人間に良心は存在しない?~罪と罰について考える | 始まりはアドラー心理学

始まりはアドラー心理学

より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

今回は、非常に難解かつ理屈っぽい話になってしまいました。
さらに、現状の社会基準に反する部分もあり、
一般には受け容れにくい内容かも知れません。
ただ、僕と同じくアドラー心理学に興味を持つ方であれば、
少なからず心に響く部分もあるかと思います。
かなり長い話になりますが、しばし手間と暇をください。
人間社会の根幹に関わる大きな課題について、

一緒に考えてみましょうがんばる


この記事が完成する直前、
テレビで「悪魔の弁護人~御子柴礼司~」、
というドラマが始まりましたTV

(公開する本日、最終回になってましたが…)

内容的にタイムリーだったので、少し触れて置きましょう。
主人公の御子柴には、かつての少年時代、
幼女誘拐殺人事件の犯人として世間を凍り付かせた過去があります。
ただ、「人を殺してみたかった」という身勝手な理由で
幼い女児に嬉々としてナイフ突き刺し、無惨に殺害したのです血  

しかし、未だ中学生だった御子柴は、少年法の適用により、
僅か2年ほど少年院に入った後、
何の罰も受けずに実社会へと解放されます。
当然ながら、世間(遺族を含む)が納得するはずありません。
案の定、全国の津々浦々から

激しいバッシングを受ける事になります怒り 

残虐非道の悪魔と名指しされ…悪魔  

しかし、彼は懸命な努力で立派に更正を果たします。
御子柴には、我々と同じように
罪を悔いる心と他人と痛みを分かつ資質が備わっていたからです。
その後、懸命の努力で司法試験に合格した御子柴は、
新たな贖罪の道を歩み始めます走る                星 

強引な手口で加害者以外を地獄に突き落とす悪魔の弁護人として…。

一般に、良心や罪悪感は人間ならではの資質とされます。
多くの人は生まれつきの本能と考えているようですが、
それは大きな勘違いです。

皆さんも知っての通り、幼い子どもは悪い事を平気でします。
当然、悪気は全くなく、
単に自身の欲望のまま行動しているだけです。

ところが、そんな無垢な子どもを親は酷しく叱り付けますムカ 

当然、子どもはビックリしますよね うー

何の悪気も悪意もないのに、一方的に怒られ、文句を言われ、
「謝りなさい」と謝罪を強要される訳です。
反対に、良い事をした時は褒められ、認められ、
「ありがとう」、「良い子だね」といわれます。
簡単にいえば、飴と鞭の使い分けです。
このようにして、子は良い事をすれば快楽が味わえ、
悪い事をすると苦痛に襲われる、
という両極端な状態に馴らされていきます。
良心や罪悪感は、こうやって身に付いていくのですゲット 

一方、いくら教わっても、いくら痛い目に遭っても、
いつまで経っても良心の育たない人間もいます。
サイコパスですね小悪魔ピース

当然、彼らだって褒められたら嬉しいし、叱られたら苦しいですが、
どんなに時が過ぎても良心や罪悪感が身に付くまでには至りません。
何故なら、サイコパスにとって、
自分の事と他人の事は全くの別物だからです。
彼らは、どんなに他人が苦しめても、自分の行動は100%正義であり、
人間として当然の権利だと考えます。
その紛れもない事実は、何が起きても、何をされようとも、
けして変わる事はないのですガーン 


良心や罪悪感のある我々にとって、
自身の欲望や行動を制御する事は大して難しくありません。
ただ、これらに物事の冷静な判断を阻害する要素がある事も
また確かだと思います。
何故なら、我々の良心や罪悪感には、
人間ならではの感情や衝動などが深く関わっているからです。
得てして、我々のような一般人は、精神的に苦しい状態に置かれると
しばしば感情的になって物事の冷静な判断が出来なくなりますsao☆モヤ

そのため、時に感情任せになって極端な言動に走り、
周囲に余計な苦しみを及ぼす事も多いのです。

これは、感情や衝動に意識が集中した結果、
思考から合理性や論理性が削がれた状態に当たります。
つまり、良心や罪悪感が逆に害を為す場合もあるという事です。

現代人の罪悪感は、社会的な倫理や道徳と深い関わりがあります。
世の中では、ルールや規律を破ると『悪人』のレッテルを貼られ、
周囲から酷く攻められますよね?

これは、人間として強い苦痛であると同時に、
大きな屈辱に他なりません。
結果、人間は自分が悪の側にいる事を強く怖れるようになります表情

この恐怖心が、罪悪感の中には含まれているのです。
反対に、人間は自分が『正しい』側にいる事に安心感を抱きます満足  

正しくさえあれば、周囲から快く許容され、
集団での自身の居場所が確保出来るからです。
則ち、我々の良心には、人の本能となる自己肯定感や所属感、
自己承認欲求などが大きく関わっている訳です。
この恐怖と安心感による板挟みは、
我々の思いと行動に極めて強い影響力を及ぼしますアップ

これは、既に述べた飴と鞭と同じであり、
動物を調教する際の常套手段に他なりません。
飴と鞭で是と非を示せば、知能の低い家畜であっても
自然と事の正しい選択が出来るようになります。
よって、良心や罪悪感(安心感と恐怖心)さえ強ければ、
物事の善悪が解らなくても特に支障はない訳です。
ある意味、現代人は家畜と同じ扱いを受けている、
といえなくもありませんねザンネン…。


以上から、良心や罪悪感に強烈な教育作用がある事が判明しました。
これらが強いと、より悪へと走りにくくなり、
悪事を犯した場合にも、より罰や償いに応じやすくなります。
それだけに、犯罪の発生や再発を防ぐ抑止力としても
大きな効果が期待出来る訳ですOK

このように犯罪者に罰を与えて苦しませれば、

「また同じ目に遭いたくない」、
…という恐怖心を植え付ける事が出来ますね。
同時に、それを見た人々に対しても「同じ目に遭いたくない」、
という警戒心を与える事も出来るのです。
ただ、その有意性には多少の疑問があります。
先ず、指摘したいのは、何をされても懲りない者がいるという点です。
実際、ようやく刑期を終えて出所した犯罪者が、
再犯で刑務所に逆戻りしてしまうケースが後を絶ちませんもやもや

それは、過去に受けた罰の苦しみで
現在に生じる犯行意欲を相殺するのは難しいからでしょう。
もう1つ指摘したいのは、
捕まらない者を罰するのは不可能という事実についてです。
要するに、「バレなきゃ大丈夫」という事ですね。
この社会が、裁かれぬ罪で満ち溢れている事からも窺えます。
どれほど非道な悪事を繰り返そうとも
絶対に捕まらない者が大勢いるのですガーン

よって、人間の欲望を他者の手で相殺する事は不可能だと解ります。
どんなに刑罰を重く設定しても、それを容赦なく行使しても、
抑止にならなければ意味は薄いですよね。
それは、我々の日常を見ても明らかです。
しっかりと反省し、がっかりと後悔しているにも関わらず、
人間は同じ過ちを何度も繰り返しますガーン

残念ながら、人間の強い衝動や強固な習慣の前には、
あらゆる罰も償いも無力と化すのです。

以上、良心と罪悪感には安心感と恐怖心が付随するという点、
また、それが犯罪や不正の抑止に繋がる、

という点について述べました。
付随する感情は他にもあります。
それは、他者に対してのエンパシー(共感)やシンパシー(同情)です。
加害者となって、誰かに危害を加えた経験のある人であれば、

きっと解るでしょう。
実際、加害者の罪悪感は、
被害者の苦しみに対する共感が元になっています。
人間なら誰もが、被害を受けて苦しむ人を見て心を痛めますが、
その加害者が自分自身だとすれば、居たたまれなくなるはずですがっかり 

並びに被害者の立場を察すれば、
自分が罰を受けないと気が済まなくなるでしょう。
もちろん、サイコパスの場合は話が変わります。
彼らは相手の立場で物事を考えられないので、
どんなに他人を苦しめても自身の心が痛む事など絶対にないのです。
ただ、それが悪である事だけは理解出来ます。
それは、彼らにも倫理や道徳に付随する

恐怖や安心感があるからです。
一方、他人への同情や共感については全く理解出来ません。
これが、サイコパスに良心や罪悪感がない最大の理由となります。
則ち、人間の良心や罪悪感は、社会的な倫理観と道徳心、
及び他者への共感がない限り成立し得ないのですないないない

 

人間のエンパシーには、「自分と他人が同等で公平であるべき」
…という意識「公平感」が付随します。
人間ならば、誰もが不公平は大嫌いです(サイコパスは気にしない)。
被害者には「こっちは死ぬほど苦しんでいるのに、
(捕まらない)犯人がのうのうと生きているのは我慢出来ない」、
という思いが強くあります。
これぞ、まさに『不公平』に対する怒りです。
また、加害者が「被害者が苦しんでいるならば、
自分も苦しまなければ申し訳がない」と思うのも、
同じく『不公平』に我慢出来ないからなのです(サイコパスは平気)。
よって、加害者の罪悪感とは、自らが作り出した不公平によって、
他人を苦しめている事に対する懺悔の意識ともいえます。
人間が不公平を嫌がるのは、それが自身にとっても全体にとっても
好ましくない状態である事を本能的に知っているからでしょう。
我々が、恵まれた境遇にある強者に嫉妬したり、
反対に恵まれない立場の弱者を支援しようとする理由も、
そこにあるのかも知れません。

かつて日本では『仇討ち~かたきうち』が認められていました衝撃

「人を殺したら、その仲間によって殺されても仕方がない」、
…という理屈ですね。
現在でも、殺された人の身内が犯人を殺したくなるのは、
まさしく不公平に我慢出来ないからだと思います(サイコパスは平気)。
端的にいえば、自身を苦しめた人間に同じ苦しみを加える事で、
互いに公平を及ぼそうと考えるからです。
しかし、いくら厳しい罰を与えたところで、
起こった事実が覆る事など有り得ませんあたりまえ 

例えば、殺人者を死刑にしても、
当然ながら、殺された家族は帰って来ない訳です。
ただ、加害者が罰を受ければ、相応の不公平は相殺されます消える

家族を失った苦しみは消えなくても、
少なくとも不公平が及ぼす不満だけは解消されるのです。
他、賠償金や慰謝料にも似たような意味合いがあります。
簡単にいえば、お金という快楽を与えて、
罪に対する怒りや被害を受けた苦しみを相殺しようという事ですねお札

加害者が身銭を切る苦しみを負うと同時に被害者が利益を得る、
という状況は、公平を帰す点で実に合理的といえるでしょう。
ただ、両者が経済的に裕福である場合は話が変わります。
何故なら、多額の賠償金を払ったり、それを逆に得たりする事は、
大金持ちにとっては大して意味がないからですもやもや

反対に、両者共に貧乏であれば、払う側の苦しみも
得る側の喜びも非常に大きなものになります。

特に被害者側が強い貧困状態にあれば、
かなり甚大な被害を受けていても
多少の慰謝料で大人しく引き下がる破目にもなり兼ねませんガーン 

そもそもの経済的格差という不公平がある以上、
賠償で公平を及ぼすのは甚だ無理があるのです。
中には、自動車事故で家族が死なされても、
損害賠償や慰謝料などで億単位の額を渡され、
むしろ「死んでくれて助かった」という微妙なケースもありますsei 

それでも、多くの人が罰や償いに意義を感じ、
その効果に多大な信頼と期待を抱いています。
良心や罪悪感に対しても同様で、
これらを有すれば社会的に良識人とされ、
罪を冒しても過剰に攻められる心配もなくなるのです。
それは、被害者や第三者の意思に関係なく、
自ら進んで罰や償いを求める加害者が大勢いる点からも窺えます。
何故なら、人々に憎まれ、多大な制裁を受けるのが怖いからです表情

これに対して、人々も「罰を受けたら十分だろう」、
「反省してるなら許して良いだろう」と寛大な態度を示します。
それは、罪は罰で相殺するのが常識だと、

心から信じている証拠です。
ところが、中には何があっても罪を絶対に許さない人もいますムカ

被害者の強い感情と確固たる意地の前では、
どんな酷しい制裁でさえも釣り合いが取れないようです。
このような人の前では、罰や償いどころか、
終身刑や死刑のような極刑でさえ全く要を成さなくなります。
もし、これで死刑を執行した場合、
一体誰が得をするというのでしょうか?

ただ、死刑囚の家族や知人たちが悲しむだけで、
良い事など何もありませんザンネン…。 


加害者が罰や償いに期待する理由は他にもあります。
それは、既出の通り、公平を期すためであり、
自分の罪で他人が苦しむ不公平を我慢出来ないからですムカイヤ  

ここには、被害者への共感も付随しています。
つまり、被害者の苦しみを自分の苦しみと重ねている訳ですね。
当然、それだけで被害者が納得するとは限りません。
世の中には、どんなに強く反省しても、
どれだけ誠意を持って懸命に謝罪しても、
絶対に許されない犯罪者が大勢います。
同様に、酷しい刑期を終え、心を入れ換えて更正した加害者を
いつまでも強く憎しみ続ける被害者も多くいるのです焦る     むっ

ここまで来ると、むしろ逆効果としか思えません。
あたかも、被害者が自らに酷しい罰を加えているかのようで、
結果的には単なる自虐行為と化してしまいます。
まさに、「人を呪わば穴二つ」ですよねガーン 


謝罪や償いを求める被害者にも、加害者と同じような意識があります。
それは、「我々の苦しみを解って欲しい」、
「同じ苦しみを共有して欲しい 」という隠れた願望です。
この場合、心からの謝罪さえあれば、

それだけで十分に解決する可能性があります。
謝る事、それを許す事で公平が帰され、両者が共感し合う事で
互いの苦しみが相殺されるのです消える 

しかし、そんな切実な願いが無駄になる事も多々あります。
既に述べた通り、どんなに酷しい罰を受けても
どれだけ強く深く反省しても、
加害者本人が更正するとは限りません。
また、誠意ある謝罪のつもりが実は単なる見せ掛けに過ぎず、
本当は反省の欠片もなかったりするケースも多いのです挨拶…(ふふん

世の中には、躊躇なく土下座したり、故意に涙を出せたりする
演技達者な加害者だって普通にいますウワーン!…(静怒

残念ながら、それを我々が見抜く事は先ず不可能です無理

よって、演技を疑って過剰に攻め立てたら、
返って一方的な暴力にもなり兼ねません。
本当に反省している可能性も十分あるからです挨拶…(いや

 

僕自身、人間が持つべき良心や罪悪感は、
多少あれば十分と考えています。
何故なら、それが実質的に役立つのは抑止の場面だけであり、
事が起きた後は余り意味がなくなるからです。
得てして、罪悪感が強い人は、罪を冒した自分を強く攻めますが、
それで何か良い事などあるのでしょうか??

ズバリ、時間と労力の無駄であるばかりか、
逆に状況を一層と悪くするだけだと思います。
中には罪の呵責で自ら命を捨てる人もいますが、
こんな事をしても何の断罪にもならないばかりか、
むしろ罪を上塗りするだけでしょう。
このような、自殺や自傷や自虐などの一切は、
被害者を出すという面で他殺や傷害やイジメと変わらないのです衝撃パンチ

自分が傷付けば、その仲間たちも同時に傷を受ける事になります。
どんな理由があるにせよ、たった一人の人間が死ぬだけで、
より多くの人たちが嘆き苦しむ破目になるのです団体sei  

これでは、誰も幸せになれないでしょう。
だからこそ、良心と罪悪感は少しだけあれば十分なのですパー

一方、罰や償いの方も多少で十分だと思います。
何せ、どんなに罰を受けようが、謝罪しようが、
起きた事を「なし」には出来ない訳です。
また、これらによって、再発が防がれたり、被害者の悲しみや憎しみ、
加害者の苦しみなどが消える保証もありませんモヤ

結局は、感情論に過ぎないのではないでしょうか?

個人的に、罰や償いの実質的な目的は、
ガス抜き以外にないと思います混雑ま、しかたないか…

所詮は、被害者や社会世論を都合良く丸め込む事を目的にした、
単なる見せ掛けのパフォーマンスでしかないのです。

元来、人間に物事の正誤や善悪を明確に判断する能力は、
存在しないとされています。
そのため、短絡的に善悪を決め付ける事で、
罪悪感による罰や償いが無意味になってしまう場合も多いのです。
得てして良心や罪悪感を持つ一般の人間は、
不用意に「悪い事をした」と勝手に思い込んで自らを攻めたり、
それほど悪い事をしていない他人を過剰に責めたりしますパンチ 

それは、罪悪に対する認知と判断が、人それぞれ違うからです。
よって、罪悪感と善悪に明確な関連性と客観性を求めるのは、
ほぼ不可能という事になります無理 

結局、最終的に決めるのは個人しかいないという事です。
既に述べた通り、良心や罪悪感は、
人間が生まれつき持っている本能ではありませんないないない

我々が生まれつき持っているのは、喜びや痛みを察知する感覚と、
それを互いに分かち合う資質(共感心、公平感)だけです。
よって、この世界には初めから善悪など存在していない事が解ります。
我々の知っている物事の善悪とは、
全て人間が社会を公平に運営するために作った

方便でしかないのですキッパリ

実質、あらゆる物事の是非を判断する権利を持っているのは、
当事者本人以外に存在しません。
結局、最終的な善悪は個人の自由で分類するしかないという事です。

そもそも、我々が考える悪って何でしょうか?

それは、「何らかの言動によって人を苦しめる事」、
…に他ならないと思います。
例えば、殺人、窃盗、詐欺、不倫、などが悪とされるのは、
それで苦しみを被る人間が存在するからですねえ~ん残念 

よって、他人に危害を及ぼしたとしても、
当の相手が喜んだとすれば、全く悪ではなくなりますうれしい パンチ 

また、自分で「悪い事をした」と思っても、
誰の迷惑にも損害にもなっていなければ、
結果的には単なる個人の自由で済まされてしまうのですOK
よって、善悪を最終的に決めるのは、ルールでも法律でもなく

被害者当人に他ならない、という事になります。
被害者が「苦しい」と思えば罪となり、
何も気にしなければ無罪放免という事です寂笑ドーンマイ!

 

僕が、良心や罪悪感、罰や償いに疑問を抱くのは、
以上のような理由に依ります。

いずれも、個人の認知や感情の産物であり、
それ自体に明確な善悪を分ける客観性が見出だせないからです。
悪の判断が感情で決まるのであれば、
罪に関する原因や責任の所在が曖昧になってきますもやもや 

当然、苦しみを及ぼす言動を発した側に責任がある事は確かです。
ならば、苦しむ本人には何の原因もないのでしょうか?

苦しみという思いを作っているのは、
加害者ではなく、あくまで被害者当人の判断によります。
加害者の言動に原因があるのは確かですが、
最終的な結果を及ぼしているのは100%被害者の意思なのです。
つまり、あらゆる悪も罪も単体では存在し得ず、
双方の共同作業によって初めて成立する訳です。
一見、被害者と加害者は相克する立場に見えますが、
互いに事態を共有(共感)する運命共同体でもありますムカ挨拶仲間

だからこそ、両者共に苦しむのです。


以上については、アドラー心理学の『課題の分離』からも

説明出来ます先生

例えば、街を歩いている時に、

不注意な誰かから無為にカバンを当てられてしまった場合、カバンコツン…
ほとんどの人は「ま、しかたないか」で終わるはずです。
もちろん、中には怒って謝罪を求める人もいます静怒ってーな、何すんだ! 

それは、加害者が罪を認め、謝ってくれないと、
自身の怒りや苦しみが消えないと思うからです。
ならば、そもそも何が悪いんでしょうか?

ぶつかられて怒りが沸くのは解りますが、
その気持ちを実際に作ったのは、
加害者ではなく、被害者本人に他なりません。
ならば、被害者が自分の気持ちを自ら抑えれば済むだけの話ですOK

加害者の反省や謝罪などなくても、
自分の意識は自分で自由に変える事が出来ます登場はぴ♪ 

感情や認知のコントロールは、あくまで「個人の課題」であり、
自分自身にしか出来ない事なのです。
もし、これを他人に押し付ける事が許されるならば、
世の中全てが、罪人だらけになってしまいます。
ただ、「迷惑だ」、「傷ついた」というだけで、
誰もが罪を問われ、不当に攻められる訳ですムカ 団体ヒィー 

これは、断罪を利用した不当な暴力に他なりません。
簡単にいえばパワハラです。

皆さんの回りにも、他人の些細なミスを追及して
激しく責め立てる人はいませんか?

もし、そんな人ばかりになったら、
もはや世界は地獄と化してしまいますドクロ
こんな風にならないためにも、
自身の苦しみは自分で処理するように努めなければなりません。
それこそ、被害者本人にとって為すべき唯一の課題なのですポイント。


一方、加害者の課題は何でしょうか?

謝る事や反省する事も大切ですが、
これだけで何ら解決にはなりません。
本当に必要なのは、自身の過失を率直に認め、
その経験と学びを未来への糧にする事だけです。
どれほど自身を激しく攻め立てても、
どんな強い苦しみを自らに課しても、
物事の解決に関しては何の影響もありません。
というより全くの無意味でしょう。
よって、罪人が為すべきは、自らの間違いを知り、
再び同じ過ちを冒さぬよう誓う事だけで十分なのです。
後は新たな目的を抱き、来たる未来に向けて前に進むのみです歩く 


アドラー心理学によると、
あらゆる感情は「出し入れ可能な道具」だといわれています。
一般では、人間の認知や行動は、
先に湧いてきた感情に突き動かされた結果、と考えられていますが、
それだけで全てが決まる訳ではありません×

既に触れていますが、良心や罪悪感は、
「罰や制裁から逃れるための道具」、
として発動される事が多々あります。
反対に、被害を受けた悲しみは、「周囲の共感を得るための道具」、
被害を受けた怒りは、「加害者を罰し、罪を償わせる事で
自分の無念を晴らすための道具」として利用される事もあるのです。
このような感情の使い方では、何も解決出来ません。
元より、各々が自分の無念を自ら果たせるならば、
罪悪感や悲しみや怒りなどの感情を道具にする必要など、
何もなくなります。
我々にとって本当の意味で必要とすべきなのは、
全ての人間に共通として備わっている共感心と共有感だけなのです。
やるべきなのは、互いに苦しみを分かち合い、
その苦しみを消すために互いが協力し合う事のみですラブラブ 


アドラー心理学では、目的論が重視されています。
原因を厳しく追求したり、犯人を酷しく制裁したりする事に、
物事を解決する作用などないのです。
覆す事が不可能な過去に今を変える力など存在しません。
我々にとって、思いを向けるべきは未来であり、
意識する事が出来るのは現在だけです。
終わった行為を振り替える事にも意味はありますが、
それよりも新たな目的に向かって前に進む事の方が、
遥かに重要なのですポイント。

 


以上の見解に対して、納得出来ない方も、多いかも知れません。
多くの人が、悪い事をしたら、「裁かれる」、
「謝る」、「罰を受ける」のが当たり前だと思うでしょう。
それは、共感心があるからです。
他人の痛みを自分の痛みと感じ、
互いに気持ちを分かち合いたいと思うからです。
問題は、共感心の使い方にあります。
共感心を、自らを苦しめ、
また加害者を報復するための道具に使うべきではありません。
苦しみは、加害者と被害者、両方にあり、
それを観察する周囲の人々にも確かに伝わります反省!        団体ガーン 

つまり、あらゆる世界の苦しみは、全ての人間で共有出来るのです。
共感心さえあれば、どこの誰の苦しみでも
自分の事のように感じる事が出来ます。
もちろん、我々にも…。

以上を踏まえ、我々は何を果たすべきでしょうか?

課題は以下の3点に尽きます。

 

・罪人は、自らの過ちを受け容れ、

その経験を活かして前に進む事
・被害者は、加害者を許し、自ら苦しみを消し、
その経験を活かして前に進む事
・両者共に苦しみを分かち合い、

互いに認め合う事

…以上、これだけです。

非常に長い文章になってしまいましたが、
ようやくオチに辿り着きました。
色々と理屈っぽい見解を書き連ねましたが、
あくまで個人が語る理想論として捉えて頂ければ幸いです星 

実際に大きな被害を受けて強く苦しんだ経験のある方であれば、
極めて無責任な発言と捉えるのも当然と思います。
実際、僕自身にも腑に落ちない部分が多少あるのです。
仮に、自分の幼い愛娘が無惨に殺されてしまい、ドラマと同じく
犯人が何の罰も受けずに
社会復帰するような事が実際に起きた場合、
それを納得して受け容れる確信は、今のところありません。
ただ、我々が人生の大きな苦しみから逃れ、再び前に進むためには、
あらゆる現実を受け容れ、あらゆる他者を許す以外、
他に方法がないという事だけは間違いないでしょうキッパリ

そのためには、自分自身を100%許し、
自分が生きる意義と可能性を100%認める事が何より先決となります。
自身にとって最大の問題児「自分」さえ許す事が出来れば、
もう何も怖くはありません棒人間 

後は生まれながらの宿命によって

全てが1つに繋がっていくはずですLeadb-b-Scarab

エンパシーの導きによって…ペン