封印された超古代史「古史古伝」の謎:その44
神代文字で記された「竹内文書」を書いたのは、正確には誰かは分からない。武内・建内・竹内の3つの名でその正体を隠した武内宿禰(たけのうちのすくね)自身が書いたものとはどこにも書かれていないからだ。その宿禰の末裔たちが代々保管してきたその内容について、歴代の竹内家の宮司たちは「時いたれば秘史を皇室に奉還せよ」と子々孫々に伝え、それが『竹内文書』となって世に出たのだが、その内容に注目したのは、酒井勝軍や山根キクといった人たちだけでなく、後の首相の東条英機、初代朝鮮総督で首相にもなった寺内正毅、政財界を牛耳る久原房之助、右翼のドン頭山満など、錚々たる顔ぶれだった。
『竹内文書』が脚光を浴びる状況は、神武天皇を始祖とする「皇国史観」にとっては由々しき事態だった。つまり、時が悪かった。なにせ軍部が主導する「国家神道」が席巻した時代である。神武天皇が最初の天皇と記す記紀のとおりでなければならず、それ以前に天皇がいたとするのならば、神武天皇即位の「皇紀元年」(紀元前660年)が意味をなくし、若くして既に即位していた昭和天皇の権威までは失墜しかねないからである。そこで特高警察は、巨麿、酒井勝軍も拘束し、勝軍の本を全て発禁処分として、世にいう「天津教事件」となったのである。
◆「神代文字=偽物」という攻撃と「伊勢神宮」の神代文字
特高警察は、天津教が天皇家の菊花紋を勝手に使っているとして、「不敬罪」で巨麿を逮捕している。要は特高が揚げ足を取って二人の口を塞ごうとしたのであるが、この動きに連動するように、京都大学の文学部長だった狩野亨吉(かのうこうきち)博士が「天津教古文書の批判」を発表。天津教の信者2人から手に入れた文書にあった「神代文字」を材料に『竹内文書』に対する攻撃を始めたのである。
狩野亨吉博士
狩野博士の攻撃は「神代文字=偽物」という極端に偏った常識から生まれたもので、結果的に狩野博士が唱えたこの「神代文字=偽物」が今ももってアカデミズムの中核となり、古史古伝偽書論のバイブルとなっているのである。つまり、一般人であっても神代文字を使っているから『竹内文書』を偽書と考える人達も同様なのである。
『竹内文書』に記されている神代文字は、少なくとも400種はあり、伝承では2400種も存在したと伝えられている。実際、某神宮の古くなった護符を開いてみると、中から漢字でも仮名でもない不思議な文字が縦一列に記されている。中には蛇文字や宝珠の形もあり、まさにそれこそが神代文字なのである。実は全国の古社に古くから伝わる「神符」(しんぷ)や「神璽」(しんじ)には、アカデミズムが狩野亨吉論に従って否定する神代文字が記されているのだ。これがこれまで解き明かしてきたように、物部系の古社の護符ならばまだ分かるのだが、そうではない古社でも同じような神代文字が発見されるのである。これはいったいどういうことなのだろうか。
本連載の中でも様々な「神代文字」を紹介したが、象形文字のような物の形を象った文字やヘビが這ったような文字など、その種類は様々である。片神名文字(カタカムナモジ)、阿比留文字(アヒルモジ)、阿比留草文字(アヒルクサモジ)、種子文字(タネコモジ)、出雲文字、対馬文字、阿波文字、筑紫文字、熱田文字、藤原文字など、ここに上げた以外にも様々な神代文字が存在している。神社の石碑や山中にある磐座などに刻まれていたり神事などにも使われていたこと、また一部の神社では符・札・お守りなどに使用されていることが古くから人々の間で知られており、「日本書紀」( 720 年)にはこれらの文字を古字として触れている。神道家の「卜部兼方」(うらべかねたか)が書いた「釈日本紀」(日本書紀の注釈書:1301年以前に成立)では、神代の時代の文字の可能性としてはじめて取り上げられており、その後、鎌倉時代には朝廷の学者によって研究されたほか江戸時代にも多くの学者が盛んに研究していたのである。そして、実は日本神道の総社である「伊勢神宮」でも神代文字は使われていたのである!
「伊勢神宮の古代文字―ついに現われた幻の奉納文」
1977年に発刊された「伊勢神宮の古代文字―ついに現われた幻の奉納文」という本がある。そこには以下のように書かれているのだ。
神宮文庫沿革史によると神書記録収蔵の歴史はとても古く、称徳天皇( 766年)の御代には内宮に文庫があり、また外宮にも亀山天皇( 1262年)の御代に神庫名が確認できます。その後、江戸時代に入り幾度か文庫が献納され、増加し続ける文庫や文殿の蔵書などを 1ヶ所にまとめるため明治 40年( 1907年)に神宮文庫を設立しました。
神代文字で書かれた奉納文を発見した当時の蔵書数は約 25万点。古代より伊勢神宮に秘蔵され、または司家に代々受け継がれてきた伊勢神宮や御鎮座祭儀、遷宮、神道、史学など幾多の古記録など広範にわたる蔵書の山の中から、たった 99葉しかない、そしてそれが神代文字で書かれた奉納文を発見した時は無上の喜びだったであろう。しかもそれが歴史的著名人の奉納文となれば、なおさらの事だったはず。
さらに、この幻の奉納文を保存する「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」の会長・大下伸悦氏は、この奉納文について以下のように解説している。
伊勢神宮には、約1450年前の物部大連尾輿自身の奉納文や、藤原の鎌足・藤原の不比等・源頼朝・源義経等、99葉の本人による奉納文が保存されています。そして、すべての奉納文が、日本古来の文字で奉納されています。
私たちが知らされていなかった文字と奉納文は、紛れもなく第一級の日本の宝です。いずれも永久に保存され、後世に伝えていかなければならない宝物です。
なんと、藤原の鎌足・藤原の不比等・源頼朝・源義経等、99葉の本人による奉納文が保存されていたというのだ!それも、神代文字の奉納文なのである。
上の画像は伊勢神宮が運営する図書館の神宮文庫で発見された奉納文である。そこには古事記を編纂した太安万侶、古事記の内容を諳んじた稗田阿礼までがおり、さらに記紀を編纂させた影のプロデューサーたる藤原不比等までが奉納文を神代文字で書いているのである。つまり、記紀の編纂に関わった人物は全て「神代文字」を読み書きできたということとなり、狩野博士が「竹内文書」を偽書とした「神代文字=偽物」というアカデミズムの核たる部分は意味をなさないということなのである!
以下に、奉納文を発見した研究者の言葉を「伊勢神宮の古代文字―ついに現われた幻の奉納文」から引用するが、「神代文字」が捏造と言われを続けてきたことに対する研究者からアカデミズムへの返答と感じさせる文章である。
伊勢神宮の神宮文庫で九十九葉に及ぶ大量の染筆を発見した時は、まさに「天にも昇る思い」であった。神宮文庫に秘蔵された古代文字九十九葉の染筆者は約五十九 名。そのほとんどは歴史上名高い人物で占められている。例えば、藤原鎌足、太安万侶、稗田阿礼、舎人親王、和気清麻呂、菅原道真、平将門、平忠盛、源頼朝、源義経、木曾義仲、宗良親王、後醍醐天皇など、皇族や天皇まで含めた史上著名人が、いずれも古代文字で染筆しているのである。
古来より日本国民の尊崇のまととなってきた伊勢神宮の森深く、日本古代文字の存在を証明する多数の染筆が秘蔵されていたことは、まさに驚愕に値する事実と言わねばならない。それは日本をして「漢字渡来以前には文字のない野蛮国にすぎなかった」と思わせたがる多くのエセ学者たちに対する痛烈な反証であり、日本の優れた古代文字を探求する上での重要な糸口ともなるからである。
この発見が示すことはこうだ。記紀が成立する以前には確実に「神代文字」が使われたいた、ということであり、物部氏系の神事に関わっていた人物も、秦氏系で神事に関わっていた人物もみな、神代文字を読み書きできていたということなのである!物部尾輿をはじめ武内宿禰の末裔である和気清麻呂、中臣氏の末裔の藤原鎌足・不比等親子と太安万侶に稗田阿礼ということを考えれば、実は「古事記」や「日本書紀」の原典は、神代文字で書かれていた文書であると言わざるをえないのである。その意味では、「竹内文書」の原典も同一のものだったのではないかとも考えられるのだ。
◆「竹内宿禰」と「竹の園生」
「竹内」の語源は、竹垣で囲ったところ、周りを高所で囲まれた窪地や盆地、土居の敷地内などからきており、 家紋は「三つ柏」
「五七桐」「扇」などである。「三つ柏」は3神を拝するので「秦氏」(はたし)であり、「五七桐」は天皇家が菊花紋を使い始める前から使っていた天皇家の紋であり、カッバーラの「生命の樹」の形であるのでこれもまた「秦氏」となる。そして「扇」は「戸+羽」=「羽のついた蓋」を示し、その正体は上部の左右に一対の「ケルビム」が翼を広げる「契約の聖櫃アーク」の「蓋」のことなのだ。
下の「箱」の部分なら物部氏を象徴するが、「蓋」を日本に持ってきたのは神武天皇=応神天皇が連れてきた原始キリスト教徒「秦氏」であり、その「秦氏の」の大王にしてレビ族の長が「竹内宿禰」という暗号で、全て一人の天皇と一人の宿禰の行いを御霊分けしただけである。
契約の聖櫃アーク
「梨園」(りえん)と同じような言葉に、中国・北魏の時代の故事に由来する「竹の園生」(たけのそのふ)がある。日本ではこれを皇族の異称で天皇家を指す言葉とした。つまり「竹内文書」とは「竹の園生文書」を意味、「古代天皇家の秘密を記した古文書」を示すこととなる。そして、それらはもちろん「神代文字」で書かれていた。その神代文字を読み書きできただけでなく、その中に隠された意味を読解できたのもレビ人たちである。しかし、これにはもう一つ深い意味がある。
神道祭祀で使われる文字の中でも重要視されるのは「艸冠」と「竹冠」である。祭司一族は賀茂・藤原・花田など艸冠を持つ字を名前に使うが、竹冠がつく神社もまた、特別な意味がある。籠神社である。日本で最も古い社にして、元々は物部系神社の発祥であったが、そこも「絶対神ヤハウェ」の一神教の信仰から、原始キリスト教へと改宗をした。そして、籠神社を起点に、全国の物部系の古社が次々と原始キリスト教の社へと変わっていった。というか、強制的に変えさせられたのである。そして、この籠神社には「武内宿禰」と対をなす、もうひとりの宿禰である「倭宿禰」が亀に乗った像が祀られている。旧約の象徴=亀である。
そこに「秦氏の」の大王にしてレビ族の長「武内宿禰」がやってきて、旧約神から新約の神へと改宗させたのである。つまり、日本最古の社とその神官一族を改宗させてからこそ「竹内宿禰」となったのである。「竹内」とは「籠神社の内」で「籠神社の中」のことなのだ。さらには「籠の中」を暗示している。そう、「籠目=六芒星=カゴメ唄」である。ここに日本の未来に関わる重要な預言が隠されているのである。
<つづく>