「神の7人 / 観客神7」と呼ぶ人も存在する。

 

AKB48の「神7」(かみセブン)

 

 Wikipediaによれば、2009年の第1回選抜総選挙と2010年の第2回選抜総選挙で7位以内に入った同一メンバーの7人を指していたが、2011年の第3回選抜総選挙で板野友美が8位に順位を下げたために、同年以降は選抜総選挙での上位7人のメンバーを指す用語として使われるようになった。この第3回選抜総選挙に関しては、従来の神7メンバーに3位で入った柏木由紀を含めて「神8」という言葉もメディアで使われた。ちなみにこの「神8」もAKB48のファン用語で、第1回・第2回総選挙で上位7位に入った7人である(大島優子・前田敦子・篠田麻里子・板野友美・渡辺麻友・小嶋陽菜・高橋みなみのこと)の「神7」に、柏木由紀を加えた8人のことだという。どうもAKBのファンは「神」を使うのがが好きなようだ。

 

「”神8”グラビア降臨」を告げる週刊プレイボーイ

 

 この頃の写真を検索したら、あった。「”神8”グラビア降臨」を告げる「週刊プレイボーイ」の表紙とメンバーたちが紹介されていた。それにしても「神が降臨」としてしまう表現が凄まじい。「女神」ではなく「神」というのがポイントである。こうした「神」を使う表現は、2016年以降、ネットを中心に頻繁に使われている。神対応、神主婦、神BODY、神回、神ってる、などなど。ひと昔前の「カリスマ○○」「歌姫」に通じるものだが、日本では古来より「神懸かり」という言葉があり、人間の偉業を神に例えて「神がかっている」という語になった。神道では偉人は死んだ後に神になり、菅原道真も豊臣秀吉も徳川家康もみな死んだ後に神として祀られた。こうした人間が神になってしまうという考え方は、日本では不思議に思わないかもしれないが、海外からすると完全に「カルト」なのである。

 

 これは「日本の神秘」というイメージの話ではなく、戦前の国家神道を英米は完全に「カルト宗教」と認識していたということである。よって、こうした「カルト宗教」を徹底的に潰すために、日本には焼夷弾の雨が降り、原爆が投下された。米国の秘録では、当初はあと19発の原爆を日本に投下する予定だったが、昭和天皇によるいわゆる「玉音放送」と呼ばれた「終戦の詔」によって戦争を終結させたことで、日本全国に原爆が投下されることはなかった。終戦後には天皇の「人間宣言」なるものも行われたが、これまた変な話で、海外からすれば、なんで人間が人間宣言をする必要があるのか、ということになるのだ。その文脈からすれば、この国の人間の意識の構造は戦前と大して変わっていない。マッカーサーが言い放った「アングロ・サクソンは(科学や文化において)45歳の壮年に達しているが、日本人は生徒の段階で、まだ十二歳の少年である」という言葉は、アイドルの少女たちを「神」と呼んでる状態を見れば、ほとんど進歩していないように思える。

 

 「神」とは別に、意味を強調して使う時、「超」 「マジ」ではなくて「鬼」を使う人も増えている。「鬼つよ」「鬼アツ」「鬼かわいい」などで使われ、元は主にネットで使われていた用法である。

 

「鬼アツ」

 

 「神」について、「現代用語の基礎知識2017年版」は「何かのレベルが神の領域であり、超すばらしいこと」と解説している。「神曲」「神ゲー」、親友ならぬ「神友」など、ほめたい名詞を修飾する形で使われる。一方、「鬼」を付けるのも同様で、「とても。やばいくらい」を意味する。名詞の前に付く「神」に対して、「鬼」の方は「鬼強い」「鬼速い」のように形容詞の前に付く例が多い。短い言い回しを好む若者言葉らしく、「鬼のように」を省略した形で使われるが、風神や雷神など、荒ぶる神が鬼の姿で描かれるように、古くは「カミ」と「オニ」は同義だった。

 

「鬼滅の刃」

 

 「鬼」は大ヒットアニメ「鬼滅の刃」等にも登場、昔話の「こぶとりじいさん」のように、ときに鬼は福をもたらす存在として姿を現す。それを好んで使っている現代人が知ってか知らずか、「神」と「鬼」が同じようなプラス方向の強調の働きをしているのは、令和ならではの何とも神秘的な現象である。

 

<つづく>