「まずは、自分が何をしたいのかだよね。そしてその目的に、自分をぶっ込んでくこと。ぶっ込めないヤツもいるけど、そういうヤツに明日はないよ。30代は転がり続けることさ。そして40代も後半になって、やっと見えてくるものがある」 

矢沢永吉

 

有名な話だが、矢沢永吉は30代の絶頂期に信頼するスタッフに騙され、30億円もの借金を抱えることになった。

普通の人ならそこで終わるのだが、この人は「負」をパワーに変えて、見事に借金を返済し、その後も第一線で活躍を続けている。「見事」というほかない。

 

中高校生の時には矢沢永吉の曲は聞かなかった。

周りにいた友達連中が頭にポマード塗りたくってリーゼントでキメて、ツッパリを気取る野郎どもがみんな「永ちゃん」のファンで、どいつもこいつも「君はFunky Monkey Baby !!」と歌ったり、キャロルのカバーをバンドでやっていて、どうも好きになれなかったからだ(笑)。

自分がひねくれものだったから、かもしれないが、当時の矢沢永吉のライブ会場には暴走族が5,000台くらいバイクで来ていて、おっかなくて近づけなかったこともある(笑)。

 

今から30年以上前、矢沢永吉は日本に嫌気がさしてLAに住んでいたのだが、僕は高校卒業後にLAから2時間くらいLAから海沿いを上がったサンタバーバラという町に留学していた。その時に矢沢永吉に一度会ったことがある。

 

バイトをしていたレストランに矢沢永吉がご飯を食べにきたのだ!

後に矢沢永吉のバックを手掛けることになるドゥービーブラザーズのメンバーであるキーボードのマイケル・マクドナルドが住んでいて、のマイケルがこの店の常連だったこともあった関係で、当時行われていた矢沢永吉のLA録音のアルバムに参加していたマイケルたちが連れてきたのだった。

 

当時はさしてファンでもなかったので感動はしなかったが、その佇まいや雰囲気から溢れるオーラには圧倒された記憶がある。

だが、本日の言葉が書かれているインタビューを読むと、LAに移り住んだ理由には、この借金も含めてやってらんねえよ、日本出ようよ」と思ったからだそうだ。

だから、矢沢永吉を騙して30億円も借金させたひでえスタッフがいなかったら、矢沢永吉には会えなかったのだ(笑)。

 

それから15年後の1990年、代官山のレストランで再び矢沢永吉に遭遇した。

一緒にしたのはドゥービーブラザーズの面々で、サンタバーバラの時と一緒だったので、とても感動したことを今でも覚えている。

だが、この時はもっと驚いたのが、トイレに入ったらローリングストーンズのミック・ジャガーが隣で用を足していたのだ(爆)。ストーンズが初来日にした時のことだ。だから記憶にしっかりと刻まれている。

 

矢沢永吉という人は、ビートルズになりたくて、広島から夜汽車に乗って東京にやってきた。

ご本人は芸能人になりたかった訳じゃない。ビートルズになりたかったんだ」と語っているが、日本のロックンロールの礎となったバンドのひとつとなったキャロルを経て、ソロとして突っ走った。

そして、30億もの借金を抱えながらも、30代、40代と矢沢永吉はぶっ込み続けたのだ。

だからこそ、60歳を超えても日産スタジアムを満員にすることができるパワーを維持しているのだと思う。

 

自分はもう40代ではないが、大器晩成型らしいので、50代、60代とぶっ込み続けようと思っている。

矢沢永吉にとっても人生最大の危機が訪れたのは30代、僕は50代で訪れた。だから20年の開きがあるので、「ぶっ込むのはこれからだ!」と勝手に思っている(笑)。

問題は、矢沢永吉には借金返せるほどバカ売れした「E.Yazawa」のタオルがあるが、僕にはまだ「T.Goto」のタオルがないことだ。

 

さぁ、明日も孤軍奮闘して、バカ売れするタオルの企画を考えるとしよう!