封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その54

 

 「竹内文書」の本質を理解するには「武内宿禰」の正体を明らかにしないといけない。但し、「武内宿禰」というのは日本の古代史の中のでも「聖徳太子」に並ぶほどの強力な暗合である。「竹内文書」を単なる「偽書」で片付けてしまう人にはそこが理解できていない。なにせ16代仁徳天皇でもあり26代継体天皇でもあり、モーセの末裔でもある。そして世界最大の陵墓に眠っているとされている人物だからである。

 

「武内宿禰」はなぜ謎の人物なのか?

 

 「竹内文書」と同様に、「武内宿禰」も謎の人物やら伝説上の人物として、あたかも存在しなかった人物だと思い込んでいる人や研究者が多い。特に景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた超長寿者で、317歳であったといわれていることで、実在しないと考えられてしまう。だが「武内宿禰」を祀る佐賀県武雄市の「武雄神社」では、さらに長くて360歳日本一の長寿の神様とされている。この神社の御祭神は「武内宿禰」の他に「武雄心命」(たけおこころのみこと)、「仲哀天皇」と皇后の「神功皇后」、そして息子の「応神天皇」の五柱をを総じて「武雄大明神」と号している。 

 

「武雄神社」
 
 「武雄心命」(たけおこころのみこと)とは聞き慣れぬ神様だが、「武雄神社」で伝える系図ではこの神は武内宿禰の父親となっているのだ。「日本書紀」では父は「屋主忍男武雄心命」(やぬしおしおたけおごころのみこと、生没年不詳)、「古事記」では「比古布都押之信命 /彦太忍信命」(ひこふつおしのまことのみこと、生没年不詳)で、「武内宿禰」も「死没不詳・墓所不詳」となっている。母は「影媛」(かげひめ:『日本書紀』)または「山下影日売」(やましたかげひめ:『古事記』)で、「莵道彦(宇豆比古)」の妹もしくは一族の女性とされており、武内宿禰を産んだことになっている。要は出生ははっきりしないということである。
 
 問題はこの母の一族とされる「莵道彦」(うじひこ:『日本書紀』)または「宇豆比古(うずひこ:『古事記』)の存在である。宇豆比古の表記は「紀氏家牒逸文」では「宇豆彥」となっている。彦は男の意味であるから「うずの男」ということである。これが「うずめ」なら「うずの女」となる。「うず・ウズ」とは「光」という意味のアラム語である。よって「宇豆彥」とは「光の男」であり、「光の男の神」ということになる。イエス・キリストのことである。これが「ウズ・マサ」なら「光の救世主」だからである。となると、「武内宿禰」とは「イエスの一族」ということになるのだ!
 
 さらに「武内宿禰」を祀る「武雄神社」では、以下のようなことを伝えている。

 

 鎌倉中期の元寇では、未曾有の国難に際し、伏見天皇より異国降伏の祈祷の『綸旨』を賜る光栄に浴するなど、国家的な存在でありました。本紀によれば、文永の役の十月二十日の夜、武雄神社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、元軍は逃げていったとしてあり、また、弘安の役では上宮から紫の幡が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたとあります。この霊験により『九州五社ノ内』と称され、九州の宗社として隆々と栄えた時代もありました。

 

 元寇の際に「神風を吹かせた」と伝えているのである。この「神風」を吹かせたとする逸話が残されているのが福岡市東区箱崎(はこざき)に鎮座する「筥崎宮」(はこざきぐう)である。ここは「筥崎八幡宮」とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えらている。応神天皇を主祭神として、神功皇后、玉依姫命が祀られている。ここ「筥崎宮」は鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に云う「神風」が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名である。

 

筥崎宮の大鳥居

 

 「はこ:箱」の名を持つ場所に鎮座する「はこ:筥」の名を持つ社が鎮座している理由、それは「契約の箱」である「アーク」がここに鎮座したことがあることを伝えているのである。元寇の際、宇佐八幡に祀られていた箱「本神輿」を白装束の男たちが担ぎ出し、現在の筥崎宮の前に置き、呪文を唱え始めたところ、博多湾に大挙して襲来した元の船が次々と火を噴き出し、元の兵士がみな燃えてしまい、最後には台風のような強風によって、元の大軍はみな海中に沈んでしまったと筥崎宮は伝えているのである。これが「神風」の正体である。

 

 この筥崎宮と同じ「神風」の話を伝えているのである。つまり、武内宿禰を祀る「武雄神社」には「契約の聖櫃アーク」が鎮座していたのである。なぜなら武内宿禰はレビ族の王であり、モーセの末裔だからである。アークを担げるのは精進潔斎したレビだけだからである。それを示しているのが「宿禰」という字である。

 

 

◆「宿禰」に込められた「禰」と「璽」の暗号

 

 「宿禰/宿祢」の「ね:禰/祢」という字の訓読みは「かたしろ」「みたまや」である。「かたしろ」は「形代」で「神を祭る時、神の代わりとして置くもの。みそぎ・はらいに、それを受ける人の代わりとして使ったひとがた」である。「みたまや」は「貴人の霊を祭ってある場所」を指す。よって、以下の意味となる。


 ①「父のおたまや(霊を祭る家屋)」
 ②「親のおたまや(霊を祭る家屋)」
 ③「おたまやに祭った父の呼び名」

 

「禰」と「璽」

 

 「禰」の右の「爾」という字は「じ・や」と読む。「や」とは「ヤハウェ」を示し、「示」は「神」を指す。つまり「禰」 は「神ヤハウェの霊を祀る場所=墓=神殿」という意味になり、だから「父=神の呼び名=ヤ」としているのだ。さらに「爾」(じ)という漢字の意味は以下の3つである。


 ①「なんじ(相手を呼ぶ言葉。あなた。おまえ。)」
 ②「事物・場所・方角を指し示すのに用いるもの」
 ③「しかり(そのようである。そのとおりである。)」

 

 つまり、人間を「なんじ」と呼んで進む方角や場所を教える神のことでもあり、それに用いるもの=神が降臨する「贖いの座」がついた「神の箱=契約の聖櫃アーク」自体をも暗示しているのだ。その箱の蓋(贖いの蓋)を持ち込んだ人物、それが「竹内宿禰」という意味なのである。そして璽があったからこそアークの下の箱の部分をもたらした物部氏である八咫烏たちを抑えることができたのである!

 

贖いの蓋(イメージ)

 

 「璽」の印は世界最初の皇帝「始皇帝」の印にあり、天皇の印を正式には「御璽」(ぎょじ)といい天皇個人の印を指すが、国事の印は別に「国璽」(こくじ)という。「国璽」は国家の印鑑(9センチ四方)で「大日本国璽」と彫刻され、「御璽」の印鑑(9センチ四方)は「天皇御璽」と刻印されているが、共に純金製で4キロと重いため係の者が二人がかりで押すことになる。
 

 「御璽」の歴史は古く、飛鳥時代の「大宝律令」(701年)では「内印」と記されて「天皇御璽」が規定され、その捺印の書が奈良時代の「正倉院文書」として残っている。この「璽」の文字を象形文字的に見れば「契約の聖櫃アーク」を横から見た形「爾」の下に「玉」である「三種の神器」が入る形であり、その「璽」を預かる者こそが「皇帝」であり、神事を行う「レビ族の長」の証明となる。それが「宿禰」という役割なのである。

 

 2022年6月に連載した「裏神道「陰陽道」その36<最終回>」でも記載したが、改めて下記する。下の画像で「天皇御璽」「天」の部分をみると、両腕をぶら下げた人体の上に「T」がついている。天照大神と書く場合の正式な「天」という字の書き方は「工」+「人」で大工を表し、職業が「大工」だったイエス・キリストを示唆する字だが、これを「印」にした場合には「T型十字」が頭に付けられるのだ。つまり「天から舞い降りた白く輝く王は、この国の礎を作った磔刑に処された大工であり、その神から授けられた御宝アークを守ります」という「印」なのである。

 

左:「大日本国璽」 右:「天皇御璽」

 

 さらに金でできている国璽と御璽の形状は以下のようなカタチである。

 

 

 持ち手の部分は「十字架」であり、真ん中に「穴」が空いている。この「穴」の意味は新天皇が天照大神の代理人たる「天皇陛下」という現人神になるための「死と復活の儀式」である「大嘗祭」で、手の真ん中を「聖釘」(せいてい)で打ち抜いた者が天皇陛下になった証であり、それはイエス・キリストが十字架で磔刑に処された時に手首を五寸釘で打ち付けられた意味にもなっている。これは「死」に関する儀式で、かつての大嘗祭ではイエスの体を十字架に打ち付けた3本の「聖釘」を用いて、天皇は両手と両足に傷をつけたという。だが、後醍醐天皇がこの儀式を行って以降、北朝の天皇家は大嘗祭は行ってこなかった。天皇家が南朝に復活した明治以降、手のひらの真ん中を「聖釘」で打ち抜くことはなくなり、手のひらに当てるだけとなったらしい。なにせ、明治以降、天皇陛下は外交で海外の要人と会う必要が出たからだが、この「聖釘」はイエス・キリストの手首を撃ち抜いた釘そのものである。だからこそイエスの代理人となれるのである。

 

 「武内宿禰」は秦氏の大王であり、ユダヤ人原始キリスト教徒の大預言者であった。そして日本を隅々まで「カッバーラ」の呪術=「預言」で覆うことを漢波羅秘密組織「八咫烏」たちに指示したのである。それは「神道」だろうが「陰陽道」だろうが「仏教」だろうが関係ないのである。ある時は「八百万の神々」、またある時は「絶対三神」、されど全ては「唯一絶対神イエス・キリスト」に帰するという仕掛けを封じたのである・・・。と、ここまではいいのだが、筆者には引っかかりがある。それは、なんで「武内宿禰はモーセの末裔なのか」ということなのだ。

 

 ユダヤ教の祖といえる「モーセ」は、いつ原始キリスト教徒に改宗したのか?たとえ秦の始皇帝がモーセ直系の末裔であったとしても、紀元前3世紀にはまだイエス・キリストは誕生していないからだ。いったい、いつ、モーセの末裔である天皇家の先祖は原始キリスト教徒に改宗したのだろうか?実はこれこそ「竹内文書」の最大の謎なのかもしれない。

 

<つづく>