バランスと調和6.【全ては方便】 | 始まりはアドラー心理学

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より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

僕は当ブログで、
物事を善悪で分ける事に異を唱え続けています。
究極的には、我々の行動に正しいも間違いもありません。
全ては有りであり、初めから許されているのです。
それは、人類に完全なる自由が与えられている事を意味しますキラキラ

物事を両極端な二つに分ける『二項対立』、『二原論』などを
僕は否定してきました。
結局、物事はただ『一つ』のみです。
しかし、この一つは、
加減とバランスによって様々な状態に変化します。
我々は、その様々な状態に善悪や優劣、損得などとレッテルを貼り、
分かりやすく分類しているに過ぎないのです。

人間にとって、自分の思いこそが全てとなります。
単なる妄想であっても、善と思えば100%善であり、
悪と思えば完全に悪といえます。
我々は、物事に対して好きなように意味付けする事を許されています。
従って、物事を両極端な二つに分ける事も自由とされており、
そこに、どんな意味を求めても構わないのです。

この世界には、無駄な物など何一つないと思いませんか?
そう思うからこそ意味が生まれます。
よって、全てが無駄だと思えば、
その人にとっては完全なる無駄となります。 
どう捉えるか、どう利用するか、全ては個人に任されているのです。

僕らの身近には包丁という道具があります。 
包丁は、食材を切る目的で作られたものですが、
実質的には、どう使うかは個人の自由です。
実際、包丁で人を傷付ける事も出来ますね? 
その気になれば、鉛筆削り鉛筆として使ったり、
カッター替わりにして段ボールを切る事も出来ます。
はたまた、筋トレで使うダンベルダンベルを凶器にする事も出来るし、
漬物石として使う事だって可能でしょう。 
従って、あらゆる物事にも同じ事がいえます。 
我々が『悪い』と意味付けている物や行動も、 
使いようによっては役に立つ事があり、
便利な道具として利用出来るのです。

この世界に存在する物事には、全て方便があります。
我々が『悪』として忌み嫌う『嘘』も、
方便として認められる場合がありますよね?
既に述べた通り、『怒りプンプン』や『恐怖ガーン』など、
ネガティブといわれる感情も方便として役に立つ事が多々あります。
ならば、頭ごなしに否定しないで、
臨機応変に利用した方が快適です。

僕が否定する二項対立という価値観も、
使いようによっては実に便利なツールと成り得ます。
本来、我々には完全なる自由が与えられている訳ですが、
世の中には、
この権利を使って他人を攻撃し、傷付ける人が大勢います。
他人を傷付ける行為は、相手にとっては自由の侵害になります。
実際、誰もが傷付られたくないと思っており、 
その思いを踏みにじるのは、やはり許されません。
「許せないむかっ」と思うならば、
それに対して攻撃し、やめさせる事も、また自由となります。
このように、他人を攻撃したり、
傷付けたりする行為を抑止したいならば、
『悪』というレッテル貼りは、実に効果的です。
実際、人間社会に溢れる様々な許されない行為を
『悪』と認定する事により、我々の安全がまもられています。
逆に、我々にとって有益と感じる物や行為を
『善』と認定する事で、
社会全体の利益と調和がまもられているのも、また事実でしょう。
よって、善悪というレッテルも、
我々にとって、便利で有益な道具としての存在意義があるのです。
同様に、優劣や損得など、他の二分類にも
大きな利用価値があります。
自らの生活を快適にしたり、能力や技術を高めたりするためには、
解りやすい基準があった方が効率的ですね。

物事は捉え方によって180度変わります。
物や行動が、使いようによって道具にも凶器にもなると同じです。
いうまでもなく『レッテル貼り』、『二項対立』を、
他人を傷付ける凶器として使ってはいけませんあせる
人々が快適に過ごせるための、便利な道具として使うのですひらめき電球

世界には、無数の物事が無限に潜んでおり、
次から次へと我々の前に現れてきます。
これらを、どう捉えるか…はてなマーク、如何に上手く利用出来るか…はてなマーク
全ては、我々人類にとって大きな課題になるでしょう。