J-POP数珠つなぎ その12


「LIVE 後楽園スタジアム」矢沢永吉




矢沢バンドだったNobodyから本家へ。


1978年にリリースされた矢沢永吉の3枚目のライブ・アルバムで、これはリマスタリングされたCD盤。

元々はLP3枚組のアナログ盤で、そちらは当時僕の妹が買ったのだが、ライブの冒頭部分のベースの音が機材トラブルで録音できなく後録りしたと矢沢永吉が伝えているチラシが差し込まれていた。


ライブ盤では演奏ミスや歌がおかしい部分などは盤にする際に差し替えられたり追加されるというのは今や当たり前だが、別にそうしたことは書かれないもの。その辺を正直に言っていたというのは偉い!




午前中から永ちゃんのライブ盤を聴くのは初めてだが(笑)、改めて思うのは矢沢永吉という人は日本のロック、音楽業界、コンサート業界において常に「雛形」であったということだ。


まぁ日本語ロックの雛形だというと怒られる方々もいらっしゃるとは思うが(笑)、徹底したライヴへのこだわり、ステージングはもちろんのことだが、制作や興行面でもプロモーターに頼らずにコンサートを開催するなど、敵を作りつつも常に独自性を発揮してきた人だ。


ホーンセクションやストリングスを使ったり、The Doobie Brothersのメンバーをはじめとする海外ミュージシャンを参加させたり、“E.YAZAWAタオル”を筆頭としたグッズ販売のことも重要だ。今や日本のロック・ポップのコンサートでは当たり前となっていることは、かなりの部分が矢沢永吉が始めたことだと思う。


このアルバムの前年の1977年に『スーパーライブ 日本武道館』というライブアルバムを発売しているが、日本人ロックアーティストとして初の日本武道館単独公演を行ったのも矢沢永吉だ。

Deep Purpleの札幌のライブでの死傷事件がきっかで、ロックアーティストにはコンサート会場は貸さないという風潮があったこの頃、特に「矢沢永吉は危険」とされ全国の会場から貸出拒否を受けていた時だし、1970年代後半に国内アーティストが、それもロックアーティストがおいそれとライブをすることができなかった日本武道館でライブを行ったという事実がその凄さを物語っている。




過去にお付き合いしたアーティストで「夢は武道館ライブ」という方々が何組かいたが、武道館でのライブを最終到達点とすることなく、さらにその何倍ものキャパシティーを誇る後楽園球場でのコンサートを翌年に実現させたのもロックでは矢沢永吉が最初だ。


いまや超人気のあるアーティストがスタジアムでライブをやるというのは当たり前のことだが、1978年に後楽園球場で単独ライブをやったアーティストは矢沢永吉、西城秀樹、ピンクレディーの3組だけ。キャンディーズもやったが、これは解散ライブなので除外。と考えると、70歳を超えた矢沢永吉が未だにスタジアムライブを満員にしているというのがいかに凄いことかが分かる。


このライヴハウス→ホール→武道館→スタジアムという、日本のロックアーティストが成長する過程でライヴ会場をステップアップさせるという公式も、元祖は矢沢永吉だと思う。

今もほとんどのアーティスト、バンドがセールス規模の拡大とともにライヴ会場の規模も大きくして行くが、特に武道館でライブをやるという矢沢永吉スタイルがずっと続いていると思う。その意味で日本のロックアーティストの活動スタイルは矢沢永吉が創り上げたと言っても過言ではない。




こうして振り返ると矢沢永吉がライブでやったことはそのまま日本の業界の雛形となってしまうということだ。但し、矢沢永吉ほどライブ・アルバムをリリースすることだけは誰も真似しない(笑)。いや、マネできないのかもしれない。


なにせこの後楽園ライブのアルバムの前年が武道館ライブのアルバムで、その前の1976年には日比谷野音のライブ・アルバムをリリースしている。3年連続ライブ・アルバムを出したアーティストはこの人だけだ。これまでに何枚のライブ・アルバムを出したのかもはや分からないが(笑)、きっとこの先もライブ・アルバムを出し続けるのだろうと思う。