封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その46

 

 

 竹内巨麿は「竹内文書」を世に出す前、京都の鞍馬で修行している。鞍馬の山奥で巨麿を導いたとするのは「鞍馬天狗」である。竹内家の「竹内」とは京都の丹後に鎮座する「籠神社の内」で「籠神社の中」のことなのだと書いたが、さらに「竹内」は「籠の中」をも暗示し、それは「籠目=六芒星=カゴメ唄」で、日本の未来に関わる重要な預言の歌であると。大本教では後年に「御筆先/おふでさき」と呼ばれるなおの自動書記による記録が残されている。20年間あまりで半紙20万枚を綴った内容は、『さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ』『つよいものがちのあ九まばかりの九にであるぞよ』という痛烈な社会批判を含んだ終末論・黙示録であった。「預言」である。この大本に関わっていた岡本天明に下りた「日月神示」もまた「終末預言」である。全ての「預言」のカギは京都にあるのだ。

 

「鞍馬天狗」

 

◆ 「鞍馬での修行」と「鳥伝神道」
 

 巨麿は修行と称して鞍馬を2度訪れているが、これはよほどの人物がそこにいたことを暗示している。なにせその修行を導いたとされるのは仙人や天狗、神々だというのである。鞍馬の近くの上賀茂には、幕末期に賀茂規清(かもののりきよ)が創始した「鳥伝神道」(うでんしんとう)があり、巨麿はそことの関係を深めている。

 

 烏伝神道には「記紀」以前の古史古伝も数多く伝わっており、規清が著した『鳥伝神道大意』には『竹内文書』と酷似した「太古の古代大陸の沈没」や「五大大陸の浮上」の記録があるのだ。よって、このことは「竹内文書」を解明する上でも非常に重要な事実だということである。烏伝神道は記紀伝承で神武東征の際に険路を先導したとされる大鳥にて、裏神道秘密結社「八咫烏」が伝える神道とされ、「鴨神道」とも称される「下鴨神社」の宗教大系に属している神道である。このことは非常にインパクトが大きな話である。八咫烏の別称は「天狗」である。そして鞍馬で源義経に様々な教えを授けたのは、天狗の首領である「鞍馬天狗」である。

 

八咫烏の印の入った『烏伝神道の基礎的研究』

 

 「上賀茂神社」と同様に「下鴨神社」は京都で最も知られる古社のひとつで、合わせて下上賀茂神社と称する。中でも新天皇の即位には絶対欠かせない「大嘗祭」(だいじょうさい)を取り仕切る要の神社が下鴨神社である。大嘗祭は神社庁が仕切っているのではないのであり、下鴨神社とその関連の神社と神官たちの力がなければ成り立たないのである。「即位式」だけでは天皇になることはできず、大嘗祭を経て初めて新天皇が天皇陛下となれるのである。よって、大嘗祭ができない天皇は「半帝」と呼ばれてきた。つまり、「下鴨神社」がなければ天皇は即位できないということなのである。

 

 神道の表は「伊勢神宮」と藤原氏が牛耳っているが、裏側は「下鴨神社」が牛耳っているのである。この双璧が神社神道の陰陽を成しており、構造も両者は同じになっているのだ。伊勢神宮は「内宮」と「外宮」が並び立っているが、この他にもう一つ隠された奥宮であり本当の伊勢神宮たる「伊雑宮」の三社で構成されている。かたや「賀茂神社」は「下鴨神社」と「上賀茂神社」ともう一つ、下鴨神社の糺の森の脇にある本当の賀茂神社たる「河合神社」の三社で成り立っており、この三柱の構造は物部氏を封じる秦氏の戦略が背景にある。元は格式が高く大きな社だった河合神社の規模を縮小させ、「摂社」という扱いに落としたのは藤原不比等である。

 

 実は、国史においてもこれと同じ仕組みが施されている。本来ならば「古事記」と「日本書紀」「旧事本紀(先代旧事本紀)」の三書で並び立つところを、物部氏の記録を封じ込める目的で「旧事本紀」を封じたとされているのである。もちろんこれを行ったのも藤原不比等で、その真の目的は、物部氏が神武以前の記録を預かっていたからでなのある!それが表に出ると朝廷にとっては極めて不都合だっったからである。つまり、「竹内文書」を掘り出した巨麿は、こうした歴史的な流れの中で登場した人物だったのである。

 

下鴨神社(賀茂御祖神社)

 

 大嘗祭の祭祀を一手に握る賀茂神社の神官である「賀茂氏」の中でも、天皇祭祀を行う者たちは特別に「鴨族」ともよばれ、全国の神社を裏から支配している。中でも京都の下鴨神社と上賀茂神社の鴨族「賀茂氏」は事実上、神道の元締めである。それが全国の神社に賀茂氏の禰宜を送り込む「鴨ねぎ」の話なのである。つまり、「竹内文書」とは鞍馬で八咫烏から直接伝授された超古代からの歴史に意図的にフェイクを散りばめ、八咫烏が公開を許諾する範囲での世界の超古代史をまとめたものだったのである!巨麿の使命は、神武以前の真実を明るみに出すことだったのである。「竹内文書」からあからさまにフェイクと思われる雑伝の部分を取り除けば、そこには真実だけが浮かび上がる構造になっているのである。

 

◆鞍馬での修行の本当の意味

 

 巨麿は天津教を興す前に「神道13派」の一部と接触をしている。「神道13派」というのは「御嶽教」(おんたけきょう)、「出雲大社教」(いずもたいしゃきょう)、「黒住教」(くろずみきょう)、「金光教」(きんこうきょう)「、實行教」(じっこうきょう)、「神道修成派」「神道大教」(しんとうたいきょう)、「神理教」(しんりきょう)、「神習教」(しんしゅうきょう)、「扶桑教」(ふそうきょう)、「禊教」(みそぎきょう)、「大成経」(たいせいきょう)、「天理教」(てんりきょう)で、現在は大成経と天理教が抜けて、大本教が加わった12教派で「教派神道連合会」を形成している。

 

 巨麿は北茨城で天津教を興すため、最初は御嶽教の一派である「教派神道御嶽教天都協会」(あまつきょうかい)として開始しており、まだこの時期は御嶽教の行者として全国を行脚していたようである。なんで「竹内文書」を手に入れていながら、あえて特定の宗派に属する必要があったのか。「御嶽教」はその名が示すように「山岳信仰」のひとつで、聖山を信仰の対象としていた教派で、同様に13派の扶桑教も山岳信仰で、その聖山は「富士山」であった。こうした山岳信仰は、仏教のように山を詣でたりせず、神社神道のように山自体を拝むこともなく、修験道のように山にこもって修行することもない。「御嶽教」が信じているのは、主祭神が鎮まっている「御嶽山」(長野県)そのものである。

 

「御嶽山」(長野県)

 

 そして巨麿は北茨城で天津教を興す2年前に、御嶽教天都教会を開いており、注目すべき点は「山岳信仰」だったことだ。聖山の思想は後のピラミッドとも深く関わってくるとともに、山を信仰するのは古神道、つまり物部氏の原始ユダヤ教だったということなのである。さらに巨麿は上京した頃より御嶽教に出入りしており、官長の鴻雪爪(おおとりせっそう)から神代文字を学び、古神道の教義を修得しているのである。ところがこれとほぼ同じ時期に、巨麿はは教派神道の「神習教」とも深く関わっている。創設者は鞍馬山を基点として活動していた芳村正秉(よしむらまさもち)だが、芳村は巨麿と同じ「大中臣氏」の末裔で、同族なのである。

 

 巨麿はどうやらこの時期、国の動きを見ながら、後の「竹内文書」発表の計画を練っていたと思われる。巨麿の自伝の中では殺された母の仇討ちで全国を巡っていたとなっているが、江戸時代じゃあるまいし、刀を持って仇を探していたとは考えられない。要はこのカモフラージュだということだ。「竹内文書」の公開とともに、竹内家の悲願だった「皇祖皇太神宮」を復活させるべく、この謎の空白期間は、巨麿にとって本物の「竹内文書」をカモフラージュするための「仕掛け」を練っていた期間だったのである。

 

 巨麿の登場は、神道界のみならず、世界や財界にまで影響を及ぼした。なにせ「竹内文書」の壮大なる歴史館は、ある意味で国家神道を推進する人たちの思想とも合致していた部分はある。もちろん神武以前の歴史があることは一切認めるわけにはいかなかったものの、世界の強国として西欧諸国と対峙しなければならなかった当時の日本にとって、如何に大和民族が世界で最も古い民族で、日本という国が世界に冠たる国であるかを示す必要があったからだ。そこで日本軍は、軍部主導によるストーリーを捏造し、対外的な「歴史館」を作り出した。それは「幻のムー大陸」だった。

 

ムー大陸とされた島

 

 「ムー大陸」は、かつて太平洋の南中央部に存在したが天変地異により水没した、とされる大陸だが、現在では、複数の海底探査結果によってその存在は学術的に否定されている。「ムー大陸」のことを記した粘土板をインドの古代寺院で発見したとされるジェームズ・チャーチワードの著作によると、ムー大陸は約1万2000年前まで太平洋上に存在したという東西7000km、南北5000kmにもなる大陸で、現在のハワイ諸島やマリアナ諸島、 イースター島など南太平洋上に点在する島々が陸続きになっていたとされる。世界でも類を見ないほど栄華な文明を誇ったとされるが、約1万2000年前に巨大地震などの天変地異が起こり、一夜にしてムー大陸は水没したという。しかし、チャーチワード自身の身分詐称や、ムー大陸を記したとされる一次資料自体にも疑義が持たれるようになり、信憑性が低下。イースター島やポリネシアの島々を、滅亡を逃れたムー大陸の名残であるとする説もあったものの、決定的な証拠となる遺跡遺物などは存在せず、海底調査でも巨大大陸が海没したことを示唆するいかなる証拠も見つかっておらず、伝説上の大陸であるとされる。

 

 本稿では「ムー大陸」のことは掘り下げないが、「ムー大陸」とは日本軍部のエージェントだったジェームズ・チャーチワードに、軍部が与えた資料をもとに描かせたものであった。なんでそんなことをしたのかと言えば、それは日本軍がアジアの覇権を握るための「正当性」を裏付けるためのストーリーが必要だったからである。つまり、「ムー大陸」という大陸があったという話はでっち上げである。だからこそ「ムー」とは「無」で、そんな大陸は無かったという意味が込められている。とはいえ、超古代に巨大な大陸がなかったのかといえば、それは実在したのである。そして超古代の粘土板も軍部はインドの古代寺院から接収していたのである。その資料や粘土板は全てアメリカ軍が戦後まもなく接収してしまったため、全てアメリカで秘密裏に保管されている。

 

 問題はこうした軍部が考え出した超古代の大陸の話は「竹内文書」にも記載されていることである。では、巨麿はそうした話をどこから仕入れたのか、もしくは最初から「竹内文書」に記載されていたものだったのか、ということなのである。逆に考えれば、日本軍はどこから「ムー」の話を知り得たのか、ということにもなるのである。両者には共通点がある。その共通点を見つけるには、やはり京都に戻らねばならないようだ。

 

<つづく>