歴史の真実と政治の正義(山崎正和著) | 本のブログ

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普通の人は読まないだろうと思う本を記す。
あとは、Linuxと中古PCなどの話題。

本書は2000年中央公論新社より刊行された、私は2007年初版の中公文庫版で読む。

本書は、刊行当時、すなわち新しい世紀に向けての考察という形になるのだ、正に、文庫版の裏に記された「世界的な歴史見直しを考察し、二十世紀思想の病−ナショナリズム、歴史主義、近代国家論の克服を説く。さらに、情報化が進める教養の衰退、活字文化の危機を分析する。次代への指針を示す文明論。」が、適切に本書の内容を指し示している。

その上で、約四半世紀前の本書の論考は、現在どうなのだろうか?

ナショナリズムや歴史主義については、逆に深化してしまった様にも思える、ウクライナも、パレスチナも、正に、そのものずばりだし、最近の中東情勢でのアメリカの対応も、そのとおりだと思う。

著者は、次世紀には、国家を超える、普遍的な形態が世界の規範となるという志向(思考)を示した、それは、国連のような、あくまで国家を超えた主体による統制が成立すると期待していたようだが、一部、アメリカという力による支配も可能性もほのめかしている。

しかし、アメリカの支配は、現在も顕在化しているように、紛争を拡大するだけの存在でしかなく(世界最大の軍需産業だということ)、グローバルサウスの台頭はそれらを力で句屈服させる行動を引き起こす危惧すらあると思うのだ。

 

そして、もうひとつの焦点、教養の低下と、活字文化の危機については、残念ながら、言及すらできない状況に陥っていると思う。

なにせ、活字本ではなく、マンガも読書数のうちに入れようなどという風潮がなし崩し式に言われるようになった状況が端的に表わしているだろう。

しかし、それを批判しても仕方がなかろう。

まさに、活字を介さなくても、意思疎通やら、知識の伝授ができるような、私には想像すらできない社会を築くことができれば、補完できる可能性はあるだろう。

でも、長い年月掛けて培われた活字文化の代替手段を日本人は見いだせるのだろうか?

私は、眼の前に積んである、活字の山(本)を、消化するだけで、人生が終わると思うので、これは後世の人びとに期待するほかはない。