LGBTでよかったと思うこと③ | 約束の虹ミニストリーのブログ

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教会でありのままのセクシャリティが出せなくてつらいクリスチャンや、教会に行ってみたい・聖書を読んでみたいけど、キリスト教って同性愛禁止なの?・・・ そんなだれかに届けたい、誰に対しても変わらない神様の愛。

前回のLGBTでよかったと思うこと②から随分あいてしまいました。

よかったと思うことの三つ目は、
「人との向き合い方を考えるきっかけになった」
ということです。

もちろん、LGBTじゃなくたって、
皆いろんな出来事を通してそういうことを考えるようになると思いますが、
僕の場合、性別違和が出てこなかったら、
今よりずっと他人の痛みに鈍感だったと思います。

また、自分の性別に関する悩みに精一杯で、
一見ふつうそう・問題なさそうに振舞っている人に対しては
その人が影で抱えているものまで察知してあげることができず
傷つけてしまった・・・という失敗もたくさんありますが、
それでも、違和に悩みだす前の自分と比較すると、
やっぱり悩んでいる今の方が、
他の人の悩みに寄り添えるようになりたいという気持ちは
圧倒的に強くなったと思います。

基本的気質としては楽天的なので、
性別のことで葛藤していなかったらなおさら、
世の中の「困っている人たち」の「困り方」に
共感できなかったはず。

事実、まだ自身の性別違和がそこまで強くなかった頃、
同い年でもっと性別違和の強かった友達が
手術したいほどの性別違和を訴えていたとき、
理解を示すどころか、その思いを否定して、
「いくらなんでも手術はだめだよ・・・!!」と、
食い止めようとしてしまっていました。

後に自分も体に対する違和感・嫌悪感がもっと強まり、
しかし親に体をいじるのを絶対反対されて、
「ああ、あの子もこんな気持ちだったんだ・・・」とわかりました。
そして、わかっている方からすれば「そんなの当たり前でしょう」と
言われてしまうようなことかもしれませんが、
人は自分とは違う存在であり、どう感じるかも違うのだから、
相手のあるがままを受け止め、認めていかなくてはいけないんだな、と、
恥ずかしながら僕はやっと気付かされたのです。

相変わらず、自分と違う人を理解するのはとても難しいし、
仲良くなったと思っていたのはこちらだけで、
実はずっと嫌な思いをさせてしまっていたことを
何年も経ってから知らされたりすると、まだまだだなぁと落ち込みます。

でも、セクシャリティのことで嫌な思いをするたびに、
「この感じを覚えていよう。僕はこの経験があるから、
少なくとも似た思いをした人のつらさを一部でも共有することができる。
感謝なことだなあ。」と考えられるようになったし、
「自分もセクシャリティ以外のことでは、
こうやって人を決め付けたり否定してしまっていないだろうか」
と振り返る習慣を少しずつ付けていけていると思います。

特に、小さい頃から教会に通い、わりと厳しく育てられたのもあり、
そのせいにしてはいけませんが、「こうすべき」という規範意識が強く、
人それぞれの事情よりも理屈とかの方が優先すべきだと考えていたので、
自分の性別違和がはっきりしてきてからも、
聖書の中に出てくる“同性愛断罪の根拠とされる箇所”を引き合いに
「やっぱり体の性別や社会的性別を変えるのは良くない」とか
「同性と性行為をするのはいけないこと」という
教会の一般的解釈との間に葛藤が長く続きました。

でも、「先入観を捨て、目の前の人とじっくり向き合うこと」は、
まさにイエス様が一番大切とされた「神を愛し、隣人を愛する」
ことの基本だったんです。
それは、表面的に、聖書の文章を文字通り実行する以上の大切な教え。

それを理解していなかった僕のため、
神様はLGBTであることを用いてくださったと思います。