「日本」を封印した「聖徳太子」その41
「ヨハネの黙示録」は幻視である。ヨハネがイエスに見せられた未来の光景を「カッバーラ」による象徴に次ぐ象徴で書き残した預言書である。よって、その読み解きは至難の業である。前回書いたように、第六のラッパの最後の部分には、災いにあって生き残った人たちであっても、あらゆる偶像崇拝は許されないとある。これは、「たとえワクチンを打たなかった大和民族であっても、悪魔崇拝となる偶像崇拝は許さない」と言っているのである。
これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。
(「ヨハネの黙示録」9章20−21節)
◆「偶像崇拝」を滅ぼす意味と「伏蔵=伊勢三宮」
いわゆる「陰謀論」(権力者共同謀議)に登場する世界の金融を支配する者=金の亡者であるロスチャイルドやロックフェラー、それに従う世界の支配層や日本の支配層、お金を神のごとく崇めてしまう輩。日本を海外に売り渡す自民党や統一教会、公明党や創価学会、あらゆる犯罪者、売春・回春・不倫、アイドルを「神」などと言ってしまうアイドルマニア、それを助長するメディア産業、自称「占い師」から細木数子のようなインチキ占い師やその占いを有り難いとする人であっても、全て「偶像崇拝者」とみなされて抹殺される、ということである。なんとも荒ぶる神は厳しいことを言うものだ。まぁ。改心すれば大丈夫なのかもしれないが。
特に統一教会のような「獣」が支配する「世界統一政府」を樹立するための宗教=偽のキリスト教による世界統一や、自分の教え以外は全て邪教とした日蓮のような宗教は、神の教えに反する偶像崇拝として滅ぼされることになる。極端な言い方だが、密教以外の日本の仏教は全て滅ぶことになる。なぜならそれは釈迦入滅後2500年で仏教が終わるとした釈迦自身の預言であり、そうした偽の宗教がはびこる西側文明に終わりが来るという預言を形にした「五重塔」が、あえて法隆寺の西院に建てられているのはそのためである。それが釈迦を導いた「ヤハウェ=イエス・キリスト=聖徳太子」の意思が込められた法隆寺という寺の正体であり、新約聖書のフィナーレとなる「ヨハネの黙示録」の世界を形にしたものということを理解せよという隠されたメッセージなのであり、それが「教えが隠された蔵」の意味をもつ「伏蔵」の意味なのである。
法隆寺「五重塔」と「金堂」
「伏蔵」の象徴的な意味とは別に、3箇所の「伏蔵」には実際に何かの物体が埋蔵されているのかどうか、それは全く不明である。「三伏蔵」が全て揃うと、法隆寺を再興できるほどの価値がある宝だと伝えれれているだけで、何も具体的なヒントがないからだ。イエス・キリストに関わる「3」の数字には、天界の3神(父と子と精霊)、3人弟子(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)、3本の十字架、3本の聖釘、東方の三博士などがある。最後の東方の三博士は実際には聖書には三博士とは書かれておらず、その正体は救世主の誕生を祝いにやってきた「十支族」「二支族」「レビ族」が集合したしたことを意味している。
とすれば、やはり「三種の神器」の象徴のような何か、としか考えづらい。三種の神器は「八尺瓊勾玉」=「伊勢外宮」、「八咫鏡」=「伊勢内宮」で、「草薙の剣」は現在はまだ「熱田神宮」に秘されているが、いずれ伊勢本宮である「伊雑宮」に戻される時がくる。それは、そんなに先の話ではない。と、ここで気付いたことがある。それは伊勢三宮の配置である。外宮と内宮は一直線に結ばれているが、伊雑宮は斜めにずらして配置されている。それは「オリオン座」の配置と同じだからである。
法隆寺の「伏蔵」があるとされている3箇所は、金堂の東北角、経蔵内、そして夢殿の脇の大湯屋前にそれぞれ存在している。もう一度法隆寺の伽藍配置で3箇所の位置を確認してみたら、その3箇所の配置は、まるで「伊勢三宮」と同じなのである!これには筆者も驚いた。
伏蔵の3箇所と伊勢三宮の配置
①「経堂」=「外宮」 ②「金堂」=「内宮」 ③「夢殿」(大湯屋)=「伊雑宮」
いやはやこじつけのように思えるが、「伊雑宮」は伊勢本宮であり、祀られているのは天照大神の「御魂」である。神が祀らているのではないが、ご神体はイエスの十字架の上の「罪状板」で、そこには神の名前が3つの言語で記されているある。「三伏蔵」が全て揃うと、法隆寺を再興できるほどの価値がある宝としている意味は、伊勢三宮が並び立つ時、天照大神が復活することを意味しているのである。なにせ、天照大神はイエス・キリストなのであり、イエスの再臨こそが大和民族が知らず識らずのうちに行っている「願い」という「呪術」だからである。
イエスの象徴でもある「だるま」も天照大神の「御札」も「お守り」も、全て正月が明けた時にお焚き上げをしてしまう。「どんど焼き」である。「どんと焼き」の謎については昨年12月の連載”「大晦日」と「お正月」の謎”でも書いたが、旧年の御札やお守り、だるま、書き初めなどに加えて人形なども焼いてしまう。なぜなら、これらは全てイエスの再臨を願うための呪術の道具であり、ある意味で「偶像」でもある。しかし、イエスの再臨した暁には、そうしたものは全て不要となる。だからこそ、たとえイエスの象徴であっても「偶像は全て焼いてしまえ」と言っているであり、これは「ヨハネの黙示録」にも書かれた偶像崇拝をする人間も偶像となるモノもすべて滅ぼすべき象徴でもあることを表していたのである。
「どんど焼き」で焼かれるだるま
こんなことを書くと、なんて嫌な人なんだろうと思われるに違いないが、「偶像崇拝」を禁じることの意味は深い。なにせ地球に滅亡が近づいた時、世界中の人は悔い改めることもせず、役にも立たない偶像を拝み続けると書かれている。金や銀も「偶像」なら、地位や名誉も偶像であり、権威や利権も偶像である。ローンで買った家やマンション、住み慣れた土地も偶像となり、異性やペットであっても偶像崇拝の対象となってしまう。いうなれば「執着」である。「偶像崇拝」とは「執着」なのである。その執着を捨てない人間は全て焼き滅ぼされるという意味なのである。だからこそ他人のことを「カリスマ」などといって持ち上げることも偶像崇拝であり、ましてやヒトラーやゼレンスキーをもてはやす人間も同じで、それはこれから登場する「獣」を崇拝することと同じになる。
「法隆寺」の本尊は夢殿に”秘されていた”「救世観音像」である。フェノロサがやって来てこじ開けさせるまでは、寺の人間すら見たことがなかった「秘仏」だったのである。ここがポイントである。なぜ「秘仏」だったのとかといえば、「救世観音像」という偶像を拝ませないためだったからなのだ。たとえその像が太子の現身(うつしみ)だったとしてもである。だから1000年以上も開封させずに、ずっと秘仏にしてきたのであり、救世観音像を表に出したら最後、大地震が起きると法隆寺は本気で心配したのである。太子の関係の寺には「大聖勝軍寺」といい、太子の寺で太子の像があっても「秘仏」として見せない理由はここにあったのである。その意味では、キリスト教の教会で十字架に掛けられたイエスの像を拝むという行為自体が偶像崇拝なのであり、イエスの教えにも反する行為なのである。よってモーセに偶像崇拝を禁じたヤハウェとして戻ってきたときに滅ぼされる運命になるのだ。
◆「第七のラッパ」
さて、「第七のラッパ」である。
「もう時がない。第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言った、「さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開かれている巻物を、受け取りなさい」。
そこで、わたしはその御使のもとに行って、「その小さな巻物を下さい」と言った。すると、彼は言った、「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」。わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。
その時、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と言う声がした。
この時点ではまだ、第七のラッパは吹かれていない。だが、海と地の上に立つ天使から「小さな巻物」を受け取ると記しているということは、それだけ重要なことが書かれている巻物だということだ。ヨハネが巻物を食べたというのは、「天から与えられた使命を引き受けた」という比喩である。さらに「口には蜜のように甘い」とは、イエスの福音が人を幸福にすること意味している。だが、「腹が苦くなった」とあるのは、その福音を受け入れるものが多いわけではないことを示唆している。
最後の「多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」とは、全世界の人間の未来と救いに関わる「預言書」である「黙示録を作れ」といういうことである。この命令があったからこそ、ヨハネの黙示録がまとめられたのである。
「小さな巻物」を描いた絵画
第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
そして、天にある神の神殿が開かれて、神殿の中にある契約の箱が見えた。また、いなずまと、様々な音と、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。
最後の行には「契約の箱が見えた」とある。もちろん「契約の聖櫃アーク」のことである。レビ人以外が担ぐことを許されない金色に輝くこの箱を、神輿のように担いで最前線に持ち出すと、無数の敵も全滅したと旧約聖書には記されている。アークとは大和民族に敵対する者を殲滅する「究極の兵器」である。アークがこの時再び姿を現して、猛烈な轟音と炎を発しながら敵の軍隊を完膚なきまでに叩きのめすのである。
日本では、「アーク」は2度その姿を現している。1回は国難ともいえる「元寇」の時である。宇佐八幡に祀られていた箱を白装束の男たちが担ぎ出し、現在の筥崎宮の前に置き、呪文を唱え始めたところ、博多湾に大挙して襲来した元の船が次々と火を噴き出し、元の兵士がみな燃えてしまい、最後には台風のような強風によって、元の大軍はみな海中に沈んでしまったと筥崎宮は伝えている。いわゆる「神風」である。さらに宇佐八幡と東大寺に残されている記録によれば、「本神輿」と呼ばれたアークは、なんと東大寺の大仏の「開眼供養」のために運び込まれているのである!
<つづく>