「日本」を封印した「聖徳太子」その37

 

  「法隆寺の蛙(カエル)には片目が無い」という不思議を追いかけたら、「だるま」が登場したと思ったら、今度は東大寺の「大仏」にたどり着いてしまった。どうも「だるま」と「大仏」が同じように見えてきた(笑)。「だるま」の起源は、禅宗の始祖である達磨大師とされるが、座禅で「手足が腐った」という伝説が「だるま」の興りといわれる。手足が腐るようなものが宗教として広まるものなのだろうか。怪しく思えてきた。

 

 なにせ「だるま」の後ろには秦氏がおり、その後ろには聖徳太子が鎮座しているのである。必ずや封印の仕掛けが施されていると思わないといけない。そして、それはもちろん東大寺にもいえる。なにせ、日本の主要な仏師も、その大半は秦氏だったからである。「だるま」と「達磨大師」と「東大寺」には、聖徳太子が関係しているはずだ。否。そうなのである。聖徳太子=イエス・キリストは、極東のイスラエル民族の末裔を自ら率いて封印するため、自ら大和へとやってきた。だからこそ、イエス・キリストは大和民族(ヤハウェの民)にしか遣わさていないと断じたのである。

 

 「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。」

 (『新約聖書』「マタイによる福音書」第15章24節)

 

◆インドから来た「菩提僊那」と「大仏開眼」

 

 752年(天平勝宝4年)に行われた「東大寺」の大仏の開眼供養には、わざわざ南インド出身のバラモン教の僧侶「菩提僊那」(ぼだいせんな)が渡来し、開眼の導師をつとめている。この話をさらっと流してはならない。いったい誰がインドの僧侶に開眼の導師を依頼したのか。そして、なんでインド出身のバラモン教の僧侶「菩提僊那」でなくてはならなかったのか?

 

 菩提僊那は南インドのバラモン階級に生まれ、青年期にヒマラヤを越えて入唐、五台山にも滞在。そこで五台山の「文殊菩薩の神霊に感応して中国に渡った」という話が伝えられている。唐では長安の崇福寺を拠点に活動、滞在中に日本からの入唐僧「理鏡」や遣唐使の「多治比真人広成」(たじひのまひとひろなり)、遣唐副使「中臣名代」(なかとみのなしろ)らの要請により、ペルシア人の僧侶、唐人の僧侶や唐楽演奏家らと共に 天平8年(736年)に訪日している。この時の遣唐使は第10次遣唐使で、大使は多治比広成だが、判官として平群広成、秦朝元らも唐に赴いている。

 

 要は遣唐使から依頼されたのだが、依頼したのは中臣氏であり、秦氏である。菩提僊那ら3人の僧は渡来後の5月に大宰府に赴き、8月に難波津を経て、行基に迎えられて12月13日(737年1月18日)平城京に入り、左京の大安寺に住している。そして751年(天平勝宝3)には日本初の大僧正「行基」(ぎょうき)に次ぐ「僧正」となり、翌年に「東大寺」の大仏の開眼供養で導師を務めたのである。

 

菩提僊那

 

 大仏の目を入れるために使われた筆は今なお正倉院の宝物として伝えられている。菩提僊那について時代をさかのぼる記録は多くは残っていないのだが、弟子の修栄による『南天竺婆羅門僧正碑并序』の中に、菩提僊那が『華厳経』を読誦し、「密呪」=呪術にも通じていたこと、阿弥陀浄土の信仰も持ち、また、如意輪観音をはじめとする密教の八大菩薩に対する信仰が深かったなどの記述も見いだされる。

 

 つまり、菩提僊那は文殊菩薩の神霊に感応して中国に渡り、中臣氏・秦氏が日本に呼び、阿弥陀浄土信仰も持つ密教の呪術師であった、ということだ。東大寺建立に尽力した大僧正「行基」に代わって「東大寺」の大仏の開眼供養で目入れをした人物である。日本の仏教の最上位の僧侶だった行基は大仏の開眼供養の3年前に亡くなっているため菩提僊那が目入れをしたというのは、あくまでも表向きの話である。行基はこの密教を習得していたインドの僧侶に「大仏の目入れ」を託したのである。なぜなら、菩提僊那には日本の仏教が原始キリスト教だと分かっていたからである。菩提僊那は「神霊」に呼応して日本に渡来したのである。その「神霊」とは「ヤハウェ」である。


 「阿弥陀」とは「無量寿」「無量光」という梵語の音訳されたもので、「限りない生命を有し、無限の光明を持つ仏」という意味である。 「薬師如来」が東方浄土の教主であるのに対して、「阿弥陀如来」は未来の方向、西方にある華やかな極楽浄土の教主ということである。だが、西方浄土とは陰で「黄泉の国」のこと。神霊ヤハウェの世界で、東方浄土とは陽で光の絶対神イエス・キリストが支配する未来の国のことである。「仏」は「人+ム」でヤハウェが現人神として降臨するという教えで、釈迦を導いたのはモーセに「私はある」といったヤハウェの霊である。だが、そのヤハウェは終末の世にイエス・キリストとして再降臨するという預言を釈迦に与えたのである。そう、「大仏」とは一人の人=現人神として再度日本に戻ってくるイエス・キリストの象徴なのであり、だから「神の両目が開く=再降臨する」という預言だからこそ、「大+仏」で現人神が二度現れるとしたのである!

 


◆聖イッサと失われたイエスの17年間

 

  イエス・キリストは使徒たち(パウロは含まれない)に失われた同胞=ヤ・ゥマトのところへ行けと命じている。

 「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第10章
5~6節)


 それで、使徒の一人のトマスはインドへ渡っている。なぜなら、インドでは過去に「聖イッサ」が布教していたからである。ご存知の方もいるかもしれまないが、イエス・キリストの生涯の中で、13歳から30歳までの17年間に関する記録は聖書にはなく、謎に包まれた期間となっている。ユダヤ人の大工として普通の人で過ごしていたという説もあれば、この期間に日本をはじめ、世界を旅していたという伝説もあり、その中で有名な話の1つに「聖イッサ伝」という、インドに訪れていたイエス・キリストの伝承があるのだ。「聖イッサ伝」とは、1887年にロシア人ジャーナリストのニコライ・ノトヴィッチが、北インドのラダックを訪れた際のこと、ラマ寺院の長老から見せられた古い経典のことである。

 


聖イッサ伝を伝える「イエスのである失われた十七年」

 

 ニコライ・ノトヴィッチが著した『イエスの失われた十七年』には、その経典に記されていたのは、イエス・キリストがイスラエルの地からインドに渡ってきて、聖人イッサと呼ばれて修行、人々に布教していた記録だったのである。どんな内容だったのかといえば、要約すると以下のようなものである。

 

 12歳の時に、ユダヤ人の長老相手に議論をしていた少年イッサの噂は瞬く間に広がる。ユダヤの成人式を迎えた13歳のイッサのところには、様々な縁談が持ち込まれたが、結婚する気がなかったイッサは、この騒動から逃れるため、商隊と共にインドへ旅に出る。インドに到着した時、イッサは14歳になっていた。この不思議な子供の噂は瞬く間に広がり、ジャイナ教徒から歓迎される。
 その後、イッサはジャガンナートで、バラモン教を学び、祈祷や悪魔祓いの術も習得。こうして、イッサはラージャグリハ、ベナレスなどを歴訪し、6年間修業。貧しい人々と一緒に暮らし、聖典を研究したという。しかし、20歳の時、カーストの低い者たちといることをバラモン僧らに批判されると、「人間は神の御前にあってはみな平等である」と答える。
 こうしたことが重なり、バラモン僧からの攻撃が激しくなると、イッサはヒマラヤへと移動。そしてルンビニーなどで、ブッダの教えを学び、修行を続けた後、28歳の時に下山。インドからペルシャへ行き、そこでゾロアスター教について人々と議論するも、再び旅に出て、遂にパレスチナへ帰還する。この時イッサは30歳で、知恵と人格を兼ね備え、神の教えを述べ伝えるために、公然と活動を開始したのである。


 この内容は、見事にイエス・キリストの「空白の17年間」に符合する。新約聖書では、イエスは13歳から30歳までの記録はなく、30歳でヨハネからバプテスマを受け、突然布教を始めているのだ。ノトヴィッチの『イエスの失われた十七年』は、新約聖書の空白を埋める大発見とされたが、この主張はキリスト教国では激しく批判・否定され、聖イッサ伝の真相は、闇に葬られたままとなっている。果たしてラマ寺院に残された古い経典は真実だったのだろうか。答えは「イエス」である。

 

イエスの放浪

 イッサが訪れたとされるヒマラヤのルンビニーには、現在も釈迦の末裔である「釈迦族」が住んでいる。釈迦の生涯はイエスの生涯の予型であった。そして釈迦を導いたのは神霊ヤハウェであったイエス・キリスト本人である。「大和民族」と同じ遺伝子を持つのは、アジアでは「釈迦族」だけである。そう、「釈迦族」は「大和民族」なのである。だからこそ、イエスはイスラエルの家の失われた羊のところに行ったのである。


 インドの一部では、イッサ=イエスというのは有名な話であり、これこそが真実の伝説として語り継がれている。南インド出身の僧侶「菩提僊那」は密教の僧侶であった。密教とは秘密の仏教であり、仏教の最大の秘密とは、釈迦が教えた仏教の奥義とは原始ユダヤ教であり、仏=現人神イエス・キリストのことなのである。だから「菩提僊那」は知っていたのである。大和民族の国の正体と聖徳太子が広めた仏教の正体を。だからこそ大仏に目を入れたのである。

 

 使徒の一人のトマスはインドへと渡り、イエス・キリストが「イッサ」として布教した一帯を伝道、それが後の日本にもたらされる。それは「達磨大師」の「禅」であった。そう、達磨大師とはイエス・キリストのことだったのである!

 

<つづく>