封印された超古代史「古史古伝」の謎:その37
前回、東北の蝦夷の英雄「阿弖流為」(アテルイ)が「戸来村」となった古代の地で祀られ、その記念碑としてドまんじゅうを作ったのではないかと書いた。『日本紀略』によるとアテルイは「大墓公」と呼ばれていた。「大墓」(たのも)は地名である可能性が高いが、その場所がどこなのかは不明である。ただし、一説には田茂山(奥州市水沢区羽田付近)とも考えられている。だいたいこの
「阿弖流為」という漢字表記も大和朝廷側が音に当てた漢字で、もともとは「アテルイ」なのである。と考えれば、まさにアイヌの名前だったとしか思えない。
アテルイが活躍していた頃の東北に地方は「蝦夷」(えみし)と呼ばれた縄文文化の流れを汲む部族社会があり、族長を代表として血族を中心とした100人程からなる共同体が点在した。狩猟民族として狩・漁・稲作などを「共同」で行い、暮らしていたおり、そうした時代に使われていた土器も「戸来村」の付近から発見されている。一般的な歴史では、縄文時代の後に弥生時代の稲作が始まったかのように言われているが、それは違う。この当時、西日本は弥生時代で稲作を行っており、東日本は縄文時代で「蝦夷」と蔑まれたアイヌは狩猟で暮らしていたのである。つまり、縄文時代の土器が出土していたのなら、2つのドまんじゅうを「キリストの墓:十来塚」(とらいづか)、隣の「イスキリの墓:十代墓」(じゅうだいぼ)としたのは、実はもともと縄文遺跡だった可能性が出てくるのだ。
◆「大墓公 」というアテルイの姓
アテルイは、大和の帝(ミカド)を中心とした律令制による中央集権国家が、自分たちの文化・文明と違っていることを認識。
各地に分散している村々をまとめ「蝦夷連合」を組織化し、自らの土地・文化・文明を守るために、大和朝廷と戦うことを決意した。朝廷側の資料に出てくるだけで13年の間、アテルイは戦っている。朝廷と蝦夷の間では、このように武力衝突が起きたが、朝廷側は何度も撃退されている。
束稲山のアテルイ像
東北で征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂は坂将軍とも呼ばれ、「毘沙門天」の化身と言われるほどの名将として崇敬されてきた。これに対し、アテルイはは蝦夷の領袖として、その悲劇の生涯は半ば伝説化するほど有名になっている。特に「まつろわぬ民」としてであり、それは朝廷に屈することなく伝統を守ろうとした人々のことである。
796年、坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して、東北方面の軍事行政すべての権限を任され、多賀城にて更なる蝦夷討伐の準備を進め、797年には征夷大将軍も兼任する。坂上田村麻呂は抵抗する蝦夷に対しては、断固たる態度で臨んだが、帰順する者には新たな土地を与え生活を保証し、律令農民との交易も認めている。「日本書紀」によると「阿倍比羅夫」(あべのひらふ)による東北への北航は連年行われ、そこで蝦夷たちと饗応(きょうおう)しながら港の掌握に努めたと書かれている。つまり、征夷軍と蝦夷=アイヌはある程度は共存関係だったということである。そして律令国家の前、すなわち「陸奥国」になる前に築造された「藤沢狄森」(えぞもり)の古墳群」からは「勾玉」などが出土しており、古代東北の人々の豊かな交易の様子を知ことができる。
狄森古墳出土品の勾玉(複製品)
アテルイは、朝廷側の歴史では「大墓公 阿弖流為」(たものきみ あてるい)、「大墓公 阿弖利為」(たものきみ あてりい)とも表記されている。蝦夷社会=アイヌの人たちは文字を持っていなかったため、アイヌ側が記録した史料は残っていないが、大和朝廷側が編纂した六国史にはその名前を4度登場している。その内訳はいずれも旧字体で、延暦8年の巣伏の戦いの記事の中に「阿弖流爲」で1度、延暦21年の降伏の記事の中に「大墓公阿弖利爲」で2度、「大墓公」1度である。このことから本来の名前は「大墓公阿弖流爲」または「大墓公阿弖利爲」だったのではないかと研究家の樋口知志氏はいう。「大きな墓の公」ということである。
姓については、朝廷から与えられた「公」の姓が付されている。坂上田村麻呂のもとに帰降した直後の記事のため、大墓公の姓は降服後に律令国家から賜与されたものとする見解もあるが、結果として河内国椙山で斬られたことからみても、律令国家が帰服した人物にわざわざ姓を与えたとは考え難く、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられるため、「大墓公」という姓は朝廷軍と戦う延暦8年より以前に律令国家から賜与されていたものと考えるのが妥当であるとの見解もあるのだ。いずれにせよアテルイないし大墓公一族が、かつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示している。
アテルイの姓は従来「大墓公」を「たものきみ」と読む説が有力だったが、一方では「たも」に「大墓」の文字を当てるのは不自然であるとして、「大墓」を文字通り「大きな墓」の意味であると解釈することで、岩手県奥州市胆沢南都田にある角塚古墳の被葬者一族の系譜を引くものであると律令国家に認定されたことで「大墓公」の姓が与えられたのではないかと推測され、「大墓公」を和語で「おおつかのきみ」「おおはかのきみ」などと読む見解が注目されたのだ。
水沢のアテルイ広場のシンボル像
この「大墓公」を漢字分解するとどうなるか。
「大」は「一+人」で「一人の人」、「墓」は「土+莫」で「莫」は「艹+日+大」である。「草(いばら)の冠をつけた一人の人として現れた太陽神は十字架に掛けられた」という意味である。さらに「公」は「八+ム」で「私は有るといったヤハウェ」である。つまり「大=公」が「墓」を挟んでいることで、「大墓公」とはもともと「イエス・キリスト=ヤハウェが葬られた墓」という姓なのである!
◆坂上田村麻呂とアテルイ
『日本紀略』には、802年4月15日の報告として、「大墓公阿弖利爲」(アテルイ、たものきみあてりい)と「盤具公母礼(盤具公母禮 ) 」(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。坂上田村麻呂はアテルイとモレを連れて7月10日に平安京へ凱旋。坂上田村麻呂は、アテルイとモレの2人を救い「彼らに東北運営を任せるべき」と提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、8月13日に河内国の植山にてアテルイとモレは処刑されたとされている。
処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」(すぎやま)「杜山」の3通りあるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。しかし、植山は現在の枚方市宇山と推定されていて、その隣町の牧野町にはアテルイの首塚とされる古来からの伝承で「蝦夷塚」と呼ばれる石碑(牧野公園)が立っている。だが、その後の調査で、その塚は更に200年古い年代の作であり、古代の古墳であった事がわかり、最新調査では、植山説は否定されている。大和朝廷に恭順して処刑されたが「墓はない」のである。
阿弖利爲と盤具公母禮を祀る石碑
アテルイとモレが処刑されるまでの流れを見てみる。
・延暦11年(792年)斯波村(志波村)の夷・胆沢公阿奴志己、王化を申し出るも放還。
・延暦11年(792年)7月25日爾散南公阿波蘇王化と入朝を希望、11月宇漢米公隠賀と共に長岡京へ入京、爵第一等を授けられる。
・延暦13年(794年)6月13日征夷副将軍坂上田村麻呂、百済王俊哲達が蝦夷を征す。
・延暦13年(794年)10月28日征夷大将軍大伴弟麻呂「斬首四百五十七首級、捕虜百五十人、獲馬八十五疋、焼落七十五処」と戦勝報告、鴨・松尾神社へ神階を加階、帝は平安京遷都詔を述べる。
・延暦20年10月28日(801年12月7日)、平安京へと凱旋した征夷大将軍・坂上田村麻呂が桓武天皇に節刀を返上して延暦二十年の征夷が終結。
・延暦21年4月15日(802年5月19日)、陸奥国にいた田村麻呂から、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて降伏した報告が平安京に届けられる。
アテルイらの根拠地である胆沢はすでに征夷軍に制圧されており、北方の蝦夷の首長にはすでに服属していた者もいたため、アテルイらは進退きわまって降伏したと考えられている。そして、田村麻呂に従って盤具公と共に平安京へと向かった大墓公アテルイは、延暦21年7月10日(802年8月11日)に平安京に到着。公卿会議で田村麻呂は「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と大墓公阿弖利爲と盤具公母禮を故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策である」と主張したが、公卿たちは執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と田村麻呂の意見は受け容れられず、延暦21年8月13日(802年9月13日)、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮は奥地の賊首であることを理由として河内国の植山で斬首されたという。
坂上田村麻呂とアテルイ
「大墓公阿弖利爲」(アテルイ)と「盤具公母礼(盤具公母禮 ) 」(モレ)の二人が坂上田村麻呂に恭順したことで「征夷」が終結しているのである。坂上田村麻呂は二人を助けようとしたのである。だが、殺されてしまったのだ。この時代、まだまだアイヌの残党は東北に残っていたはずだが、アテルイの死後、胆沢や周辺地域でアテルイと母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない。まるで「出雲の国譲り」と同じなのだ。さらに弘仁5年12月1日(815年1月14日)、嵯峨天皇は「既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉した。東北を制圧して「大和」が完成したということなのである。
「キリストの墓:十来塚」(とらいづか)の隣に立つ「イスキリの墓:十代墓」(じゅうだいぼ)とは、アイヌの英雄アテルイの墓なのである。そこに遺骸が葬られたのかどうかは定かではないが、アイヌの地であった古代の戸来村の人々が自分たちの英雄の霊を祀るために建立した塚だったのである。とすれば、「キリストの墓:十来塚」は坂上田村麻呂を称えた碑だったのではないか。だが、坂上田村麻呂を「キリスト」と比するには少々無理もある。では「キリストの墓:十来塚」は誰を祀った塚だったのであろうか。
<つづく>