最近の中国では、「琉球を取り戻せ」という人もいます。
沖縄で独立を主張する人はごくわずかですし、中国併合を望む人はいませんが、沖縄と日本国家の絆はかなり脆いことも忘れてはなりません。
そもそも戦後、沖縄が27年の米軍統治のあと日本に戻れたのにはいくつかの幸運がありました。
沖縄についてアメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石に日本への領土要求はないかと打診しました。沖縄を欲しければ認めてもよいというシグナルでした。
もちろん、中国政府にも中国領にしようという意見もあったのですが、蒋介石は態度を明確にしませんでした。
というのは、独立運動もないし、それ以上に、満州や内外蒙古の独立阻止や台湾返還主張にマイナスだと考えたのです。
すでに、外蒙古にはソ連の傀儡(かいらい)国家が成立していましたし(いまのモンゴルは立派な独立国家ですが最初は傀儡国家でした)、内蒙古にその版図を広げようとする可能性がありました(漢民族が多数派なので断念。ただし、モンゴル国民より多い蒙古族が住む)
満州についても、ソ連とかモンゴルが全部または一部を併合するなどしかねない状況でした。
そうしたときに、五族共和(漢満蒙回蔵)の多民族国家を自負する中国は、民族自決の原則に基づいて大清帝国から譲られた領土を一寸たりとも譲れないと考えていました。
ところが、日本民族の住む沖縄を自分のものにすると、民族自決の旗を自ら降ろすことになってしまうことを心配したのです。
つまり、沖縄を得て満州や蒙古を失うのが怖かったというわけです。ただし、日本に帰属させるのかといえば、それは別途話し合いましょうという立場で、信託統治や非武装化も模索していました。
しかし、国民党は共産党に追われて台湾へ移ったので幸運にもすべてがうやむやになりました。そして、サンフランシスコ講和条約でアメリカ軍の施政権下に置かれました。
この経緯について、沖縄を見捨て平和条約を結んだことが非難されることが多いのです。
たしかに、そうせざるを得なかったのは沖縄の人々に申し訳ないことなのですが、現実的な判断としては、もし、蒋介石が遂われずに、中国政府として条約交渉に加わっていたとしたら、沖縄の日本への帰属について容易に同意しなかった可能性が強いわけです。
また、将来の本土復帰の可能性を残すためには、中国の干渉を排除する必要もありました。
そういう観点からは、忸怩たるものはあるにせよ、アメリカの施政権下に沖縄を置き、アメリカとの二国間交渉で沖縄の地位を変更できるようにしておいたのは、まことに賢明な措置だったといえます。
このことは、昭和天皇が米軍が沖縄での駐留を長期間継続することを希望されたといわれたことも肯定的に見るべき根拠でもあります。
1947年9月に天皇の御用掛であった外交官・寺崎英成がGHQ政治顧問シーボルトの事務所を訪れて、ワシントンにあったマッカーサー元帥にその内容を伝えてもらうように依頼したものですが、アメリカの公文書公開で明らかになり革新派からは批判されました。
それによると、昭和天皇は
「アメリカ軍による占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろう」
とし、沖縄の占領が日本の主権は残した状態で四半世紀から半世紀あるいはそれ以上の期間の租借(そしゃく)の携帯に基づくものにしてはどうかとしています。
それは、アメリカが日本人に琉球列島に関して恒久的な意図がないことを理解させ、他の国、例えば、ソ連や中国が同様な権利を要求することを止めさせることになるだろうといっています。
また、寺崎は沖縄における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国との講和条約の一部とするよりも、日米間の二国間の条約によるべきだという考えを示しました(この部分が天皇の意向を反映したものかは不明です)
これをもって昭和天皇が沖縄を見捨てたという人もいますが、すんなりと沖縄が日本に戻ってくるというわけにはいかない状況のもとでは、まことに賢明な現実的判断だったと思いますし、そのことの正しさは沖縄の本土復帰で立証されたのだと思います。
ただし、そうだからといって、沖縄の人を守りきれず犠牲にしたことに違いはなく、ヤマトの人間が、沖縄の人々への深甚なるお詫びと感謝の気持ちを持たねばならないのは、いうまでもありません。