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最近、アメリカ絡みの紛争は泥沼化する傾向にあるのだが、本編は、まず、地理的な前提条件についての記事だ。

米英がフーシ派を攻撃、火種の紅海の「海峡」はどんな場所で、何が起きているのか
1/12(金) 16:02配信 ナショナル ジオグラフィック日本版

フーシ派とは? なぜ船舶を攻撃する? バブ・エル・マンデブ海峡について知っておきたいこと
 バブ(バル)・エル・マンデブ海峡は、紅海における地理上のチョークポイント(戦略的に重要な要衝)で、世界情勢に大きな影響をもたらす。バイデン米大統領は1月11日、この海峡を通過する貨物船への攻撃を繰り返すイエメンの武装組織フーシ派の関連施設を、米英軍が攻撃したと発表した。世界が注視するバブ・エル・マンデブ海峡だが、実は人類の歴史においてずっと重要な役割を果たしてきた。今起きていることから世界の火種となった歴史まで、この「嘆きの門」について知っておきたいポイントを紹介する。

どこにあり、どんな場所なのか
 バブ・エル・マンデブ海峡は、アフリカ大陸東部の半島「アフリカの角」とアラビア半島の南端との間にある幅32キロほどの海峡だ。インド洋北西部のアデン湾から紅海に入る玄関口となっている。海峡の東側はイエメンに、西側はエリトリアとジブチの国境地域に接している。
 バブ・エル・マンデブ海峡の最も狭い海域のイエメン側には、ぺリム島(マイユーン島とも)という島があり、数キロ南にはジブチのセブンブラザーズ諸島が点在する。

フーシ派とは? なぜ船舶を攻撃する?
 イエメンの武装組織フーシ派の名称は、組織の設立者フセイン・アル・フーシの名に由来する。2004年、サウジアラビアと組んでフーシ派に敵対しているとして、フーシ派はイエメン政府と戦闘を開始した。2014年以降、フーシ派は、イエメンの首都サヌアと同国の西部および南部の大部分を掌握してきた。
 フーシ派はイスラム教シーア派を中心とした武装組織で、同じくシーア派のイランとつながりがある。そのため、イスラム教スンニ派が中心のイエメン政府に対するフーシ派の暴動や、スンニ派が中心であるサウジアラビアへの攻撃には、イランが資金を供給してきた。
 2023年末、ガザ地区でイスラエルとハマスとの戦闘が続く中、フーシ派は、イランが後ろ盾となっているハマスを支援するために、バブ・エル・マンデブ海峡を航行する船舶を攻撃すると宣言した。
 その後、フーシ派はイスラエルに向けてミサイルを発射する一方で、バブ・エル・マンデブ海峡で複数の船舶をミサイルで攻撃している。


「嘆きの門」という名前の由来
 バブ・エル・マンデブ(Bab al Mandeb)という名には、アラビア語で「嘆きの門」または「涙の門」という意味がある。「bab」が「門」、「mandeb」(または「mandab」)が「悲嘆」を表す。
 この呼称は、逆流や予測不可能な風、暗礁、浅瀬が多い狭い水路を航行する危険を指してつけられたと考えられている。数百年、数千年にわたって、バブ・エル・マンデブ海峡では無数の船が難破してきた。現代でもここを航行する船舶は、過去の紛争による機雷の危険にさらされている。

世界の海上輸送の4分の1が通過
 バブ・エル・マンデブ海峡も紅海もスエズ運河も、アジアとヨーロッパ間の重要な海運ルートにおける不可欠な要衝だ。
 国際海事機関(IMO)の試算によれば、世界の海上輸送量の4分の1にあたる年間数十億トンの貨物がこの航路を通過している。この海上貨物には石油も含まれ、ペルシャ湾やアジア諸国で生産されバブ・エル・マンデブ海峡を通過する石油の輸送量は、1日当たり450万バレルにのぼる、と米国エネルギー情報局(EIA)は推定している。

先史時代におけるバブ・エル・マンデブ海峡の重要性
 現代の古人類学者の多くは、「新しい出アフリカ」説として知られる「出アフリカ」説を支持している。現生人類ホモ・サピエンスは約15万年前に東アフリカで進化した、という学説だ。
 東アフリカを出たホモ・サピエンスは、中東、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸に拡散し、すでにその地域に住んでいたヒト族(ホミニン)の他の種に置き換わったとされている。
 その場合、「アフリカの角」からアラビア半島への太古の移動が最初の一歩だった可能性がある。バブ・エル・マンデブ海峡は狭いので、海水準変動の影響で水位が下がれば、少なくとも一時的にはここが2つの地域を結ぶ陸橋だったかもしれない、と考える学者もいた。
 しかしながら、2006年に学術誌「Journal of Biogeography」に発表された論文では、数百万年間にわたってバブ・エル・マンデブ海峡にそのような陸橋は存在しなかったことを明らかにした。一方、2022年10月に学術誌「Quaternary Science Reviews」に発表された論文は、両地域を隔てる海域は非常に狭かったので、漂流したり泳いだりして横断することは可能だったと主張している。

1960年代末までは英国が掌握
 バブ・エル・マンデブ海峡は数千年前から、地中海世界の端にある危険に満ちた海峡として欧州では知られていた。この海峡の先にはインドや極東の富が待っていると知られていたが、バブ・エル・マンデブ海峡は恐ろしい難所であり、陸路の方がまだ安全だった。
 だが、1869年に、紅海北西部のスエズ湾と地中海を結ぶエジプトのスエズ運河が開通し、この「嘆きの門」は世界的に重要な要衝となった。スエズ運河が開通すると、バブ・エル・マンデブ海峡を通過して紅海に運ばれる貨物が急増し、まもなく海峡はヨーロッパとアジアを結ぶ海運ルートとして評価が高まった。
 ナポレオン戦争時代、英国はすでにバブ・エル・マンデブ海峡のぺリム島を占拠していた。数十年後の1856年、当時フランスが建設中だったスエズ運河によってフランスの勢いが復活することを危惧した英国は、ペリム島を完全に占領して軍を駐留させ、灯台を建設した。
 当時、英国はバブ・エル・マンデブ海峡の約160キロ東、イエメン南岸に位置する港湾都市アデンに海軍基地を置いており、ペリム島は主にこの基地に往来する蒸気船の石炭燃料の補給地点として利用された。
 1960年代末にペリム島が南イエメンの指導者に引き渡されるまで、英国はこの海域を掌握していた。その後、南イエメンが共産主義諸国の支援を受けるようになり、一方、エジプトが北イエメン政権を支持するようになった。1990年に公式に統一されるまで、南北イエメン間で激しい内戦が続いた。

大国の思惑が渦巻く1960年代以降
 この数十年、バブ・エル・マンデブ海峡は膨大な貿易貨物と原油が通過することから、世界の火種となってきた。現在、米国と中国を含む複数の大国が、海峡のジブチ側に大規模な軍事拠点を置いている。その背後には、この海峡を対立国に掌握される事態を防止しようとする各国の思惑がうかがわれる。
 バブ・エル・マンデブ海峡が紛争に巻き込まれたのは、最近のイスラエルの戦闘が初めてではない。1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)後、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するアラブ諸国は、イランからイスラエルに向かう石油タンカーの航行を阻止すると発表した(当時のイランは西側諸国と関係が深い国王が支配していたので、イランとイスラエルは友好的な関係にあった)。
 エジプトの軍艦がバブ・エル・マンデブ海峡を封鎖し、数か月後に海峡が再開されるまで多くの石油タンカーが海峡を通過できなくなった。この事件によって、バブ・エル・マンデブ海峡が持つ地政学上の重要性と、世界のエネルギー供給における重大な影響力が浮き彫りになった。
文=TOM METCALFE/訳=稲永浩子