世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎 その1

 

 「隠岐」に関しては本当に参考文献が少ない。神田神保町の古本屋街を回っても、本当に見つからない。普通なら古代の神社に関する資料や古代からの伝承などに関する書籍というものは、大なり小なり存在するものだが、「隠岐」に限ってはこれは当てはまらないのである。あるのは旅行ガイドブック程度のものばかり。ほとんど謎なんか書いてもいないのだ。

 

 実際、「隠岐」に関してを知っている人というのも非常に少ない。以前、海外向けの展示会で「隠岐の島町」が出展されていた時に知り合った方と、隠岐出身の「隠岐さん」くらいである。だが、こういう方々に隠岐の謎について尋ねても、僕の知りたい内容については「よく知らない」という返答をされてしまうのだ。知っていても「知らない」と言われてしまうのか、本当に知らないのかは分からないが。

 それにしてもなぜ、ここまで隠岐の情報がないのだろうと考えた結果、たどりついた結論はひとつ、隠岐は「封印」されてきたということだった。なにせ名前が「隠す」という島だ。そして日本列島自体が長い年月に渡って「封印」されてきたことを考えた時、この「封印」を解く鍵は「隠岐」にあると考えざるを得なかった。

 

 これまで「隠岐」に関する謎めいたことが書かれていたのは内田康夫の浅見光彦シリーズの「隠岐伝説殺人事件」くらいである。

 

 

 この推理小説は隠岐の「中ノ島」に伝わる後鳥羽上皇の謎がベースとなっている。上皇の祟りを恐れる老人が遺体で発見され、浅見光彦を隠岐の島に誘った佐多教授も変死を遂げる。源氏物語絵巻にまつわる悲しき死の真相に浅見光彦が挑む、というものなのだが、これは非常に面白かった。まさかそう展開するとは…さすが内田康夫と思ったが、この時に初めて「隠岐」には複数の天皇が流されたのだということや、日本の古代史に関わる様々な謎解きには「隠岐」を通らないとダメなのだと知ったくらいだった。

 

 さて、この隠岐の謎について、初めて正面から取り組んだのは、やはりいつもの飛鳥昭雄氏と三神たける氏のスーパーコンビで、「失われたユダヤの龍宮城『隠岐』の謎」として今年の2月に発売された。 いやはやこれまでは断片的だった「隠岐」に関する謎がハッキリと解けた気がした。さすがであると思ったと同時に、遂に「その時」が近づいたのだとしか思えなかった。

 

 

 だが、「隠岐」の謎というのは、この本1冊を読んだくらいで「理解出来た」なんて思ったら大間違いである。調べれば調べるほど、へんてこりんな祭りが行われているのだ。いろんなホームページに断片的に情報は掲載されてはいるものの、それらをまとめたようなWEBも存在しない。ひたすら追いかけるしかないのだ。

 もう日本史と神道最大の謎というくらい「隠岐」の謎というのは深いことを思い知った。本当にその謎を解明するには10年くらいかかりそうだが、そんな悠長なことは言っていられない。なにせ、日本に残された時間は少なくなってきてしまっているからだ。

 

 

◆「名前のない島」

 

 一般的に「隠岐」という島を知っている人は少ない。「隠岐諸島」は島根半島の北方、40〜80キロの日本海に浮かぶ諸島で、住民の住む4つの大きな島と、他の約180の小島からなる諸島である。円形で最も大きな島を「島後(どうご)」、西南方向の「西ノ島(にしのしま)」「中ノ島(なかのしま)」「知夫里島(ちぶりじま)」の3島を「島前(どうぜん)」と呼ぶ。総面積は346平方キロで、人口は約1万9千人である。昭和44年に、それまでの4郡1町11村が隠岐郡一郡となり、現在の町村数は、隠岐の島町、海士町、西ノ島町、知夫村の3町1村となっている。さらに隠岐は古くから「隠岐の国」と呼ばれているが、今に伝わる数々の史跡や伝統行事には、島の人すら意味を知らないで行われているものが多い。

 

隠岐諸島の地図

 

 日本には島や岩礁など、大小7000の島があり、国家安全保障上の観点から、小さな岩礁にいたるまで全てに名前が付いている。韓国による「竹島問題」や中国による「尖閣諸島問題」でも分かるように、韓国も中国も勝手に独自の名前をつけて、自国の領土だと主張するため、名前がないというのは国家安全保障上の問題にもなるのだ。特に「竹島」は島根県隠岐の島町に属するため、領土問題に大きく関わるのである。

 

「隠岐諸島」と「竹島」の位置関係

 

 

 しかしながら、日本に大小7000の島がある中で、たった一つだけ名前がつけられていなかった島がある。国土地理院の地図にさえ名前が掲載されてしなかったのが「隠岐諸島」の「島後」(どうご)である。隠岐は一般的に3つの島からなる「島前」(どうぜん)と「島後」(どうご)と称されていたが、実はそれは固有名詞ではなかったのだ。平成の市町村合併にともない、島後は改めて「隠岐の島町」と称することにしたが、島前から猛反発を食らってしまう。「島後」だけが隠岐ではないだろうというものだった。この件、 すったもんだあったが、「島後」は2004年に「隠岐の島」という名がつけられた。だが、なぜ「島後」には名前がなかったのか、それは呪詛をかけられないためだった。つまり「島後」は太古より封印された島だったのだ。

 

 日本建国のときから隠岐は封印されてきた。触ってはいけない、触れてはいけないように、長い年月をかけて呪術による仕掛けが施されてきた。遠い過去にはこの島には名があったかもしれないが消された。再び呪術がかけられないように名前を消されたが、2004年に島後が「隠岐の島」という名がつけられたという意味は、「封印を解く時が来た」ということである。

 

 

 

◆「隠岐」と「御木」と「オノコロ島」

 

 日本最古の歴史書「古事記」の冒頭にある”国生み神話”によると、イザナギとイザナミが、淡路島、四国に次いで3番目に生んだ島といわれているのが「隠伎之三子島(オキノミツゴノシマ)」で、現在の隠岐諸島と言われている。隠伎之三子島は、隠岐諸島の最大の「島後」(どうご)を「親島」、「島前」(どうぜん)の知夫里島・西ノ島・中ノ島を「子島」とし、”親島に率いられた三つの子島という意味”だといわれている。

 隠岐の古伝では「隠岐」を名付けたのは「天照大神」だという。西ノ島の「三度の山」(みたべ)に降り立った天照大神が、大木を見つけ「ここを御木と名付けよう」と言ったという。古事記の国生みでは三番目の隠岐を「隠伎之三子島」と呼んでおり、島前に「焼火山」(たくひさん)という火山があり、それを囲む外輪山として島前の3つの島があるが、古事記には島後のことは何も書かれていない。

 

島前と外輪山

 

 オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島で、イザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島とされる。淡路島の前に作られた島のことだ。「古事記」では「淤能碁呂島」(おのごろじま)とされ、「日本書紀」では「磤馭慮島」(おのころじま)である。

 だが、このオノゴロ島は国生みを終えた後に、どこかに消えてしまったのであるが、アイヌの伝承では古来より隠岐を「オノコロ島」と伝えている。

 

 我こそはオノゴロ島だと主張しているのは、「淡路島」である。兵庫県南あわじ市に「おのころ島神社」という社があるのだが、ここでは日本の島々を作ったとされる二柱の神様、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)の男女二神が祀られている。

 


「おのころ島神社」の大鳥居

 

 「おのころ島神社」には真っ赤な大鳥居が鎮座している。高さ21.7mで、京都の平安神宮、広島の厳島神社の鳥居と並ぶ、日本三大鳥居の一つに数えられているものだ。

 

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)の二神は、天上にある「天の浮橋」にお立ちになり、「天の沼矛」で海原をかき回すと、その矛より滴る潮がおのずと凝り固まって島となった。「自ら凝り固まった島」ということで、この島が「自凝島」(おのころじま)とされており、その「自凝島」が淡路島だというのだ。

 

 

 「おのころ島神社」の絵馬の絵は、この神社のことを物語っている。二神は、この島に降りて淡路島を生み、四国を生み、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州と、次々に日本の国土を生みだした、というのだ。この「おのころ島神社」は小高い丘の頂上に鎮座しているが、この丘は国生みの舞台となった「おのころ島」であると伝えられている。

 

「おのころ島神社」絵馬

 

 「淡路島」が「おのころ島」で、日本発祥の地なのかといえば、そうではない。「日本」の発祥の地は「隠岐」である。それはすなわち、日本文化の根底に流れる「神道」、その後ろある「陰陽道」、その全ての発祥が「隠岐」だということなのである。果たして隠岐には、そんな伝承があるのだろうか?

 

<つづく>