裏神道「陰陽道」その25

 

◆「伊勢神宮」と「賀茂神社」の本宮

 

 表の神道における最高権威は「伊勢神宮」である。だが、本当に力を持つのは賀茂神社で、中でも「下鴨神社」は神道における最高権力を持つ神社である。なぜなら天皇の「大嘗祭」を主催するのは下鴨神社だからである。神社庁や皇室が主催しているのではないのだ。平安京において上賀茂神社は御所の外陣を守り、下鴨神社が内陣を守った。だが、賀茂神社は上賀茂神社、下鴨神社、河合神社の3社で成り、本当の賀茂神社とは「河合神社」である。「河合神社」こそが賀茂神社の本宮なのである。

 

 この3宮並び立つ構造は「伊勢神宮」も同じである。伊勢は125の社の総称として「伊勢神宮」と呼ばれているが、本当の呼び方は「神宮」である。全国の神宮の頂点に立つ神宮なのである。普通、伊勢神宮といえば「内宮」が最高権威で、伊勢に参拝する方のほとんどは「内宮」と「外宮」でお参りする。だが、伊勢神宮の本宮は「内宮」ではない。磯部にある「伊雑宮」(いぞうぐう・いざわのみや)である。

 

 

「伊雑宮」

 

 「内宮、外宮、伊雑宮」の3宮で並び立つ構造で、表が伊勢神宮、裏が賀茂神社で「陰と陽」を成しているのである。陰が賀茂神社で陽が伊勢神宮である。訪れた方はご承知だろうが、内宮の別宮となっているが「伊雑宮」は小さい。周囲は田んぼである。なんでこんなに小さな神社が内宮と外宮と並ぶ神社なのかと思われれるかもしれないが、なぜなら「伊雑宮」こそが伊勢本宮だからである。

 

 「伊雑宮」は昔から事件を起こしてきた神社であるのだが、そのひとつが『先代旧事本紀大成経』(せんだいくじほんぎたいせいきょう)の事件である。

 

 

先代旧事本紀大成経

 

 延宝7年(1679年)、江戸で発見された『先代旧事本紀大成経』には、「伊雑宮こそが日神(天照大神)を祀る社であり、内宮は星神、外宮は月神をそれぞれ祀る」と書かれていたのである。この内容は伊雑宮の神官が主張していた説であったのだが、伊勢神宮より幕府へ訴えがあり、この本は”偽書”であるとされて発禁処分となる。そしてこの書を書店に持ち込んだとされる伊雑宮の祠官・「永野采女」、黄檗宗の高僧「潮音道海」、作成を依頼した伊雑宮の神官たちが罰せられた。しかしこの書物はその後も読み継がれ、垂加神道にも影響を与えている。つまり「伊雑宮こそが伊勢本宮だ」と言って処罰されたのである。

 

 この『先代旧事本紀大成経』事件に先立つ20年前に、もうひとつの『伊雑宮事件』が起きていた。伊雑宮の神官たちは所領の回復のため、明暦四年(1658)に「伊雑宮こそが日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座したので、内宮、外宮は伊雑宮の分家である」という「伊勢三宮説」を主張し、幕府に再建願いを出した。
 これを受け、十ある別宮のひとつである伊雑宮のことなど歯牙にもかけていなかった伊勢内宮としても、「天照大神」が鎮座する社の地位を奪われかねない事態の発生を看過してはいられなくなり、万治元年(1658)、内宮はその上申書に添えられた証拠の神書を”偽作”として訴える。

 

 結局は朝廷によって「伊雑宮は内宮の別宮」、その祭神は「伊射波登美命」(いざわとみのみこと)と裁定される。結果として、寛文二年(1662)、幕府は伊雑宮を内宮別宮の一つとして再建することにしたが、伊雑宮の神官たちにとってそれは承伏できないことであった。四代将軍「家綱」に直訴し、寛文三年(1663)に神官四十七人が偽書提出により、伊勢・志摩からの追放処分の憂き目にあったという。

 

 さて、『先代旧事本紀大成経』であるが、天地開闢から推古天皇の治世までが書かれたこの書物は、全部で七十二巻本という大作なのである。この大成経の内容が公開されたことで、当時の江戸で大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。実はこの『先代旧事本紀大成経』なる書物を編纂させたのは「聖徳太子」である。序文に聖徳太子と蘇我馬子が著したと書かれている。

 

 長らく「偽書」の扱いを受けてきた書物なのだが、これは何を隠そう偽書ではない。「古事記」「日本書紀」とならんで日本の歴史を記した3つの書物であり「預言書」なのである。伊勢も3宮、賀茂神社も3宮、そして日本の歴史書も3種で並び立つ構造なのだ。だが、「伊雑宮」「河合神社」「先代旧事本紀大成経」は封印されてきたのである。なぜなら「伊雑宮」も「河合神社」も「物部氏」の社であり、「先代旧事本紀大成経」を世に出した「伊雑宮」の神官も「物部氏」だったからである!

 

 

「伊雑宮」の創建と祭神

 

 伊勢「内宮」には「天照大御神」が祀られ、「外宮」には「豊受大神」が祀られている。「伊雑宮こそが伊勢本宮だ」と言って処罰された伊雑宮に祀らているのは「天照大神御魂」である。天照大神の「魂」が祀られているのだ。804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』で「天照大神御魂」とされており、明治以降、伊雑宮の祭神は「天照大神御魂一柱」とされる。普通、祭神は「魂」ということはなく、「☓☓神」とか「○○尊」が祀らてるものだが、ここはあくまでも「魂」なのである。

 鎌倉時代に成立したとみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した「倭姫命」(やまとひめのみこと)が、神宮への神饌を奉納する「御贄地」(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、「伊佐波登美命」(いさわとみのみこと)が出迎えたこの地を「御贄地」に選定、「伊雑宮」を建立したとされる。

 

 伊勢神宮ではこの説を採るのだが、一般には『倭姫命世記』が史書とされないこと、また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきとされている。つまり、いつ建てられた宮なのかは分からないのである。但し、804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』には、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるため、それ以前から存在したことだけはわかるのだ。

 

 
倭姫命

 

  では、「伊雑宮」はいつ創建されたのか。それは伊勢内宮が建立される前である。なぜなら、ここは「物部氏」の神社があったのである。「倭姫命」を出迎えた「伊佐波登美命」は物部氏だったのである。このことを伝える書籍がある。吉田大洋氏が1980年に出した『謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り』である。

 

◆古代出雲王家の末裔の怒り


 この『謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り』には、古代の出雲王家の末裔の「富當雄」(とみまさお)という方がインタビューに答え、四千年の歴史を脳裏にきざんだオオクニヌシ直系の語り部として「出雲王朝」と古代大和王朝成立の裏側の話をされている。

 

 

 

 富當雄氏は元産経新聞の編集局次長だった方で、正式の名称は「富上官出雲臣財當雄」(とみらのじょうがんたからのまさお)という。これは出雲王族を”財筋”と称したからだが、ポイントは「トミ氏」であることだ。このインタビューで富當雄氏が語っている内容で衝撃的だったのは、神武天皇と戦った大和の豪族「長髄彦」(ナガスネヒコ)の正式名は「登美能那賀須泥毘古」(トミノナガスネヒコ)、「登美毘古」(トミビコ)とも呼ばれていたという点だ。「トミ氏」なのだ。

 

 また「諏訪大社」の神「建御名方」(タケミナカタ)の正式名は「タケミナカタトミの命」で、「伊雑宮」で「倭姫命」を出迎えた「伊佐波登美命」も「イサワトミノ命」で、みな出雲神族の「トミ氏」だったというのだ。もちろんみな「物部氏」である。

 まぁ富當雄氏によれば、出雲王家の神宝を奪ったのが「物部氏」で「八咫烏」も最強の敵だったというが、この点は「物部氏」が日本に上陸した前の話にも関わるため、改めて書いてみたい。

 

 富當雄氏が語る出雲神族の話も封印されてきたものだ。そして「伊雑宮」も「河合神社」も封印されてきた神社である。前の連載の「雛祭りと終末預言」でも物部氏のことを書いたが、物部氏はずっと封印されてきた一族である。だが、2013年の伊勢神宮と出雲大社の同時遷宮、そして高円宮の娘さんと出雲大社の千家氏がご成婚されたことで、その封印が解かれ始めたのである。「秦氏」と「物部氏」が一つになり、「鶴と亀」が統べった」からである。

 

 

<つづく>