空海の風景(司馬遼太郎著) | 本のブログ

本のブログ

普通の人は読まないだろうと思う本を記す。
あとは、Linuxと中古PCなどの話題。

本書のオリジナルは1975年中央公論社より刊行された、私は1978年初版、1994年改版の中公文庫版で読む。

 

仏教思想については、比較的様々な本を読んできたつもりだったのだが、お恥ずかしいことに、顕教と密教の区別は曖昧だった。

それが、50年も前の本書で、少し、了解した、、仏教の奥深さを再認識した。

 

当初は、空海という人について考えていたのだが、途中から、歪な考え方がよぎってきた。

それは、空海という人は、当時の世界の文化(文明)の中心である中国(唐)でも認められた人であるのに対して、最澄は、その唐にある進んだ文化を示すテキスト(書物)を集めて自国に持ち帰った人だということ、安易に考えると、本場で認められた空海は本物であり、最澄は、ある意味資料を集めてきただけの人(評価対象外)という捉え方ができるのだが、果たして、そうだろうか、ということだ。

 

重ねていうが、空海は世界的に見て本物だ、大谷翔平のような存在だとも言える。

それでは、最澄はどうなんだろう?

彼は、日本に必要だと思われる文献を集めて、とりあえず、急ぎ帰国する、そして、それらの文献を後日読み込むことで他国の文化を受け入れる(「筆授」と本書にはある)方法を採っている、そうなると、読み解く者の主観が入るので、当然、忠実に伝承することができるかどうかはかなりあやしくなる。

しかしながら、オリジナルをそのまま受け入れることが、必ず、正解なのだろうか?

 

戦後の、日本のものづくりに貢献した手法に、「QC(TQC)品質管理」があるのだが、それが発祥したアメリカでは評価されず、日本で取り組んだことがその後の日本の製造業の躍進につながり、その結果アメリカに逆輸入されたということがある。

また、集積回路のベースとなる、半導体のトランジスタも、当初、アメリカでは評価されず、SONY(当時は東京通信工業)が、技術的に発展されたことで実用化が進んだこともある。

これらの技術を、技術者がその発祥の地できちんと習っていたとしたら、早々に、見切りを付けてしまって、モノにならなかったのではないか?

そう、日本という、極東の地に(わざわざ)持ってきて、(いわゆる)「筆授」したことが良かったのではないかと思うのだ。

 

現在は、そういう地域性が出にくい時代だと言えるかもしれないが、新しい何かは、辺境から出現する可能性は否定できないようにも思う、イーロン・マスク氏が生まれたのが南アフリカ生まれであるように、明治以降、昭和の終わるまでは、そういう、日本の辺境性が独特の特性を生み出していたのではないかと思うのだ。

 

たしかに、天才で超人の空海(大谷翔平)は羨ましいのだが、もしかすると、最澄も捨てがたいのではないか?

 

そんなことを考えてしまったのだ。