ロシアのウクライナ侵攻と第三次世界大戦:その24

 
  1998年8月21日。それは「終わりの始まり」を表す時であった。
 
 「1999年7の月 
  恐怖の大王が空から降ってくるだろう
  アンゴルモアの大王を蘇らせるために
  その前後の期間、火星は幸福の名の下に支配するだろう」
  (『諸世紀』第10章72番)
 
 世界を震え上がらせたかの有名なノストラダムスの「1999年7の月」から始まる預言詩である。この詩が日本で注目されたのは、もちろん五島勉氏の大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』シリーズがあったからで、1973年(昭和48年)に最初の『ノストラダムスの大予言』が発売されたとき、小学生だった僕も震え上がった。だが、同級生でこんな終末本を読んでいたのは友人の一人だけで、この友人とはその後も『ノストラダムスの大予言』シリーズが発売になる度に恐れおののいたものだ。この本が発売された頃は、オイルショック、「水俣病」や「イタイイタイ病」「川崎喘息」などの様々な公害問題が顕在化していて未来は決して明るいものではないという社会不安が大きかったため、そうしたことを背景に250万部の大ベストセラーとなり、映画化もされた。
 
   
 
 これを紹介した五島勉氏は、その後メディアやオカルト好きな人にさえ袋叩きにあった。「1999年7の月が過ぎても世界は終わらなかったじゃないか」ということなのだが、そもそもノストラダムスは「世界が終わる」などとはひと言も書いていないにも関わらず、「恐怖の大王=世界の終わり」と勝手に考えた人たちが五島氏を非難し続けた。世の中のほとんどの人は、ノストラダムスというとこの四行詩しか知らないかったのと、ことさらメディアで「1999年7月に世界が終わる」と煽ったことが原因だった。
 
 相手は大預言者ノストラダムスである。ヨーロッパで「黒死病」といわれた「ペスト」が大流行した際、医者であったノストラダムスは、フランスの各地に村に赴き、殺菌、消毒、死体やペスト菌が付着した衣服などを焼却するように村人たちに指示、科学的な対処をさせることで「ペスト」の拡散を抑え込んだ。これによってフランスでは「奇跡の医者」とも呼ばれたが、これを訝しがったのが「キリスト教会」の指導者たちだった。
 中世ヨーロッパは教会が中心になって「魔女狩り」という非科学的なことをやっていたくらいだから、ノストラダムスを「魔術師」として葬ろうとする教会関係者も多かった。このことはノストラダムスの預言を「怪しいもの」と排除しようとしたメディアやそれを信じた人々の行動と同じなのである。「言葉狩り」という「魔女狩り」を日本でもやっていたに等しいのだが、それすらノストラダムスは理解していた節がある。
 
◆預言の成就は1998年から始まった
 
 この四行詩をよく読む「その前後の期間」と書いてある。「1999年7の月」の前後の期間に、「火星」が「幸福」の名の下に支配するという。ノストラダムスの時代は旧暦なので、「1999年7の月」は新暦だと8月になる。「火星」の部分は翻訳によってはそのまま「マルス」と書いてあるものもあるが、「火星」とは「軍神」を象徴する星である。つまり「幸福をもたらすという名の下に軍備が支配する」ということになるのだが、それに関連した出来事として何が起きたのかを思い出さないといけない。
 
 1998年8月21日、アメリカはアフガニスタンとスーダンへの「宣戦布告」なき巡航ミサイル攻撃を行っている。相手国に一切警告なし、無警告で「戦争」に突入したのである。背景には、当時アメリカ大統領だったビル・クリントンが、インターンだったモニカ・ルインスキーと大統領執務室で性行為に及んでいたということがメディアですっぱ抜かれ、窮地に陥っていた。その問題をうやむらにするためにも戦争を始めるのが手っ取り早いこともあったが、トマホークミサイルを宣戦布告なしに200発も打ち込んだこの時、アメリカは世界に向かってなんと言ったか。
 
 「アメリカはアフガニスタンとスーダンという国に向けてミサイルを発射したのではない。アルカイダというテロリストを排除するために、アルカイダに向けて撃ち込んだのだ。だから事前通告する必要はなかった」
 
  
 
 世界の的である「テロリスト」を排除するための「対テロ戦争」であり、世界に「平和」をもたらすための戦争なら、事前通告なしで個人に向けてミサイルを発射しても構わない、というロジックなのである。これ以降、アメリカは「対テロ戦争」を「聖戦」のごとく大義名分に掲げて次々に戦争を仕掛けることになった。それが始まったのが1998年8月21日である。ここから世界を欺くインチキな大芝居が始まったのだ。
 
 アメリカ軍は「聖戦」としてイスラム教徒を排除しようとし、片やイスラム教徒も「ジハード=聖戦」の名のもとにテロ活動を活発化させるが、イスラム教指導者がよく使う「ジハード=聖戦」という言葉は、実はアメリカが考え出したものなのだ。ソ連がアフガニスタンに介入した第1次アフガン戦争の時、「自爆テロで死んだ戦士は、天国で白い花嫁をもらえる」といったような「聖戦」という概念を学校で教えさせたのはアメリカである。つまり「タリバン」というのはアメリカが創り出したものなのである。
 
 
◆ビル・クリントンの「ロックフェラー隠し子」説

 1998年8月21日、ビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンへの「宣戦布告」なき巡航ミサイル攻撃を命じた。大統領執務室での卑猥な出来事で弾劾裁判にかけられそうだったのも大きな理由だが、「宣戦布告」なしに個人を「対テロ戦争」の名のもとに攻撃しても構わないとする「新しい形の戦争」を始めるのが目的だった。最初はビル・クリントンごときにそんな大それたことができるのか?と思ったが、ビル・クリントンの後ろにいたのが「ロックフェラー」だったとすると話は変わる。
 
 アメリカでは「ビル・クリントンはロックフェラー隠し子だ」という説を唱える人が以外と多い。ビル・クリントンが生まれる3ヶ月前にビルの母親の旦那は亡くなっている。母子家庭である経済力がないのにオックスフォード大学に留学し、アーカンソー州知事にもなり、大統領に登り詰めたそのキャリアを訝しがる研究者も多い。つまりビル・クリントンのバックには絶大な影響力のある人物がいた可能性が高いということなのだ。そこで登場したのがアーカンソー州知事だった「ウィンスロップ・ロックフェラー」のがビルの父親ではないかという説である。つまり、生まれた時からすでに「ロックフェラー家の影のメンバー」だったというのだ。
 

 ビル・クリントンは1978年、アーカンソー州知事選挙の民主党予備選に勝利し、その後の新人同士の本選挙でも当選してアーカンソー州知事となった。32歳の若さでである。次の任期ではいったん落選するものの、その次の1982年の知事選でカムバックを果たし、以後1984年、1986年、1990年と連続当選を果たしている。

 この、代々アーカンソー州知事という、全米的にも無名なビル・クリントンが、いきなり民主党の大統領候補に抜擢され、1992年の大統領選挙で当選、翌1993年に46歳にしてアメリカ合衆国大統領に就任した。2001年1月に共和党のブッシュ・ジュニアに交代するまで、ずっとホワイトハウスの主であり続けたのだ。

 
  
  ネルソン・ロックフェラーとビル・クリントン
 
 ベンジャミン・フルフォード氏の情報では、アーカンソー州では「ビルはウィンスロップの息子」というのは公然の秘密だと言われていたらしいが、確証はない。英語圏では大量の情報が出てくるのだが、実父として、ウィンスロップ、ネルソン、ローレンスの三人の名前が上がっている。すべて”皇帝”デビッド・ロックフェラーの実兄である。ちなみに写真はウィンスロップではなく、ネルソン・ロックフェラーである。似てる。目、鼻、口元、そっくりである。

 ロックフェラー2世の四男のウィンスロップは共和党員で、1967~1971年までアーカンソー州知事を務めた人物だ。ビル・クリントンが彼の息子だとしたら、父親の地盤を引き継いだとしてもおかしくはない。だが、顔は全然似ていない。

 

  

  ウィンスロップ・ロックフェラー

 

 ネルソン・ロックフェラーは共和党の実力者だった人物で、ニューヨーク州知事を務め、リチャード・ニクソンと大統領候補を争ったりもした。ウォーターゲート事件でニクソンが1974年に失脚すると、ジェラルド・フォード副大統領が大統領に昇格し、ネルソンは副大統領に指名された。このネルソンがニューヨーク州知事時代の1968年、学生のヒラリーと出会っている。ヒラリーはインターンとして州知事のネルソンの下で働いていたのだが、その翌年、ビル・クリントンと“偶然に”出会ったということだ。この「偶然」というのをどこまで信じていいのかは分からない。だが、そのヒラリーが国務長官の時に起きたのが「アラブの春」だったり「IS(イスラム国)」だったりすることを考えれば、全て辻褄があってくる。世にいう「陰謀論」、つまり「権力者共同謀議」である。