8月25日 高校時代の美術部の同期3名と

奈良に行きました

近鉄奈良駅からすぐにある奈良公園と

向こうに見える若草山

 

ランチは「茶粥」と漬物バイキングのお店

茶粥は奈良の名物らしく

別な店ですが妻とも行ったことあります

 

高校の時の美術部同期は私含め6名

男子2名女子4名(うち3名が今回参加)ですが

私以外の男子Nくんはもう25年程連絡先不明

 

集まる時はいつも「男子は自分だけ」になります

私も同期のSちゃんとは独身時代飲みともでした

私の独居の部屋にも何度か来たけど

ずっと友だちの関係で、ただの同期生のままです

だから続いたとも思います

ただ、さすがに結婚してからしばらくは

年賀状かメール近況報告くらいのつきあい

 

女性4名もほぼ育児が落ち着いてきたため

この数年は度々会っています

 

この集まりの後に「銀婚式ディナー」でした

旦那から花束もらうけどいらんねん!

アクセサリー系もなんか趣味わかってへんしな

そうそう「残らん」もんがええなー

式守くんはまだ「食べに行く」やしええよグッ

 

ところで「生理まだある?私まだ来るねん」

キョロキョロ、一応私はオッサンやぞ

いくら「なんでも話せる」にも程がある

さすがにリアクションできない式守チュー


まぁ若い頃から男同士のホモソーシャルな場と

体育会的な上下関係がめちゃくちゃ苦手で

感性も中性的というか男くさくなかったし

美術部は他学年も男女同数くらいだったから

自分には居心地よかったけど

異性の友人の存在には「ありえない」と

言われることもしばしばあります

「適度な距離感」で長く友人続いています


東大寺の大仏さんも見に行きました

高3時の遠足で来て以来やわ~

いや、子どもが小さい頃連れてきたかも?

そんな会話とともに・・・

親が勝手に訪問看護断るねん・・・もうムカムカ

オレオレ詐欺に騙されかけたのを全力で阻止した

ブログでも他の方が書かれておられる

「同世代あるある」の話題もたくさん聞き

なんとなく「女子会」に混ざっている感・・・

 

実は、この日のメインの目的は

日本酒かき氷でした・・・日本酒カキ氷

緑色の酒ビンは飾りです

ほのかにお酒の風味が漂い、美味でした

食べ終わったら、妻とのディナーのため

お先に失礼しました

 

 

この前の日24日は「浮島丸慰霊祭」

この日25日は「奈良外出」と「銀婚ディナー」

と土日イベント目白押し

そのまま週半ば「横浜出張」「北陸から帰る」

となったので


翌週8月31日・9月1日の週末は

泥のように10時間以上寝てしまいましたzzz

 

浮島丸事件の追悼の集会が

8月24日土曜日にありましたので

参加する機会があり

京都の北部舞鶴まで行ってきました


浮島丸事件とは1945年8月24日

日本の敗戦を受けて、徴用されていた朝鮮の人が

青森県から釜山を目指す日本海軍の浮島丸に乗船

帰国の途についていたのですが

 

連合国(実質米軍?)の命で舞鶴に立ち寄ることに

舞鶴近海で機雷の爆発で浮島丸が沈没した・・・

という事件です

 

犠牲者の大半が朝鮮半島にルーツを持つ人でもあり

地元の民族学校の学生さんらが追悼集会にも参加

ものすごく暑い日でした

 

 

舞鶴港の程近くのこの辺りで沈没したそうです

陸地も近いので乗客乗員約4000人のうち

犠牲者は549人とのこと

多くの人が泳いで自力で助かったり

近海の漁船などに救助されたそうですが

流出した油を浴びて溺れたり

救助しようとしても油まみれで

救えなかった人が亡くなったそうです

 

事故から9年も経った1954年でも浮島丸の残骸が

湾から見えていたそうです・・・

しかも朝鮮戦争による特需もあり

鉄が高騰したので回収が求められて

ようやくこの頃に引き揚げられたとのこと

 

実際にこの時代は地雷や機雷が陸にも海中にも

たくさん残っていて類似の事故はあったそうです

謀略説もある事件ですが、真相は不明です

 

事件から33年後の1978年に慰霊碑が建立

市長はじめ地元の実行委員会が主体となって

碑は中学校の美術教員が作成したそうです

 

東京都や群馬県の知事が戦争や他民族加害への

追悼へのメッセージを拒否したり、撤去させたり

といったことが伝え聞きますが

 

ここでは一度だけペンキ落書があったものの

知事や市長も参加(かメッセージ)をし

基本的に協力関係にあり妨害もないとのこと

浮島丸事件の場合は日本軍が加害者という

わけではなく

記念碑も実行委員会が土地を調達している

(市有地を借りていない)こともあると

説明がされました・・・

 

が、こうした悲劇がそもそも起こったきっかけは

朝鮮半島からの労働力としての徴用が多く

炭坑や工場などでの過酷な労働に従事していた

特に浮島丸が出港した青森県では

大間鉄道という下北半島先端までの

鉄道建設を担わされていたそうです



ゆくゆくは津軽海峡を越えて函館を結ぶ目的

もちろん完成しないまま敗戦で中断した路線

戦時中でも工事していた軍事目的の鉄道建設

朝鮮から徴用した人たちが担っていた

 

こうした歴史について

きちんと記憶をつないでいくこと・・・

記録に残していくこと

(厚労省は今年やっと乗船者名簿を開示)

が再び起こさないために必要だと思います

 

 

 

おまけ・・・

京都のお土産は「水まる餅」

水風船の中にわらび餅が入ってました

出すとき(=風船を割る時)の瞬間を

楽しむお菓子です

 

前回のあらすじ…

台風10号さんさんの停滞と長雨☔️で

東海道新幹線が止まり注意

横浜出張から帰るすべを失った式守にゃん太夫


飛行機は満席、横浜に滞留して

フライト遅らせたらいけるにしても

飛ぶ保証はないし、費用もかなりかかる


唯一関東から30日乗れるのは茨城空港発ですが

さすがにちょっと無理ショボーン


高速バスは残っていた空席の隣が女性だったため

男性には売れないとの通知が来てアウトバツレッド


北陸新幹線経由で大阪までキップが取れました

30日は当初予定通り午前は横浜で仕事

桜木町から京浜東北線で東京に移動しました


東京駅で北陸新幹線は初めて乗ります

仙台や高崎なら行き来した記憶はありますが

長野には名古屋経由、北陸なら大阪から直通

わざわざ東京来てから新幹線は普通は選びません


まずは13:52金沢行き「かがやき」に乗車


大宮駅に着く頃は本格的な雨降りでした

関西では見なくなった「そごう」がありました

軽井沢あたりでは勾配もあるのか

車両がうなる感じがしたくらい

いかにも山越していたのは東海道との違い


次の停車は長野駅、ただ通っただけなので

何かもったいないですりんごりんごりんごりんごりんご

停車さえしていないけど群馬県・新潟県も通過


富山駅から立山連峰を見ます

信州ではどんより曇りでしたが

北陸に入ると時折晴れ間晴れも見られました


乗車した「かがやき」は16:23に金沢到着

敦賀行きの「つるぎ」発車まで31分間あり




金沢では途中下車させて頂きました


九谷焼のガチャがありました


「かがやき」って左端の関取の四股名ですね

四股名が列車名と同じなのは

JR九州の特急「かいおう(魁皇)」以来です

ただ、かいおうは力士の魁皇から取ったけど

かがやきは列車名に由来する四股名です


絢爛豪華というのがピッタリなひゃくまんさん

加賀百万石から取ったのかな?

前田利家とか利長とかカイザーヒゲ生えてた?


16:54金沢発の「つるぎ」で敦賀へ

17:36敦賀到着。向こうに映る電車は

名古屋行き「しらさぎ」でこれも満席

敦賀でも36分の乗り継ぎタイムができましたが

急げば一本早い電車もありました

ただ、指定席は一本後にさせられたのですが


金沢も敦賀も売店が大盛況過ぎでしたアセアセ

「最後尾」のタテカンおじさんもいたくらい

実は大きな声では言えないけど…

JR西日本は東海の客が転移してウハウハかもニヤリ


珍しい駅弁の自販機も完売


播州赤穂とか姫路とか京都…の行き先表示で

ようやく関西圏に入った実感がしました

福井県とは言え敦賀などの嶺南地方は

関西の天気予報にも出るエリアです

もしかして関西電力の原発があるから?


特急「サンダーバード」で以前は富山や金沢に

行ったのですが、新幹線開通後は敦賀乗り換え

こんな形で乗るなんて思いもよらず


18:12敦賀発 19:37大阪着でした

途中に合計1時間の乗換タイムがあったとはいえ

東京から5時間45分の長旅でした

さらに自宅にはプラス1時間でしたし疲れます




正直言えば、きちんと帰れたこともありますが

上矢印この運勢通りに、トラブルが好奇心誘発し

多少ウキウキしてしまう自分爆笑爆笑爆笑

ブログも久しぶりに頻回更新しました


いっそ、それなら金沢の乗り換えタイムを

もっとたくさん取ってプチ観光したかったです

…すみません。調子に乗りましたアセアセ

長雨でこれから大変な地方もありますし


お土産も金沢と敦賀で購入したし

いったい自分は

どこに行ったんだか?

よくわからない横浜出張でした