邪馬台国の位置については魏志倭人伝の邪馬台国へ至る記述のさまざまな解釈をもとに大和説と九州説の論争が行われていますが、卑弥呼が鬼道(信仰・神話)によって統治していると記されているにもかかわらず神話については考慮されていません。

この位置問題について神話を基に考えると概略次のようになります。

邪馬台国の時代日本は銅鐸信仰圏(大和・須佐之男命・火山神・音の神)と銅矛信仰圏(九州・天照大御神・光の神・後に銅鏡信仰に発展)に分かれていたので、卑弥呼がどちらの信仰圏に属していたかが重要です。

魏志倭人伝の卑弥呼は銅鏡(光の神)を尊重していたという記述などから考えると銅矛信仰圏に属しており、したがって邪馬台国は九州にあったと考えられます。

それでは銅鐸信仰の中心であった大和は何かというと、邪馬台国と対立していたと記されている狗奴国であると考えられます。

卑弥呼の死後、邪馬台国は再び乱れたが、神武が邪馬台国(九州)を平定し、神武はさらに全国統一を目指して大和に進行(神武東征)し、狗奴国に勝って狗奴国勢を出雲に追放しました。

神武が始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と呼ばれたのは、この二つの信仰圏を統一(全国統一)したことによります。(卑弥呼は銅矛信仰圏の支配者であったので、全国統一者ではないため始馭天下之天皇にはあたりません。)

神武は二つの信仰圏の統一を進めるため、九州の銅矛信仰と大和の銅鐸信仰を禁止し、天照大御神を最高神とする全国統一の銅鏡信仰(天孫降臨信仰)を普及させました。この時銅鐸は土中へ埋められたり、銅鏡に再鋳造されました。

また、神武は天孫降臨信仰に基づき、死後は高天原に返るための施設として前方後円墳(虹卵型古墳)を造営し全国に広めました。

一方、銅矛信仰圏の出雲に去った須佐之男命の信仰者は、死後の世界として高天原を拒否し、須佐之男命の支配地である海中の黄泉国へ行くことを望みました、そのため墳墓は四隅突出型墳丘墓を造りましたがこれは亀型古墳であり、亀の背に乗って海中の黄泉国へ行こうとしたのです。

前方後円墳信仰(古墳時代)は仏教が伝来し、死後は極楽浄土へ行くという思想が普及するまで続きました。