「日本」を封印した「聖徳太子」その1

 

 「聖徳太子」といえば、日本中で誰一人知らない者はいない。聖徳太子こそ、我が国の最大の偉人であり、日本の文化と国家安泰を象徴する最大の人物といえる。だが、未だに聖徳太子の正体は謎のままになっている。まるで、解き明かしてはいけないと言わんがばかりに、聖徳太子を取り巻く謎は幾重にもなっており、いったい何が謎で何が正式なものかすら分からなくなってしまう。なぜなら、この「日本」という国の正体を世界中から覆い隠した存在、それが「聖徳太子」だからである。

 

 一般的な聖徳太子像は、飛鳥時代の皇族・政治家であり、用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)​である​​​​​​。 「聖徳太子」というのはあくまでも後世の尊称ないし諡号であり、また、「厩戸皇子」(うまやどのみこ)、「厩戸王」(うまやどおう)など本名は「厩戸」と言われることも多く、「豊聡耳皇子」(とよとみみのみこ) 、「上宮太子(じょうぐうたいし)などともいう。但し、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には「厩戸」は見られないとされる。

 

◆聖徳太子はいなかった?

 

 叔母である推古天皇の摂政として内政・外交に尽力。世界初の憲法である「十七条の憲法」や「冠位十二階」の制定、仏教寺院の建立や遣隋使の派遣など、重要な政策を一手に担う革新的な政治を行った人物としてかつての教科書のでは記述されていたが、この「聖徳太子」の事績は、奈良時代前半に成立した『日本書紀』に依拠している。

 

「聖徳太子」の記述の根拠となる史料の時期を分析すると、『日本書紀』は奈良時代初期で、法隆寺関連の史料は、確実に年代が確認できるものは奈良時代中期となる。つまり、聖徳太子の事績の根拠となっている史料は、太子没後1世紀を過ぎた史料であるのだ。また、「聖徳」とは厩戸王の没後におくられた名であり、「太子」は「皇太子」の意味だが、「厩戸王」が存命していた時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低いことも、現在の研究では分かっている。このような状況から、「聖徳太子」の存在自体を否定する説もでている。


「唐本御影」

 

 聖徳太子像といえば「唐本御影」(とうほんみえい)である。宮内庁侍従職が保有する「唐本御影」は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画で、「聖徳太子及び二王子像」とも称される。これまで高額紙幣の肖像画や教科書でも「聖徳太子」として使用されてきたため、この画像が「聖徳太子」というイメージを日本人に強く残してきた。しかし、この絵と「聖徳太子」とを関連づける当時の史料がないこと、また絵の画像の研究から、製作年代は早くとも8世紀の奈良時代と考えられることなどから、最近は「伝聖徳太子像」として表記するようになっている。

 「聖徳太子」のことを研究する方々非常に多い。なにせ古代日本最大の聖人にして最大の謎の人物である。さらに「太子構」「お太子さま」など聖徳太子自体が信仰の対象となっており、史料の記述も信仰と実際の事績が混在してしまっているため、「謎」につつまれた部分が非常に多いのである。よって上記のような研究成果を反映し、高等学校の教科書だけでなく、一般の学術書にも「厩戸王」と記載する傾向となっており、あたかも「聖徳太子は存在しなかった」かのような風潮となっている。まぁ、これはある意味で正しく、別の意味では正しくない。なぜなら
「聖徳太子は存在したが、いなかった」からである。

 

 「聖徳太子」という存在は封印された存在なのである。そして、封印した人物もまた「聖徳太子」その人だったのである。そうでなければ、単純に存在しなかった人物を1400年間も信仰するはずがないからである。「聖徳太子」というのはあくまでも送り名であり、太子が存在していた時代には「聖徳太子」と呼ばれた存在ではなかったのである。つまり、「聖徳太子」という名称は記号であり暗号なのである。後世の人間たちに「謎を解いてみよ」というメッセージなのである。

 

◆「厩戸皇子」〜「聖徳太子」という様々な呼称

 

 太子の本名は同時代史料には残っていない。和銅5年(712年)に成立した『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命」(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命」(うまやとのとよとみみのみこのみこと)とされているほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。

 

 「上宮」(かみつみや)を冠した呼称も見られ、『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮(いかるがのみや)を指して「上宮」と呼称している他、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。これらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、さらに「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では「上宮厩戸豊聡耳太子」のほかに「豊耳聡聖徳」(とよみみさとしょうとく)、「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。

 

観音正寺の聖徳太子像(滋賀県近江八幡市)

 

 太子の別名を調べると、まぁ出てくる出てくる。日本の歴史上でこれほど多くの名前をもった人物はいないだろうと思えるほど様々な呼称があるのだ。

 

・「法隆寺金堂(薬師像の光背にある名)」
  → 東宮聖王(まけのきみひじりのきみ)

・『先代旧事本紀』 - 成立年代不明(諸説あり)
  → 上宮厩戸豊聡耳太子(うへつみやのうまやとのとよとみみたいし)
  → 上宮厩戸豊聡耳皇太子命(うへつみやのうまやとのとよとみみたいしのみこと)
  → 上宮厩戸豊聡耳尊(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)

・「法起寺塔(三重塔の露盤銘)」 - 706年頃
  → 上宮太子聖徳皇

・『古事記』 - 712年成立(奈良時代)
  → 上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)

・『日本書紀』 - 720年成立(奈良時代)
  → 厩戸皇子(うまやとのみこ)
  → 厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)
  → 豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)
  → 法主王(のりのぬしのおほきみ)

・『上宮聖徳法王帝説』 - 平安時代成立
  → 聖徳法王
  → 厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやとのとよとみみのしゃうとくのりのおほきみ)
  → 上宮厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
  → 厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよやつみみのみこと)
  → 上宮王(うへのみやのみこ)
  → 等己刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)

・『日本三代実録』 - 901年成立(平安時代)
  → 聖徳太子(しょうとくたいし)

・『聖徳太子伝暦』 - 917年頃成立(平安時代)
  → 厩戸皇子(うまやとのみこ)
  → 上宮太子(うえのみやのみこ)
  → 聖徳太子(しょうとくたいし)

・『大鏡』 - 平安時代後期成立、 『東大寺要録』 - 平安時代後期成立

   『水鏡』 - 鎌倉時代初期成立
  → 聖徳太子(しょうとくたいし)

 

 「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で仮の名としてこの名称を用いたのが最初である。「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記されており、前之園亮一は「ウマヤト」だったことは事実だろうとしている。『日本書紀』には「厩戸前にて出生した」という記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では「厩戸を出たところで生まれた」と記されている。

 

 文献上で「聖徳太子」という名称が登場したのは、平安時代に成立した『懐風藻』に見えるのが初出とされる。また、706年頃に作られたとされる「法起寺」の三重塔の「塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」とあり、これが「聖徳太子」の初出であると云われている。しかしながら「聖徳太子」という名はあくまでも死後に贈られた「諡号」(しごう)であり、存命中の名ではない。ではなぜ「聖徳太子」にはかくも多くの名前があったのだろうか?

 

 何度も言うが、これらは「記号」であり「暗号」なのである。すべては「聖徳太子」という人物像を後世に向けて作り上げるために用いられた暗号なのである。