こんにちは。
今回は聖書と日本との関係について、私なりに書いてみようと思います。
これまで聖書をまだ読まれたことがない方や、読んだことがある方でも、ミカエル氏のブログ真の聖書福音と預言 とを併読されていない方は、聖書と日本とが関係しているなんて微塵も思われてないのではないでしょうか。確かに聖書の中には、「アジア」という単語は出てきても「日本」や「日本人」という単語は一度も出てこないので、そのように思われても仕方がないのかもしれません。ですが聖書に出てくる古代イスラエル人の文化、当時の言語であるヘブライ語と日本語との共通点など、偶然という言葉では説明がつかないものが多くあります。ではなぜ中東にあるイスラエルと距離にして九千キロ程も離れている日本との間に共通点が存在しているのか、聖書を見てみます。
旧約聖書 イザヤ書二十四章十四〜十六節 (新共同訳)
彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い、海から叫び声をあげる。それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。
旧約聖書 イザヤ書 四十二章十節 (新共同訳)
新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。
この当時(紀元前八世紀頃)預言者であるイザヤが生きていた時代は、アッシリア帝国が勢力を増し、北イスラエル王国が攻められ、イスラエル十二部族のうちの十部族が離散させられている状況でした。(列王記下 十七章)この離散した十部族が東の地であり、海の島々であり、地の果てである日本へとイザヤの預言の通り辿り着いたのです。日本列島までの長い道のりの中でチベットやブータン、支那にも古代イスラエル人の痕跡が残っていますが、そこで栄え続けることは神のご意思ではなく繁栄することはありませんでした。そして当然、古代イスラエル人の移住と共にこの日本には文化や言語が形を変えつつも受け継がれています。今となっては大東亜戦争後のGHQの統治により、日本国民のほぼ全員が洋服を当たり前のように着ていますが、戦前までは和服こそが日本国民の普段着として着られていました。この和服が古代イスラエル人たちの服装と似ています。画像をご覧下さい。
旧約聖書 民数記 十五章三十八節 (新共同訳)
イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。
旧約聖書 申命記 二十二章十二節 (新共同訳)
身にまとう衣服の四隅には房を付けねばならない。
このように房を付けることが律法によって決まっており、当時の古代イスラエル人たちも律法に従い房の付いた衣服を身に着けていたのです。この房は神である主の命令を忘れることなく、房を見るたびに思い出す為に付けていました(民数記十五章 三十九節)。そしてこの房付きの衣服を、律法を守られていた主イエスも当然身に着けておられました。
新約聖書 マタイによる福音書 九章二十節(マルコ五:二十七・ルカ八:四十四)
すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
ここで注目して頂きたいのが、女が房に触れたという箇所です。この時、主イエスの周りには群衆が押し迫っているとても混雑した状況(マルコ五章 三十一節)であり、そんな中、病に侵された女が主イエスの房に触れるのは容易ではありません。もし主イエスが洋服のように袖が垂れてない服を身に着けておられたとするならば群衆の中、女が房に触れることはできなかったと思われます。この事からも古代イスラエル人たちが、上図のような長い袖のある和服のような服を身に着けていたことが想像して頂けたかと思います。また、裾をからげて(列王紀上十八章 四十六節)とあり、着物のように裾が長かったことも分かります。
次に建造物です。出エジプト記にて主より造るようにと命じられた幕屋です。幕屋とは主が古代イスラエルの民のなかに住まわれる聖なる所であり、今でいうところの神社です。この幕屋と神社、造りや東西南北の位置関係など、よく似ていると思われませんか。
(画像引用元:日本とユダヤのハーモニー )
中東のイスラエルより日本列島に渡ってきた民たちは、建築方法や技術を引き継ぎ、ここ日本でも神のための聖なる所を造っていたのです。また神社には神輿が保管されていることが多いと思います。それと同じように、幕屋には至聖所の中に契約の箱が置かれています。この契約の箱と神輿もとてもよく似ています。
(画像引用元:新名忠臣のホームページ )
私はこの契約の箱のケルビムを初めて見た時、子どもの頃にお祭りで担いでいた神輿の屋根にいた鳥にそっくりやなと思いました。特に羽根の特徴的な広げ具合です。身体を覆うように羽根を広げており、聖書にも記載があります(出エジプト記二十五章 二十節・三十七章 九節)。幕屋と神社の造りと法則性、そしてそれぞれの中に保管されている契約の箱と神輿。中東のイスラエルから遠く離れた、ここ日本に古代イスラエル人の足跡が残されています。しかしここで気をつけて頂きたいのが、明治以降に建築された神社はこの造りに則ってはいない所が多く、そしてなにより神社には偶像崇拝が多くみられ、キリスト者である者が進んで行くべきではありません。今ある神社は世俗にみちたものとなり、そこに聖書を感じられることは少ないです。人々も何らかの利益を求めて来る人が多く、賽銭箱への投資が幸せに変わると思っている人がほとんどではないでしょうか。実際のところ、賽銭箱への投げ銭に喜ぶのはその神社の神主だけです。現在の神社の在り方ではなく、幕屋と神社の共通点や歴史、古代イスラエル人の意志に思いを馳せて頂きたいと思います。
次に言語をみていきます。古代イスラエル人はヘブライ人と表現されることもあり、言語はヘブライ語を常用していました。ヘブライ語は西暦二百年頃に一旦滅亡し、現在のイスラエルで話されているヘブライ語は二十世紀に復活をしたもので、当時の古代ヘブライ語とは多少の差異があるようです。旧約聖書の原典は、ほとんどがこのヘブライ語で記されています。さて日本語には普段なにげなく話しているものでも、よくよく考えてみると意味がよく分からない単語や表現があることにお気づきでしょうか。例えば「ワッショイ」です。先ほどの神輿を担ぐ時に囃し立てるように言います(契約の箱と同じ役割りをもつ神輿を本来は手荒に扱うべきではありませんが)。他にも「ヤッホー」、「ヨイショ」、「ジャンケンポン」など。どれも口にしたことがあるものやと思います。それぞれのヘブライ語での意味は
ワッショイ:神が来た
ヤッホー:神様
ヨイショ:神が助けてくださる
ジャン:隠して
ケン:準備
ポン:来い
となっております。特に考えることなく口にしているこの言葉も、実はヘブライ語にすると意味のあるものとなり、また使用時期に沿ったものであるとも思えます。日本列島に渡ってきた古代イスラエル人が生活している中で口にしていた言葉が、長い年月や他の民族の言語に揉まれながらも現在の日本に残っているのは嬉しく思います。この他にも発音と意味が類似する言葉が数多く見受けられます。