「日本」を封印した「聖徳太子」その14

 聖徳太子の謎を調べれば調べるほど「物部氏」が登場する。4世紀に秦氏が渡来して以降、天皇は基本的に秦氏で皇后は物部氏の王族であった海部氏の娘、それも特殊な力を持った巫女が選ばれてきた。天照大神の神意を下ろすことのできる姫巫女と天皇陛下というのは必須の組み合わせなのである。

 

 天皇陛下というのは役職で、その字が示すように「天の白く輝く王」=天照大神の階下にいて、その神意を下々の者に述べ伝える役割、つまり天照大神の預言者ということである。よって天皇陛下自身も普通の人間では務まらず、特別な血を継いだ者だけが天皇陛下となれる。さらに天皇陛下となるためには、天照大神との間で特別な約束をしなければならない。「聖約」となる大嘗祭である。

 

 

絵堂第四面の聖徳太子絵

 

◆ 「後醍醐天皇の朱印」と「大嘗祭」

 

  令和3年の「1400年遠忌」では全国各地で開催された「千四百年御聖忌記念 特別展」にて「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」(ごだいごてんおうしんかんぼん)が展示された。「四天王寺縁起」とは四天王寺の歴史や逸話が記されていたもので、元の「根本本」は聖徳太子の自筆とされるものであった。「宸翰」(しんかん)とは天皇自筆の文書のことで、「後醍醐天皇宸翰本」は、南北朝時代の建武2年(1335)に後醍醐天皇が四天王寺を訪れた際、太子自筆の書を書き写し、さらに自分の手形を「朱」で押印したものである。

 「太子直筆の書」というのも、太子が自筆で書いたものに太子が自分の手形を「朱」で押印したものと伝えられているが、現在は公開はされていない。太子の手印のある自筆の書を表に出すのは畏れ多いということで後醍醐天皇が書き写して残したという。 

 

 「千四百年御聖忌記念 特別展」で公開されていたこの「後醍醐天皇宸翰本」、お客さんたちは特に何も驚きもせず、ちょっと見たらその場を立ち去っていく方ばかりであったが、四天王寺で見て以来の2度目の筆者は非常に興奮していた。後醍醐天皇の朱の手形をしっかり見届けようと。この画像が以前に別の連載でも紹介したが、やはりインパクトがある。というか少々怖い。

 

「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」

 

 「後醍醐天皇宸翰本」の中に自分の手形を「朱」で押印した部分をよく見てみると、手形の中央上部に「穴」が開いているのがお分かりだろうか。後醍醐天皇の手には「穴」が開いている。これはどういう意味なのかといえば、南朝の祖である後醍醐天皇は、天皇になるための儀式「大嘗祭」で、五寸釘を使って掌に穴を開けたのである!

 

 「大嘗祭」は現代においては「だいじょうさい」と音読みするが、古代は「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じていた。日本の天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事である。国事ではない。国事行為となる即位の礼の各儀式が終了し、新天皇として即位した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する儀式とされ、その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、祈念することであるとされる。

 祭祀は秘事であるため、その内容について様々な研究家たちによって考察がなされてきた。かつては、民俗学者の折口信夫の唱えた「真床覆衾」(まとこおうふすま)論、つまり日本神話における天孫降臨の場面を再現することによって「天皇霊」を新帝が身につける神事であるとする仮説が支持され、その発展ないしは修正の形で研究が展開されていった。

 

 また岡田荘司は、大嘗祭において稲だけでなく古代の庶民の非常食であった粟の饗膳も行われることに着目して、大嘗祭は民生の安定と農業を妨げる自然災害の予防を祈念するものであるとし、「大嘗祭の本義は、稲や粟など農耕の収穫を感謝し、国土に起こる災害現象に対する予防のため、山や川の自然が鎮まるように祈念するもの」「国家と国民の安寧を祈念する国家最高の祭祀」との見解を示している。また平成後期に西本昌弘により『内裏式』新出逸文が紹介され、その検討が加えられた結果、もはや日本史学界においては「真床覆衾」論も聖婚儀礼説もほぼ完全に否定されている。

 


大嘗祭悠紀殿の配置図

 

 日本史の学界におられる方々は、根本的に「神道」とは何かを理解していない。研究するのはいいが、ミイラ取りがミイラになってしまっている。よって、大嘗祭とは結局は何をするための秘儀なのかを理解できない。だが、ある意味それは仕方がない。なぜなら大嘗祭とは天皇家の一切非公開の「秘儀」であって、誰も見たことがないからである。

 

 大嘗祭で供えられる神饌には、ウミガメの甲羅を焼いて占う「亀卜」(きぼく)で選ばれる「悠紀」(ゆき)・「主基」(すき)の2つの国(地域)で収穫された米と、その米から作られる「黒酒(くろき)と「白酒」(しろき)が知られる。そして大嘗宮の中心をなす殿舎が「悠紀殿」(ゆきでん)と「主基殿」(すきでん)で、「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」と、同様の祭祀を2度繰り返して行う。殿内には中央に「八重畳」(やえだたみ)を重ねて敷き、その上に「御衾」(おんふすま)をかけ、「御単」(おんひとえ)を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥を置く(寝座)。その東隣に御座がおかれ、伊勢神宮の方向を向いている。御座と向かい合って神の「食薦」(けこも)を敷き、「神座」として扱われる。

 

 「真床覆衾」とは、天照大神が横たわる場所である「神座」に敷かれる布団である。その上には天照大神のための靴=「御沓(おんくつ)」が置かれ、その左右には阿波(徳島県)で作らた麻織物の「麁服」(あらたえ)と三河(愛知県)で作られた絹織物の「繪服」(にぎたえ)という神聖なる二つの布が置かれる。ともに古代より神道祭祀に関わる忌部氏が製造の一切を取り行う。「麁服」とは大麻で作られた白装束で、「死装束」のことである。また「繪服」とは死人の顔を覆うための白い布のことである。大嘗祭とは「天岩戸神話」において岩戸の中に「お隠れ」=亡くなった「天照大神」の葬式なのである。

 

 「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」ともに葬式であり、「天の岩屋」の中に葬られた天照大神を慰めるために共に食事をし、天照大神がお亡くなりになった場面を再現する、つまり人間としての天皇が一度死に、天照大神の御魂を身に宿すことで「現人神」天皇陛下となる儀式が大嘗祭の本質である。天照大神の死と復活の儀式を天皇自らが再現することを通じて、この国を天照御神の代わりに収める大神権を授かり、神道の長となる儀式である。しかし、なぜ古代の新天皇は大嘗祭で掌に穴を開ける儀式を行ったのか。それは、天照大神の正体が「イエス・キリスト」だからである。

 

 その儀式においては、「イエス・キリストの死」を再現し、現人神として地上に現れたイエス・キリストと同じように「痛み」を自らの体に刻みつけるのである。大嘗祭とはイエス・キリストを十字架に磔にした際に、両手と両足に打ち込まれた「五寸釘」を使って、「イエスの磔刑」を再現する儀式だったのである!このイエスの磔刑に使われた聖釘(五寸釘)は、現在も伊勢内宮に隠されている。

 

後醍醐天皇の掌の釘穴

 

 大嘗祭は「イエスの磔刑」を再現する儀式だったが、イエスと同じ手首に釘を打つことは禁止された。なぜなら、手首は神=イエスにだけに許された聖なる箇所だったため、歴代の天皇は手のひらに釘を打ち付けたのである。また手首を釘で打ち抜くと手が使えなくなることもその理由であった。

 

 しかし、南北朝に分かれて以降、北朝天皇家は「大嘗祭」を行っておらず、それは江戸時代最後の天皇である「孝明天皇」まで続いた。この間の天皇は全て「大嘗祭」を行っていないことで「半帝」と言われ、天皇の本来の役目である「天皇陛下」になれなかった。明治以降の近代では外交で海外の使節と会うもことも出てきたため、五寸釘を掌に当てる儀式に変更されているという。

 

 手のひらに五寸釘で穴を開けた天皇で証拠が残っているのは、水無瀬神宮に残されている「後鳥羽上皇の手印」である。他の天皇の手印でも穴が残っているものがあるはずだろうが、表に出されているもので筆者が把握しているのはこの2人の天皇のものだけである。後鳥羽上皇も後醍醐天皇もともに鎌倉幕府によって「隠岐」に流された天皇である。天皇は預言者でもある。よってその言葉や「朱=血」で押された手印はそのまま「預言書」となる。

 

「後鳥羽上皇の手印」(水無瀬神宮)

 

 四天王寺縁起の元の「根本本」は聖徳太子の自筆とされ、そこに太子の「手印」が押されていたという。但し、それは現在は見ることはできないため、本当に聖徳太子が掌を五寸釘で打ち抜いたかどうかは分からない。また、聖徳太子を含め古代の天皇たちが掌を五寸釘で打ち抜いたかという記述も残ってはいない。だが、「聖徳太子」は日本初の「裏天皇」だったことで、む日本の祭祀の雛形を整えたのである。これは天皇祭祀も含めたもので、「大嘗祭」を制定したのも聖徳太子その人であった。

 

 しかし、なぜ「聖徳太子」は「大嘗祭」において新天皇に血の聖約を求めたのか。それは「原始キリスト教徒」の長たる者が天皇陛下だからである。

 

 

<つづく>