終末預言と 「偶像崇拝」の謎:その10

 

 「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」

    (「ヨハネ黙示録」第22章15節)
 

 イスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教における「偶像崇拝」を論じてきたが、宗教の多くは崇拝の対象を「形」にして拝む。代表的な物として、仏教の「仏像」やキリスト教の「聖画」や「聖像」がある。ユダヤ教のように、「偶像を作ってはならない」「偶像を作らない」ということがその宗教の根幹であると主張する場合もあり、神を崇める古代ギリシャでは神ゼウスやアポロンの像などの「神像」が発展した。

 

 問題は「仏教」である。日本は基本的に「神道」の国であるものの仏教徒も多く、無宗教としている人でも亡くなる時には仏教式の葬儀で葬られる人も多い。仏像を祀ること、そして所有ということに関して、初期の仏教と今の仏教では考え方が違っている。なにせ日本には膨大な数の大小さまざまな仏像があり、ある意味で「仏像天国」のような状態だからだ。今の日本の仏教を見ると、仏像がブームとしてもてはやされたり、所有に関する戒律などないように見えるという点では、像を作ること、拝むことを禁じた釈迦の教えと違っているように感じられるのだが、果たしてどうなのだろうか。

 

 2022年11月23日、京都の浄土宗寺院・龍岸寺で「ドローン仏」を用いた法要が行われた。ドローンに仏像を乗せて浮かび上がらせることで、「阿弥陀如来の来迎」を具現化しようというものだそうである。

 

中空に浮かぶ「ドローン仏」

 

 浄土系仏教では念仏を称えて臨終を迎えた信者に「阿弥陀如来」が菩薩を伴い、極楽浄土へ迎え入れるべく雲の上から訪れるとされる。その情景を描いた絵画は「来迎図」と呼ばれている。この日は阿弥陀如来と9体の菩薩が浮かび上がり編隊飛行を披露。最新テクノロジーを用いた「来迎図」を完成させた。ドローン仏を作った仏師・三浦曜山氏は「仏像とは仏像の向こうにある仏様に祈りを捧げるもので、仏像そのものが存在を主張してはいけない」と語っている。「空」や「無我」を説く仏教において、仏像自体が主役になる偶像崇拝に陥ってはならないとされるからである。

 

◆仏像と偶像崇拝の禁止

 

 仏教はけっして偶像を崇拝する宗教ではない。偉大な「釈迦如来」を偶像で表わすのは、畏れ多いということで、象徴的な表現をしたものを礼拝の対象とした。その対象には「法輪:宝輪」(ほうりん)、「足跡:仏足石」(ぶっそくせき)、「菩提樹」(ぼだいじゅ)、「蓮華(れんげ)」、「塔婆:舎利塔」(とうば:しゃりとう)などがある。「法輪」は釈迦如来が太陽のように我々の生活に無くてはならない存在であるとし、太陽を図案化してシンボルとしたものである。とはいいつつも、仏教美術においては実に多種多様な仏像が造形されてきたものだが、冷静に考えれば、それは偶像ではないのである。

 

上段:「法輪:宝輪」「蓮華」

下段:「菩提樹」「足跡:仏足石」「塔婆:舎利塔」


 『広辞苑』によれば、偶像とは「伝統的または絶対的な権威として崇拝・盲信の対象とされるもの」とある。つまり「絶対的」なものであるのならば、逆にこれほどのバリエーションはあり得なかったはずである。歴史的に見ると、ムスリムが七世紀後半以降、「偶像破壊」の名目で何度も北インドに攻め込んでいる。多くのヒンドゥー教や仏教の寺院が仏像もろとも破壊され、僧尼も殺されているのである。外から見ると、仏像たちは偶像の如く大切に祀られているように見えた、きっとそれは間違いないのだろう。
 基本的に仏像とは、仏教の教えや実践の大切さを思い起こす「縁(よすが)」と考えていい。「空即是色」じゃないが、世界が「空」であることも、人は何らかの「色」によってしか憶いだせないのだ。

 

聖地ブッタガヤのマハボディー寺院に立つ菩提樹

 

 仏教において釈迦入滅後の500年ほどは、仏像は造られていなかったとされる。釈迦は、自らの知恵によって苦悩から超越するという悟りを人々に説き、自分以外のものに身を任せるのを良しとしなかったため、像を作ること、拝むことを禁じている。仏教における偶像崇拝の禁止は、釈迦の遺言のお経としても知られる『涅槃経』で、弟子のアーナンダが、釈尊死後、何を依りどころとすべきかを尋ねたところ、「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」と示し、さらに「自灯明・法灯明(法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ)」ということを教えた。大切なのは「真理・法」であり、よって仏像を崇拝するのは釈迦の教えに合っていないものと見なされてきた。

 

ゴータマ・シッダールタ

 

◆仏像が与えた衝撃と「手立て」という教え 
 

 日本における仏教はもともと宗教というより哲学に近かったが、高度な哲学的真理より辛い現実から救われたい民衆は具体的に見える礼拝対象を求めた。日本に伝来した仏教が、神道を圧する勢いで受け入れられたのは仏像・仏画の存在が非常に大きい。それまでの古神道では山の神や海の神、風神、雷神など自然に対する畏敬の念が信仰対象で、死後の世界観も曖昧だった。神道においても「神像」はつくられなかったため、素朴な信仰に生きていた日本人にとって、きらびやかな仏像や東大寺の大仏のような巨大な仏像は大きなインパクトを与えた。

 

威容を誇る東大寺の大仏

 

 真言・天台の密教の時代になると、不動明王や毘沙門天などの多種多様な仏神が登場する。それは仏教というよりインドの多神教・ヒンドゥー教に近い。密教系仏教はヒンドゥーの神々を取り込み、「仏の弟子」としている。しかし密教も仏教であるため偶像崇拝には陥るまいとする。宇宙の仕組みを表した曼荼羅の中心に鎮座する、密教の最高神「大日如来」は宇宙の法則そのものを表すという高度な抽象的な存在である。だが、密教の神々が〇〇大師、〇〇明王として民衆に浸透してからは、大日如来の影は薄くなり、民衆はお大師様やお不動さんに願いを託すようになった。これは像を拝んでいる、つまり偶像崇拝に当たるのではないだろうか。

 

黄金の仏像

 

 「仏教」は、本来は「諸行無常」を説く教えであり、所有することを制限することを説いている。よって、仏像というものがあることは仏教的ではないはずである。なぜなら仏教は、「執着する心から離れよ」というのがその教えの一つだからである。大切だと感じる物があれば、それに執着してしまい、苦しみをもたらす。よって執着する心から離れることが大切なのであり、所有を制限することが言われるのも「本質」がそこにあるからだ。

 仏像を祀るということに関しても、大切なのはその「本質」である。仮に、特定の「像」に力があって、それを崇拝するとなれば「偶像崇拝」となってしまうため、仏教徒としては避けるべきことだが、「仏像」本来の意義はそうではない。なぜなら、仏像というのは、あくまでも信仰を喚起するための一つの
「手だて」だからである。その「手だて」で仏教の教えをわかりやすく目に見える形として表現し、そして仏像を「敬う」ことを通して「仏・法・僧」の「三宝」を敬う心を養い、同時に自らの在り方を振り返るための一つの指針とする。それこそが仏像本来の役割であり、存在意義である。つまり、「所有の制限」という教えも、その「本質」は「執着から離れる」ことにあり、所有の制限ということも「手だて」であると考えられるのだ。

 

「指月の喩え」

 釈迦の教えの中に、
「指月の喩え」というものがある。「月はどこにあるのか」と訪ねられたとき、あそこだと指を差す。月は指の差す先にあり、指に月があるわけではない。指は月を指し示すための「手だて」であって、月こそが大切にすべき教え、つまり「本質」であるということを表す比喩である。仏教の「本質」は一切皆苦とされるこの人生を如何にして歩んでいくべきか、というところにあるが、仏像だらけの現状を見ると、仏教の「本質」よりも、仏像の素晴らしさやら仏像の美しさ、どんな名工が作ったかなど、その「手だて」のほうに目が行きがちとなる。


 仏像が良いか悪いか、物を持つことが良いか悪いかにこだわるのではなく、その本質にあるのが「手だて」だと考えていくと、実はそこにこそ「仏教」の正体を示すメッセージが隠されていることが分かるのだ。「手を立て」「指で示す」と言っているのである。それはすなわち「フリーメイソン」のサインだからである。

 

 

◆「千手観音」と「フリーメイソン

 

 フリーメイソンの秘儀の中で重要なのが「握手」のしかたと「ハンドサイン」である。近代フリーメイソンは中世ヨーロッパでは国境を越えて王侯貴族の城作りを行っていたが、古代の神殿を建造していた時代においても、言語の違う職人たちがどこに行ってもその日から仕事ができたのは、言葉の通じない職人同士であっても「ハンドサイン」で意思の疎通ができたからであり、メーソン同士はその握手のしかたで相手の階級などを理解したという。フリーメイソンにとって、「握手」と「ハンドサイン」はコミュニケーション手段であり「暗号」でもあったのだ。

 

千手観音とフリーメーソンのハンドサイン

 

 「指」で示すサインについていえば、日本では宮大工たちによって7世紀から建造されてきた寺院には様々なフリーメイソンの指に形が堂々と示されてきた。それが 仏師たちが彫る「仏像」である。中でも「千手観音」を見ると、日本を訪れたフリーメーソンの幹部たちは驚愕するらしい。「なぜ日本の仏像の手の上げ方や指の出し方はフリーメイソンのサインと同じなのか!」と。これは千手観音に限った話ではない。様々な仏像の手の上げ方や指の使い方は、全てフリーメイソンの握手や仲間内のサインなのである。

 

 フリーメイソンは、世界最古かつ最大規模の友愛結社」である。しかし、フリーメイソンは「宗教」ではない。フリーメイソンは各個人の会員のことで、組織はフリーメイソンリーと呼ばれる。フリーメイソンは「ロッジ」と呼ばれる集会場において、儀式や講義を通して、人間の基本的な道徳を学び教え合っている。その中では、仲間そして人類における兄弟愛、個人の尊厳と自由を尊重すること、人間として家族や社会での責任を果たすことなどが強調される。フリーメイソンは 多様な形で全世界に存在し、会員数は600万人を超える。うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

 

何も偶像が置かれていないフリーメイソンのロッジ
 

 

 フリーメイソンの教育の過程では、様々なシンボルを使用するところに大きな特徴がある。そのことが、人々にとってのフリーメイソンという組織のイメージを謎に満ちたものにしているともいえる。フリーメイソンの儀式では、多くのシンボルが描かれたトレーシング・ボードと呼ばれる布切れが大きな役割を果たす。

 

 かつて儀式では、フリーメイソンの仲間以外に解読されることを恐れ、儀式の内容を書き留めることがほとんど許されていなかった。その代わりとしてシンボル・マークを使っての教育が行われていた。実は、ここが重要である。フリーメイソンは「象徴」で意味を表すが、一切の「偶像」がないのである。ここがフリーメイソンが宗教ではないとされる理由の一つでもある。なお、ロッジに入る際には、石工の作業着であったエプロンを着用することになっており、エプロンのデザインはその階級によって異なる。


フリーメイソンのシンボル・マーク

 

 かの有名なフリーメイソンのシンボル・マークだが、直角定規は誠実・公正・美徳を表す。コンパスは友情・道徳・兄弟愛を表す。真ん中の「G」は「God」で「神」あるいは「The Grand Architect of the Universe」で「万物の偉大なる建築者」のイニシャルで、また、「Geometry」(幾何学)という意味も持っている。これらは全て「象徴=シンボル」である。

 日本ではその実態がよく知られていないこともあって、フリーメイソンを陰謀を企んでいる悪の秘密結社のように思っている人も多いが、実際のところフリーメイソンの原則や教義は隠されていないし、ロッジの場所が隠されているわけでもない。また、フリーメイソンの会員は自分がフリーメイソンに属しているという事実を明らかにしても問題はない。但し、他のメンバーがフリーメイソンであるという事実を公開することは禁じられている。

 入会者に求められるのはしっかりとした
信仰を持っていることが前提で、よって、無神論者は入会できない。有神論者でないといけないのだが、宗教はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒はもちろん、仏教徒でもよい。ここがポイントである。仕事を持った成人男性であることも入会資格で、女性は入会できない。その理由は、フリーメイソンの起源が石工の集団であったということの名残であり、当時、男性と同じ労働を女性が行うことは困難であったからで、その慣習が今に至るまで続いているのである。その意味では、日本の大工や鳶職(とび)に女性がいなかったのも同じ理由である。

 

フリーメイソンの象徴を用いた儀式
 

 中世以降の「石工ギルド(組合)」としてのフリーメイソンでは、ロッジと呼ばれる集会所においてメンバーに建物を構築するための技術や知識を伝えた。だが、当時はまだ文字が読めない人も多かったため、やり取りはすべて「口述」の形式であった。また彼らは暗号を使い、特殊な握手の仕方でお互いが同じギルドの仲間であることを確認したのである。現在においても、お互いがフリーメイソンであるということを暗号や握手によって判断するのは、その名残と考えられる。さらには様々なシンボル・マークを使うことによって情報を象徴的にわかりやすく伝えようとする、というのが彼らの最大の特徴なのである。そのため現在のフリーメイソンにおいても、シンボル・マークはそれぞれ重要な意味を持っていて、儀式や教育の場で大きな役割を果たしている。

 

 日本で神社や寺を建立する人たちは「大工」で、仏像を作る仏師も「大工」である。西洋では「石工」だが、日本では「大工」こそがフリーメイソンなのである。だからこそ、仏師が作る「仏像」というのは、神や仏の像ではなく、「象徴」だということなのである。ここに日本の宗教の本質が隠されている。

 

<つづく>