封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その4

 

 日本では江戸時代から古史古伝は「偽書」「偽史」とされてきた。その名前は聞いたことはあるが、実際に見たことない方も多いと思うので、どんな内容が書かれているのか、その概略を書いてみよう。

 

◆ 「上記」(うえつふみ)

 

 『上紀』は”ウガヤフキアエズ王朝”を含む古代日本の歴史などが豊国文字で書かれているもので、1837年(天保8年)に豊後国(大分県)で発見された。『上紀』『上津文』『上つ文』『ウエツフミ』とも書き、『大友文献』『大友文書』ともいう。

 

豊国文字

 

 『上紀』は長い間「偽書」とされてきたが、近年の研究では『上紀』を「偽書」であると科学的に証明することはほぼ不可能であり、天皇制成立より前の上代の「国家創生の物語」と、古代から中世にかけての豊後の国の地誌・風俗誌、博物誌としては稀有な存在であることが明らかになりつつあり、そのことを世に問うたのが田中勝也氏が著した『上記研究』である。

 

 田中勝也氏には本州の山地に住んでいたとされる放浪民の集団である「サンカ」(山窩)に関する『サンカ研究』という著作もあり、その中で「ウエツフミ文字=トヨクニ文字」と「サンカ文字」の共通項を明らかにされているのだが、それに加えた研究によって「サンカ=ネイティブスピリチュアル」という新しい視点を提示されている。これまでは封じ込まれたり迫害されてきた「先住の民の文化=風土の歴史」の記憶として、自然とともに生き、その土地に暮らした人々の生活誌であり、文化史と位置づけられている。

 

「サンカ」(山窩)の人々

 

 『上紀』には、記紀神話おける大和朝廷樹立の話の他に、古代日向の国に存在した「ウガヤフキアエズ王朝」の歴史や、阿蘇・直入・大野川流域に展開した「高千穂王朝」の存在などを語る膨大な記録がある。さらに、『上紀』には天文、医学、薬学、植物嶽、説話などが記されており、それらは記紀には記録されていない独自の文化体系ともいえる。さらに旧事記、古語拾遺、風土記、万葉集などに記された内容との共通項が多々ある。このことから、田中氏は古事記の語り部であった「稗田阿礼」(ひえだのあれ)に代表される古代の語り部たちの存在に言及、日本各地に様々な語り部がおり、独自の文化や物語を語り継ぎ、あるものは独自の文字で記録したのであろうと推論されている。

 

 後述するが、この「語り部」の存在は古史古伝の謎を解き明かす重要なポイントである。なぜなら、古史古伝だけでなく、古代から存在する神社の神官の一族は総じて「口承伝承」だからである。文字に残すと危険と判断された歴史は、全て口頭で次代へと受け継がれてきたのである。よって、昭和初期には全国の神社に特高警察がやってきて、神社の秘史を話すように強要。話さなかった巫女などを拷問するといったことも行われていた。要は皇国史観にそぐわない内容を伝えている神社かどうかを確認しようとしたのである。


 『上紀』の序文には1223年(貞応2年)に豊後国守護の大友能直が、『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したとある。内容は、ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史や、 天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話や、民俗等についての記事を含む博物誌的なもので、『上記』によると、神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代とあり、中国に農業や文字を伝えたのは日本であり、日本では精密な独自の太陽暦があったことなどが記されている。ここに謎を解くヒントが隠されている。

 

ウガヤフキアエズ命とニニギノ命

 

 初代の天皇である神武天皇は、天孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊・邇邇藝命)のひ孫である。そして神武天皇の父はウガヤフキアエズノミコト(鸕鶿草葺不合尊)であり、地神五代の5代目、日向三代の3代目で、日本神話の神である。その父のニニギノミコトは天照大御神の孫で、天上世界の「高天原」(たかまがはら)の神としては初めて地上世界を治めた神である。宮崎の高千穂に降臨したとする「天孫降臨伝承」は有名で、その名は「天地が豊かに賑わう神」を意味し、降臨の際、稲作をこの地上にもたらしたことで、農業神としての性格が強い。このため御神徳には、五穀豊穣や商売繁盛の他、国家安寧、殖産振興などが挙げられる。

「古事記」では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、「日本書紀」では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊と記されている。古事記も日本書紀も
「神話」であり、史実ではないのだ。よって、冷静に考えれば当たり前の話なのだが、神話と史実を無理やりくっつけて考えようとするアカデミズムの人たちにとって、ウガヤフキアエズ王朝の第73代なんて書かれたら、それまでに学んできたこと、教えてきたことが崩壊してしまうのである。もちろん、ウガヤフキアエズ王朝の第73代というのも「暗号」であるが。

 

 

◆「ホツマツタヱ」

 

 「ヲシテ」なる文字(いわゆる「神代文字」の一つ)を使ったいわゆる「ヲシテ文献」のひとつである。『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在する。その特徴は「五七調の長歌体」で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成されている。また、成立時期は、記紀との内容比較から記紀よりも古いともいう。漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」とも表記されており、『ツタヱ』は『伝え・言い伝え』であり、『ホツマツタヱ』は、『まことの中のまことの言い伝え(真の中の真の言い伝え)』の意味で、『正式の伝記・正式の歴史書・正史』ということ名前である。

 内容は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして初代人皇のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)の56年までを記述している。1〜28アヤまでが前編で「クシミカタマ」の編集、29〜40アヤは後編で「オホタタネコ」(大田田根子)の編著による。

 

ホツマツタヱの「ヲシテ」文字の研究


 『ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されており、この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。『ホツマツタヱ』では皇室の祖先が8代アマカミのアマテルカミ(天照大神)や初代アマカミの「クニトコタチ」まで遡る。さらに上記の歴史の他、ワカウタ(和歌)の成立、アワ歌という48音の基本音を表すウタおよび「縄文哲学」の詳しい記述、皇室の成立と歴史、結婚の法、イミナの意味、ミソキの方法、正しい食事の法、マクラ言葉(枕詞)の意味、刑罰の法、国の乱れの原因、国の意味、統治理念、「ヲシテ」という文字の成り立ち、「ミクサタカラ」(三種の神器=タマ・カカミ・ツルキ)の成立と意味、「トノヲシテ」と呼ばれる当時の憲法、国号の変遷、乗馬の法、各地の馬の品種、トリヰ(鳥居)の意味、自然神の祭祀、大宇宙とヒトの関係、暦の法、ヤマトウチ(神武東遷)の背景、天皇即位の儀式の変遷、ツツウタの意味、葬儀の法、など、まさに日本人の文化の源が述べられているのだ。また、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ヤマトコトハ(大和言葉)の語源なども述べられている。

 

 『ホツマツタヱ』が記している内容は、完全に日本の古代史である。それも「神話」ではないのである!なぜ、ここまで詳細なことを書けたのだろうか?そのヒントは編著者である前半が「クシミカタマ」で後半が「オホタタネコ」とされていることにある。

 

 奈良県桜井市にある「大神神社」(おおみわじんじゃ)には、「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)なる神が祀らているが、この祭神の正式な名称は、「倭大物主櫛甕魂命」(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)である。この大物主クシミカタマの神というのは、古神道の物部氏が祀る神であり、大神神社は物部氏にとって最重要な神社である。その大物主クシミカタマが降りるとされる三輪山は聖地であり、近年までは一般人立入禁止であった。

 

聖地「三輪山」を望む大神神社の鳥居

 

 大物主クシミカタマの神は、全てのモノ(物)に魂を籠める神力を持つとされる。クシミカタマとは、モノを串(クシ)刺しにして、そこにタマシイを籠めると言われるが、大物主クシミカタマとは物部氏が祀る古代ユダヤ教の神「ヤハウェ」のことである。モーセが召命されたのは山の上で、そこに「燃える柴」として顕現したのは絶対神ヤハウェである。よって『ホツマツタヱ』前半の編著が「クシミカタマ」という意味は「古代ユダヤ教」=「古神道」=物部氏の歴史を記したという意味なのである。

 

 これに対して後編の「オホタタネコ」(大田田根子)だが、『古事記』ではその名前を「意富多多泥古命」と記しており、大神神社では「大直禰子命」としている。「大物主神」または「事代主神」の子孫または子で、神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)、石辺公の祖先とされる存在である。
 『日本書紀』によると大物主神の子、『古事記』によると同神の5世孫、『先代旧事本紀』の「地祇本紀」によると事代主神の7世孫で、崇神天皇と同世代の人物である。『日本書紀』によると、「茅渟県」(ちぬのあがた)の「陶邑」(すえのむら)、すなわち和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方)の出身、『古事記』によると、河内国「美努村」(みのむら)、すなわち若江郡御野(現・八尾市上之島町南)の出身という。

 

 『日本書紀』崇神紀7年2月・8月の条には、三輪山の神大物主の神託に従い、大田田根子を捜したら「茅渟県の陶邑」に見出したという伝承があることで、ここの出身とされているのだが、「茅渟県の陶邑」も河内国「美努村」も物部氏の拠点だった地域である。古事記では「意富多多泥古」大神神社では「大直禰子」で、「命」(みこと)とは「神」のことである。要は「神話」だということである。

 さらに大直禰子を分解すると、「禰」とは「父のおたまや、みたまや、廟(ビョウ)にまつった父」という意味だが、「禰」とは「示=神」+「爾」(ジ)で、「爾」とは契約の聖櫃アークのこと。「大」は「一+人」で人として現れた神=「現人神」であり、イエス・キリストのこと。直は「―(直線)」+「目」で「まっすぐに見る」の意であるが、その目は「爾」=アークに光る目のことで、絶対神ヤハウェのこと。そのヤハウェは人として顕現した時には「神の子」イエス・キリストとして現れた。

 

 つまり「大田田根子・意富多多泥古・大直禰子」とは、原始キリスト教に改宗した古代ユダヤ教徒「物部氏」を象徴しているのだ。『ホツマツタヱ』とは前半が「古代ユダヤ教」=「古神道」の物部氏の歴史、後半が「原始キリスト教」=「神道」に改宗した物部氏の歴史で、共に封印された物部氏の歴史を記した書物のことだったのである!

 

 

 

<つづく>