封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その35
 

 「キリストの墓」があるとされる新郷村は世間的には「珍スポット」的な扱いがされてはいるが、しっかりと地域史に丁寧に組み込まれた場所であることがわかる。キリスト兄弟の墓から少し下ったところに、守り役を果たしてきた沢口家代々の墓所があり、すぐそばに建つ「キリストの里伝承館」で展示されている数多くの資料の中には沢口家に関する説明パネルに紹介されており、沢口家の人々はキリストの子孫であるという話もあるらしい。

 

沢口家代々の墓所

 

 しかし、キリストが日本に来ていたという話の背景と根拠には、『竹内文書』が深く関わっている。伝承館には『竹内文書』の資料も展示されており、竹内巨麿が文書の記述を頼りに新郷村を訪れ、キリストの墓を見つけるまでの詳しい経緯が示されている。キリストの墓には「十来塚」(とらいづか)、隣のイスキリの墓には「十代墓」(じゅうだいぼ)という別名がある。イスキリは兄の身代わりとなってゴルゴタの丘で磔刑に処された。そしてキリストはかつて神学を学んだ日本に逃れ、戸来村にやってきて亡くなり、後の時代に兄弟並んで葬られることになったと兄弟墓の背景にある物語を記している。

 

左:キリストの墓=十来塚 右:イスキリの墓=十代墓

 

『竹内文書』の墓に関する記述

 

 前回、「キリストの墓」に注目して世に広めたのは山根キクであると書いたが、彼女はいったいどんなことを記したのか。

 

◆山根キクと『竹内文書』

 

 山根キクは本名を「山根菊子」といい、考古学、歴史学の女性ジャーナリストであり、社会活動家、政治家でもあった人物である。決して怪しい人物ではない。山根は1907年(明治40年)、 14歳のクリスマスの日にキリスト教に出会い、1909年(明治42年)に16歳で真宗系の修善女学校に進学し、クリスチャンの同級生と教会に通い始めたが、親の反対に合い、女学校を中退している。そして翌1910年(明治43年)の 17歳のとき雑誌『婦人世界』で知った星田光代(日本に帰化したアメリカ人宣教師)に憧れ、2年後、星田らが運営する軍人伝道会がある横須賀に行き、 横浜の共立女子神学校に入学したが、父が亡くなったことで帰郷。その後、伝道活動に入り、フェリス女学院にも入学している。卒業後には政治活動を始め、婦人参政権獲得期成同盟創立委員にもなっている人物である。

 

 山根は「光りは東方より」(1937年)、「天津祝詞ノ太祝詞事新解」(1942年)、「キリストは日本で死んでいる」(1958年)といった著書を出版、「竹内文書」から強く影響を受けた内容だったため、キリスト教感に関してエキセントリックな個人的見解と考えられてしまう。なぜなら、キリストは処刑されておらず、死んだのは弟で、キリストは日本に来て、日本の女性と結婚し娘をもうけたと主張。そして山野を歩き回っては、キリストの墓やモーセの墓を「発見」、キリスト教を日本化しようとした。山根は『光りは東方より』で、「キリストの遺言状」を知っていると述べ、石川県押水町の通称・三ツ子塚という古墳をモーゼの墓であると主張した。つまり、キリストやモーセの墓が日本にあると広めた人物なのである。

 

山根キクと著書「キリストは日本で死んでいる」

 

 山根キクの著書「キリストは日本で死んでいる」には、イエスが再来日したことについて、以下のように書かれている。

 

 イエス・キリストはかつて日本で修行した際に天皇より賜った『決して死んではならぬ』との勅に従い、十字架の難を逃れて日本に再渡来しました。十字架にかかったのは姿形のよく似たイエスの弟でした。兄の天命を理解していた弟は、自ら身代わりをかってでたと云われます。竹内文書によるとイエス・キリストはユダヤを出てから北欧を廻って南下してアフリカへ行き、更に中央アジアから支那シベリアを通って対岸のアラスカに渡り、南北米を一周したのち再びアラスカへ戻り、船で日本にたどり着きました。四年の歳月をかけての旅の間、イエス・キリストは様々な人種の十四人の弟子を得ていました。再上陸の地は青森県八戸の松ヶ崎港でした。時は十一代垂仁天皇即位三十三年、皇紀665年2月26日、イエス・キリスト四十一歳でした。

 

 松ヶ崎に上陸すると弟子らと共に小高い山に登り、船中、加護を祈った木彫りの青竜神のご神体を祀る場所をそこに定めました。その後その場所に建てられた青竜神社は現在、蓮沼神社と云います。その山の下にある沼は八太郎沼と称し、又その脇の部落は八太郎村と云われますが、これはキリストが八戸に着いたことに因んで『八戸太郎天空坊』と名乗ったことからその名が地名となりました。『天空坊』とはイエスが日本で修めた術事の中の『空中を自由に歩く』術を意味しており、その後『天空坊』は『天狗』に変化して行きました。
 

 古文書によると上陸後、イエス・キリストは弟子達と共にその地に約二ヶ月暮らし、その後は祈願のため戸来(へライ)神宮に赴き、そこで四ヶ月過ごしたのち、九月十一日に大目的であった越中 皇祖皇太神宮に到着しました。そこでかつての師・武雄心親王との再会を果たしました。それから戸来の大平村に戻り、約五年間そこで暮らした事実があります。『十来(へライ)太郎天空坊』と名乗ったこの時期にイエス・キリストは日本語と文字を習いました。因みに『ヘライ』は『ヘブライ』の変化した地名です。生涯独身だったイエス・キリストは、その後も日本全国をくまなく歩くと共に、十五年毎に日本から世界を巡回し、済世救民のために神業を行ったのでした。この世界巡りは百余歳まで三回にも及んだと云います。

 

 山に居をおいていたイエス・キリストの一行は人々の病気を治したり、様々な奇跡を起こしたりしました。超人的なイエスは赤ら顔に長髪といった当時の日本の人々には馴染みの薄い風貌だったため、赤い顔に長い鼻の天狗というイメージで今日まで伝わっています。天狗といえば山伏と関係がありますが、山伏が額につける『ときん』は、ユダヤ教徒が額につけ、イエスも付けていた黒く四角い『トフィリン』によく似ています。ときんの原型はイエス・キリストがユダヤから持ち帰ったトフィリンでした。戸来村付近はイエス・キリストの根拠地としてその足跡を残す地であり、一種独特の言葉、風習、六芒星、民謡などにユダヤとの深い関係を示す土地です。これ以外にも信州や伊勢地方を始めとするイエス・キリストゆかりの地が全国に散在し、その足跡を見ることが出来ます。
 

 イエス・キリストが日本に残したものの中にはヨセフとマリアのご神骨像イエスの遺言書があります。前者は父母の骨を材料にしてイエス自身がご神骨像に仕立て上げ、百五歳の時に自分の魂として皇祖皇太神宮に奉納したものです。この記述を含むイエスの遺言書は昭和六年に竹内家の秘蔵品の中から見つかりました。イスキリス文字でしたためられた原文には、波乱に満ちた自分の人生が綴られていました。

 

 イエス・キリストがこの世を去ったのは景行天皇即位十八年、皇紀741年12月25日のことでした。享年百十八歳。戸来岳において最期を迎えたイエスの人生は苦難と光輝に満ちていました。遺言によりイエスの遺体は戸来岳で風葬に処され、四年後に白骨化した後、弟子達によって埋葬されました。現在イエス・キリストの墓は青森県三戸郡新郷村(さんのへぐんしんごうむら)の戸来が丘にあります。竹内文書によると身代わりとなった弟の髪の毛と耳も同地に葬られています。

 

 愛する弟が己の身代わりとなって十字架にかけられることで言語に尽くせぬ悲嘆に苦しみぬいたイエス・キリストが、それでも難を逃れて日本に再渡来したのには重要な意義が存在しました。キリストの十字架によって人類は父なる唯一神の存在を知り、正義を慕う心とキリストの再臨を信じる心とによって荒廃する人心を制御し、最後には世界統一への己の最大の役目を果たすべきだと信じていたからでした。その為にイエス・キリストは最期まで五色人(隠れ宮-幣立神宮)の生きる道を説き続けたのです。
 

 さて、この話は全て「竹内文書」がベースである。だが、面白いのは山根キクはもともと普通のクリスチャンで、尚かつ日本初の女性参政権にも関わった真面目な政治家でもあることだ。その山根が「竹内文書」の内容を信じ、キリストやモーセの墓が日本にあると広めたのである。だが、竹内文書を信じたのは山根だけでなく、様々な政治家や軍部、さらには一部の皇族までもが「竹内文書」に魅了されていたのである。それこそが「竹内文書」が国家に目をつけられ、弾圧される最大の理由でもあったのだ。

 

「偉い侍の墓」の意味

 

 戸来村では、沢口家の当主のことを見て、村人は「天狗が住んでいる」と言っていたという。背も鼻も高く、碧眼だったことでそう呼ばれたというのだが、沢口家の人は顔のつくりが濃く、ユダヤ人に似ている。まれに青い瞳を持った子供が生まれるとも噂される。これはあくまでも噂だが、沢口家では何代か前の女性が婿をもらったが、その体は大きく、目が青かったという。言葉もあまり通じなかったともいう。もしかしたら、この婿というのは白系ロシア人だったのではないだろうか。なぜなら、東北の日本海側の人の遺伝子を調べたところ、なんと10人に一人か二人の割合で白人のDNAが存在することが分かっているからだ。色白の秋田美人とはコーカソイド系の白人の末裔なのである。

 

資料館にパネル展示されている沢口家当主の写真

 

 北海道犬と秋田犬の血液型は、日本の在来種とは異なっており、ヨーロッパ犬であることが分かっている。犬が日本海を泳いで渡ってくるわけはなく、当然その犬をもたらしたのは渡来人となる。そして白系ロシア人はかなり古くから日本海を渡ってきている。江戸時代の津軽藩では、白人が普通に歩いていたとされ、鎖国していたとはいえ、東北にはかなりの外国人がやってきていたと推測されている。彼らの中にロシア正教を信じていた人間がいれば、「キリストの墓」伝説に少なからず影響を与えたのではないかとも推測できる。

 

 但し、村にユダヤの風習が残されていたということは、そこには渡来した白系のユダヤ人がいたということになる。血統的なユダヤ人だったとすれば、それはセム系でモンゴロイドである。白人と混血したユダヤ人はロシア帝国にも多くおり、レーニンやスターリン、トロツキーらは、見た目は白人だがみなユダヤ系である。そうした白系のユダヤ人が日本にやってきたことは十分に考えられ、特に取締がゆるかった江戸時代の東北地方なら十分に考えられる。

 

 但し、イエスとイスキリの墓とされる二つの土まんじゅうについては、村では古くから「偉い侍の墓」と語り継がれてきたが、誰の墓であるかは分かっていなかった。さらに、それが「キリストの墓」と「断定」されたのは、1935(昭和10)年のことである。果たして、白系のユダヤ人や白系のユダヤ系ロシア人のことを古くから「偉い侍の墓」と語り継ぐなんてことがあり得るのだろうか。

 

<つづく>