塚本三郎通信 H29-2 日本の伝統行事は古いだけか | 日本世論の会 本部

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日本の伝統行事は古いだけか

 

 最近の報道機関(マスコミ)は、団体名を漢字ではなく、カタカナで報道する事が当たり前のようになってきている。若者にとってはそれが当然のようだ。

 しかし、我々高齢者にとっては、カタカナで報じられる団体が、一体何をしている企業、団体なのか見当がつきかねる場合が多い。以前から引き続いての視聴者ならば分かる。

 だが、その時々の視聴者にとっては、報道の主語がカタカナでは理解しにくい。

 従って、内容を判断できない。「高齢者、老人はお呼びでないのか? 」と拗ねてみる。

 日本が古き歴史を重ねていることは、他国に類例をみないと自負する。しかも、伝統的な中身、即ち、科学、芸術、美術等、現代に残されているものは、決して恥じないだけの「醇風美俗」の慣習が重ねられている。その慣習は大都市に限らず、地方都市にこそ、住民の絆として芸能化している。

 最近では、アジア各国において、日本本来の姿が浮上しつつある。しかし日本では、伝統的習慣としての郷土行事が影を薄めつつある。

 例えば、年末の「除夜の鐘」、正月の「門松」、節分の「豆まき」等々。一部の過剰とも思える反応の影響で、伝統行事が変化を迫られている。

 一定の配慮は必要だが、先祖の深い知恵と思いやりを形として伝えられてきた共同体の絆が失われつつある。それが近代化ということか?

【除夜の鐘】

 大晦日の「除夜の鐘」は当然の行事と待ち受けていたが、今年は耳に入らない所が多くなったようだ。風前の灯火の如く消えてしまった。

 住宅街に囲まれた寺では、近隣からの苦情により、百年以上続いた寺の行事が中止させられた。寺の住職や近隣の人々の中には、毎年その行事を楽しみにしていたにも関わらず、「夜中に鐘を鳴らすと腹が立ち眠れない」等々、近隣からのクレームである。

 過ぎ去った三百六十五日それぞれに、己の良心に従い、良い事と逆に良くない事、また意に沿わない事等々、百八煩悩を打ち消すため、思いを込めて消し去れと、年末の行事となっていたのが「除夜の鐘」である。一昨年から昼に鐘をつく「除夕(ジョセキ)の鐘」を始めた寺もあると聞く。復活を望む声も少なくないようだ。

【節分の豆まき】

「福は内、鬼は外」と叫び続けられる節分の豆まきの行事。豆をまくことによってまめに働き、福を呼び寄せるとともに、不幸や禍いを追い払うことで元気を出そうと叫ぶ。

 「富久者有智(フクハウチ)、遠仁者疎道(オニハソト)」

とも称える。

 何事も知識と配慮によって行動する者には、豊かな財産と地位を久しく保ち得ることができる。

 恩と義理、そして仁義、即ち、思いやりや温かさに欠ける者は、財産や協力者も逃げ出して、寂しい生活、近親者にさえ疎まれる日々を送らなければならない。

 寒い冬から抜け出し、漸く暖かい春を迎え、さあこれから今年一年の活躍の前途が待ち受けているぞ、働く目標に向かって突進するぞ、と豆まきが始まる。

 前述の如く、年末年始に、神社や寺院などで行われていたそれぞれの行事には、ご先祖様の深い意義が含まれている。それなのに、伝統行事が変化されつつある。行事そのものの真意が欠けているからであろう。

 その結果、本来の地域の共同体や絆まで消えつつある。それが郷土愛をも失いはしないか?  (元衆議院議員)