封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その6

 

 物理学者であり電気技術者であった楢崎皐月が六甲山系の「金鳥山」(きんちょうざん)で出会ったヒラトウジ(平十字)と名乗った人物から見せられた「カタカムナ神社」のご神体だという謎の古代文字で書かれた巻物を書き写したのが、「カタカムナ」である。古代日本の科学技術や哲学を記したものとされるこの巻物には、円と十と小さな丸(点)を組み合わせたような不思議な渦巻きのような図形が螺旋状に書かれていて、これがカタカムナ文献であるという。

 

 楢崎は戦前の満州で出会った「蘆有三道士」(らおさんどうし)から、上古代の日本に「アシヤ族」という高度な文明を築いた民族がおり、「八鏡の文字」を使って様々な技術を開発、これが中国に伝えられて中国文明の元になったと教えられ、そこで見せられた「八鏡文字(八鏡化美津文字)」こそが古代日本の叡智を伝える文字「カタカムナ」であると確信するに至る。

 

「カタカムナ」と「平十字」の正体

 

 平十字は楢崎に国津神である「方カムナの神」(カタカムナ)の神を祀ったのはアシア族だったが、天孫族の天皇との戦いに破れて九州に落ち延びたと伝えている。この話はそのまま国津神を奉じた物部氏が天孫族の天皇家&秦氏に国譲りをした歴史と符合する。よって平十字とアシア族とは物部氏のこととなる。だが、平十字とアシア族が住んでいたとされる場所は「芦屋」(アシヤ)がある六甲山系の中の「金鳥山」で、そこには安倍晴明の宿敵として名高い陰陽師・蘆屋道満(アシヤドウマン)の墓ともいわれる狐塚という穴があるという。

 

 陰陽師は基本的に「物部氏」である。安倍晴明は秦氏だが、蘆屋道満は物部氏である。ここには「秦氏=陽」と「物部氏=陰」による陰陽が示されている。そして、陰陽道を裏側から仕切る裏陰陽道の組織は物部氏の中の物部氏たる「八咫烏」(ヤタガラス)である。約70人いるとされる八咫烏の中で、頂点に君臨するのは3人の大烏である「金鵄」(きんし)で、「金烏」(きんう)とも呼ぶ。つまり、楢崎皐月を導いたのは「八咫烏」なのである!但し、はぐれ八咫烏の一羽である。八咫烏は基本的に京都の中におり、何らかの使命がない限り京都からは出てはいけないことになっているからである。

 

金鵄と八咫烏

 

 八咫烏も人間である。何らかの問題を起こした八咫烏や組織に反抗して飛び出してしまうものもいる。だが、その知識は古代からの叡智や呪術に至るまで広範であり、象徴体系を理解している。なにせカッバーラの使い手だからである。「カタカムナ図象文字」は基本どれも丸と十字(○と+)の組み合わせとなっているのは、「○」は陽で、「十」は陰、つまり「陰陽」なのである。よって「カタカムナ図象文字」とは「陰陽文字」といえるもので、まさに陰陽道を熟知した八咫烏が使った象徴文字体系とも考えられる。

 

 さらに、独自の図形文字が渦巻き状に並ぶ、80首のウタヒ(歌)である。楢崎は歌の中に「日本神話に登場する神々の名を歌詞にして、“自然摂理”の意味を、歌意に織り込んでいる」といい、具体的には製鉄、稲作、石器・木器製作、服織、医学、経済活動、哲学などについて記載されているというが、これは八咫烏が駆使する「カッバーラ」の象徴体系を意味している。さらに「歌」とは「和歌」であり、和歌は暗号=預言である。つまり、楢崎は解読できなかったのであろうが、「カタカムナ」とは確実に「預言書」でもあったはずなのである。

 

カタカムナは「和歌」のよる預言書?

 

 物理学者であり電気技術者であった楢崎が解読した内容には、よい鉄や農作物を生む土地を「イヤシロチ」、ダメな土地を「ケカレチ」としたが、「イヤシロ」とは「弥栄社」と書くことができ、それは「神社」のことである。ヤシロとは「社」で「ヤ」は絶対神ヤハウェのこと。よって神が顕現する土地である。なぜそこがよい鉄や農作物を生むのかといえば、全国の神社は全て「龍脈」の上に立っているからである。要はエネルギーが集まった場所である。逆の「ケカレチ」だが、ケカレとは「気枯れ」であり「穢れ」のこと。つまり「気」=エネルギーが枯れた場所であり、穢れた場所を示している。

 

 なぜ平十字が楢崎に叡智を書き取ることを許したのかは不明である。だが、八咫烏は必ず叡智を授ける人間を選ぶ。そして選ばれた人間は導かれる。「カタカムナのウタヒ」とは今日でいう自然農法やフリーエネルギーの技術であるとも言われている。もしかしたら、人類を破壊する農薬漬けの農法やモンサントが作り出した遺伝子組み換え農法、フリーエネルギーの技術を全て買収するか叩き潰してきたロックフェラーやロスチャイルドが支配するエネルギーとは真反対の技術を与え、発展させようとしたのかもしれない。

 

 楢崎が戦前の満州で出会った蘆有三道士から「中国の文明よりずっと古い文明が日本にあった」と話をされているが、この話はまるで「竹内文書」において、モーセも釈迦もイエスも全て古代の日本にやってきて修行し、超古代の天皇こそが万国天皇だったというものに近い話である。本当だろうか。この話は「竹内文書」の謎の解き明かしとともに書こうと思う。

 

◆「宮下文書」

 

 「宮下文書」(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司家だった宮下家に伝わる古記録、古文書の総称である。「富士宮下文書」「富士古文書」「富士古文献」、また相模国の寒川神社に保管されていたと書かれていることから「寒川文書」などとも称される。


 「宮下文書」には神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核の部分は中国の「秦」から渡来した「徐福」が筆録したと伝えられている。文体は漢語と万葉仮名を併用したもので、筆者・成立事情は不明。助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられている。1921年(大正10年)には、宮下文書をもとに三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が発行された。1986年(昭和61年)に影印本である『神傳富士古文獻大成』 (神伝富士古文献大成)全7巻が発行されている。

 

和歌山県新宮市に立つ徐福像

 

 「宮下文書」は他の古史古伝と同様に、その信憑性については疑いがもたれている。宮下文書の歴史は、「宮下文書」自身に書かれているものと、「富士文庫第一巻」 に記載されている内容であり、史実かどうかの確認はできないが、 紀元前3世紀に徐福が神代文字で書かれた歴史書を翻訳。その後も徐福の子孫 などにより歴史が記される。その後、江戸時代末に何度か転写され、また富士山噴火により罹災、相模寒川神社に移転されている。その後も時の支配者により何度が焼却されるが、写本が残るなどして現在に伝えられたものである。

 

 宮下文書は「古事記」や「日本書紀」のように、書物としてまとまった歴史書ではなく、種々の文献の集合体である。この中の古代史の部分に関しては、秦の始皇帝の命で東方の三神山にあるとされる「不老不死の妙薬」をもらいに日本に来たとされる徐福が書いたとの署名があり、「徐福文書」とも言われる。「東方の三神山」とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州のことであり、瀛州とは古代日本のことである。

 

宮下文書の一部

 

 その後の歴史についても徐福の子孫が書いたとの署名があり、さらに南北朝時代は南朝側についた宮下 家の先祖の歴史が語られている。宮下文書が主張しているのは、世界の開闢のときから富士山山麓の神都「高天原」が世界の中心であり、さらに高天原の政治的、文化的な中核が宮下家の「阿祖山太神宮」(あそやまだいじんぐう)であり、それは南北朝時代まで続いたとしている。

 

 例えば、都が富士山高天原から九州に移ったウガヤフキアエズ朝の時代も、天皇は即位式のために九州から富士高天原にやってきたとしており、神武天皇以降は富士高天原から「三種の神器」を大和へ運んで天皇の即位式を行ったとしている。以降も、富士高天原の太神宮は重要な役割を持ち、貞観の噴火で一旦は消滅するものの朝廷の保護により再建、その後も変遷を繰り返し、南北朝時代まで続いたとする記述がある。

 

 「宮下文書」を解き明かす鍵は「徐福」「富士高天原王朝」「阿祖山太神宮」にあり、さらに三輪義熈がまとめた『神皇記』の中にこそ「宮下文書」の本質を伝えるヒントが隠されている。

 

<つづく>